昔から、「充電期間」とか、ホントにいるの?それ?って思うタチでした。
な〜んか、うさんくさいでしょ?
別に走りながらでも景色は見えるし、新しい外部刺激は飛び込んでくるじゃないですか。
「去年はいろいろ活動することが多かったので、今年はまた少しゆっくりのペース、お休みとかもいただこうかなと」
っていうのが、あんまりね〜っと思ってました。
今、僕、わりに忙しいんです。
もちろん世の中にあふれる忙しさの序列の中では、圧倒的に低いでしょうけど、
あと一週間後に舞台本番、にも関わらず、まだ全然じゃん!。とか、大学生ですから、ここに来ての課題ラッシュ、(あ〜グループワークはうざったいですね。一人でやったほうがなんぼかマシ。といっても今日はとても有機的な生産性が生まれました。)とか、バイトとか。(あぁ夏期講習が近づいています)
読みたい本もありますから、てんてこまいですね。
で、そうなると、なんかね、やたらBlogが書けないんですね。
考えてることとか、感じてることとかいっぱいあるのに、書けないんです。
で、何故かなって思うと、
それはあまりに現実の行動とリンクした考えだし、「生活すぎる」からだ〜って思ったんです。
僕の嫌いな、今日は○○して〜、ちょっと落ち込んで〜みたいな感じになるから。
もっとちゃんと言うと、ほどよい抽象感がないんですね。
というか、思考が具合的すぎる。
どうしたらここは演技的にブレイクスルーできるだろう?
とか、
あぁ、でもやっぱりデザインってさぁ。
とか、
思考のベクトルが、即対象と密接だから、なかなか一般化しえないんですね。
「いや、それを一般化するのが、大事やろ」とご指摘を受けそうですが、
これが難しくて。
難しいというか、そんな方向に頭が向かないんです、全然。
やれやれ。
Blogってどういう時に書きたくなるんですかね。
人それぞれなんですが、人それぞれなんだろうこそ、気になります。
生活に張りがあるとき?
それとも何にもない休みの夕方?
もっとたくさんの理由があるでしょう。(習慣とか、訓練とか)
どうなんですかね。
ともかく僕は、今、書きにくいんです。
「じゃあ、書くなよ」とおっしゃらないで。
書きたいのです。たった一つの閲覧のために。
でも、「あなた」はもう愛想をつかしたのかもしれませんね。
僕は何て、愚かなんだ。
2007年6月29日金曜日
「私の」アンリ ー 幸福で、愛すべき自己分裂症
私は、アンリ・カルティエ・ブレッソンが好きだ。
彼の写真は、今でこそ普通になったかもしれないが、世界にあふれる最高の一瞬(それは叙情においても、構図においても)を切り取る。(切り取る、といのは暴力的、恣意的すぎるかもしれない。彼はもっと優しいし、穏やかだ。)
ーーーー
いろいろな芸術論があるでしょうが、それは全て認められるものです。
なので、私が以下に書くお話も、「まぁそんなのもあるよね」という感じでおすましください。
写真について、としてもいいし芸術一般(まぁ絵画とかですよね)もですが、
あなたが、作品と対峙して、どう思おうと、やっぱり自由なんですよね。
「あぁ、また記号テクスト論ですか」と言われるかもしれませんが、
半分あたりで、半分はちょっとニュアンスが違います。
僕は、アンリの写真のあの「薄靄」を、あの感動を言葉にはできないんですね。
それはもう「なんかいい」というだけで。
そして僕は、そういう感想っていうのは、あまり認めたくないんです。
僕は、論理も理屈も突き抜けた感性、センスがあり得ると思うんですが(当たり前のことですね)、安易にナンセンス文学とかを「いいよね」っていうやつが死ぬほど嫌いなんです。
安易に言ってるのか、それとも素晴らしいセンスで捉えてるのか、区別はつきませんし、主観意外の何ものでもないですが。
でも、僕は今、自分の「なんかいい」をそれほど不快だとは思わないんです。
別に自分のセンスを信じてるというわけじゃないんです(嗅覚には自信がありますが)。
ただ、そう思う事実なだけで。
ーーーーー
「私の」アンリ、なんですね。つまりは。
アンリ・カルティエ・ブレッソン論は、写真史的には絶対必要なんです。
何度も「読み直される」べきですが、権威ある論理は一本必要だと。
でも、私は、私の「アンリ」を持ちたいし、持つべきだと思う。
とかく僕は権威に弱いので(あらがってるし、弱点として見つめてるからがんばってますが)、「別に写真なんてしらないけど、私はいいと思うよ。なんか○○な感じがさ」って言いたい。
ーーー
今日の話は、種ですね。
いっぱい散りばめられてるし、整理されてない。
でも僕は、この荒唐無稽と文章の混乱に、
とてもウキウキした未来を見るんです。
幸福で、愛すべき自己分裂症です。
彼の写真は、今でこそ普通になったかもしれないが、世界にあふれる最高の一瞬(それは叙情においても、構図においても)を切り取る。(切り取る、といのは暴力的、恣意的すぎるかもしれない。彼はもっと優しいし、穏やかだ。)
ーーーー
いろいろな芸術論があるでしょうが、それは全て認められるものです。
なので、私が以下に書くお話も、「まぁそんなのもあるよね」という感じでおすましください。
写真について、としてもいいし芸術一般(まぁ絵画とかですよね)もですが、
あなたが、作品と対峙して、どう思おうと、やっぱり自由なんですよね。
「あぁ、また記号テクスト論ですか」と言われるかもしれませんが、
半分あたりで、半分はちょっとニュアンスが違います。
僕は、アンリの写真のあの「薄靄」を、あの感動を言葉にはできないんですね。
それはもう「なんかいい」というだけで。
そして僕は、そういう感想っていうのは、あまり認めたくないんです。
僕は、論理も理屈も突き抜けた感性、センスがあり得ると思うんですが(当たり前のことですね)、安易にナンセンス文学とかを「いいよね」っていうやつが死ぬほど嫌いなんです。
安易に言ってるのか、それとも素晴らしいセンスで捉えてるのか、区別はつきませんし、主観意外の何ものでもないですが。
でも、僕は今、自分の「なんかいい」をそれほど不快だとは思わないんです。
別に自分のセンスを信じてるというわけじゃないんです(嗅覚には自信がありますが)。
ただ、そう思う事実なだけで。
ーーーーー
「私の」アンリ、なんですね。つまりは。
アンリ・カルティエ・ブレッソン論は、写真史的には絶対必要なんです。
何度も「読み直される」べきですが、権威ある論理は一本必要だと。
でも、私は、私の「アンリ」を持ちたいし、持つべきだと思う。
とかく僕は権威に弱いので(あらがってるし、弱点として見つめてるからがんばってますが)、「別に写真なんてしらないけど、私はいいと思うよ。なんか○○な感じがさ」って言いたい。
ーーー
今日の話は、種ですね。
いっぱい散りばめられてるし、整理されてない。
でも僕は、この荒唐無稽と文章の混乱に、
とてもウキウキした未来を見るんです。
幸福で、愛すべき自己分裂症です。
2007年6月27日水曜日
今日はネタがない。
一日空いてしまいましたね。
あらら(ちょっとショックということね)。
今日は研究会だの、サークルだの、そのあとのご飯だの、いろいろイベンティブではあったのですが、
そんなこと書いても仕方ないわけで。
では、そこから抽出して一般化できるものがあったかというと、ん〜っていう感じなわけで。
目の前を探してみると〜
(今、これを書き終えました。これはまぁ、全く時間の空いたヒマがあれば、読んでください。)
(1)ロハスについて
ロハスっていう言葉は、「自己も高める」という意味だそうです。
自分について上昇志向をもって生きていこうと。
その中で、思索しながら生きるんだから、エコとかオーガニックとかいうことになるんですかね。
はい、おしまい。
(2)夏場の「じめじめ」について
京都で生まれ育ちましたから、
夏場はやっぱり「じめじめ」していたような気がします。
まぁ、「はし」の方に住んでた人はどうかわかりませんが(笑)
この、水分が飽和状態の空気に対して、何も乾いていかない、昇っていかない感じが、つらいですね。
そういえば、京都の話で。
中3の国語の問題で、京都の話が出てました。
五木寛之が誰かに向けて書いた文章なんですが、
そのある人は、パリに住むようになって、自分が京都生まれなことに感謝したそうです。
その文章曰く、京都は、
「年齢にかかわらず個人を独立人として扱い」
「国家に対して、民衆がよりかかっておらず」
「金銭関係をはっきりとしていて」
「他人に甘ったれず」
「うんぬんかんぬん・・」
といろいろ言われていましたが、だそうです。
だから民衆が国家に対して依存していない、ある程度距離を保っている(だから革命なんてものが起きる)大陸的な文化の国、北京、イタリアの例が出てましたが、とは相性がいいという話でした。
だからパリの生活にも自然に溶け込めたと。
日本は、国家と民衆が一体となった文化ですから。
でも、京都だけは違うんですって。
確かにあそこは、歴史的にみても「自治」の精神がありますよね。
だからって、褒められすぎてますよね。
まぁ、そうだそうです。
京都人のみなさん、いかがですか?(笑)
そうなると、僕は京都人ではないかもしれませんね。
私の好きなお寿司屋さんがあるんですけれど。京都にね。
祇園に引っ越したみたいで。
「あら、敷居が高くなるな〜」と、考えてますが、
「祇園デビューしちゃおう☆」なんて愚かなことも考えてます。
おいしいんですのよ。
ここ2年は、そこで年を終え、新年を迎えるのが恒例となっています。
最初はM氏と、去年はK氏と。
K氏とは、高校3年生の年末も過ごしましたからね。
僕が朝起きるまで見守っててくれました。
鏡を見ると、何故か傷だらけでした。
雪の中を、自転車でスリップしてしまったのは、おぼえてました。
おすすめは、
「涙巻き」(ネギトロの裏巻き。表がワサビで、裏がのりです。でもそんなに辛くないのよ。旨いんです)
「サバ寿司」(これはGWの時期ぐらいしか食べられませんね。絶品です。3回は頼みますから)
ぜひぜひ。
今年は誰かしら?
今、みなさん、何をしていますかね?
いや、何かおセンチですね(笑)
ふとね、思いました。
自分の世界が広がるけれど、友達の世界も広がっていきますね。
精神的なことはもちろんですが、
地理的にも自分が東京(はいはい、ホントは神奈川です)、あいつが京都、あいつがドコドコ。と。
そこでまた広げて、
広げて広げて広げて。
そういうニューラルネットワークが、無数に増殖して結合していく。
その拡大に常に目を向けていたいですね。
あぁ、あそこのあの人は今何をやってるんだろう。
mixiは、まぁ、その補完ですね。
声を聞きたいもんです。
こんなにムリしてBlogを書くのも、
あなたが見てくれているからです。
それが一日でも途絶えたら、
僕は悲嘆にくれてしまいますから。
後輩にこんなことを言われてしまいました。
演劇の練習について。
「のぶさん(僕のこと。まぁ、もう慣れました。昔から先輩後輩みたいなのは苦手です)に、何もコメントされないと」
「あぁ、私はダメなんだなって思います」
「他の人が厳しいこと言われてたりして、自分だけコメントされないと、へこみます」
だそうです。
「あら、そんな風に思ってたの」+「確かに、そうね」と思いました。
自分としては、いいときはとても「いい!」って言うし、ダメなときは、けちょんけちょんにします。
でもそれは、ある程度、を、超えてからなので、
全くできてない人には、褒めることはしますが、(教えはしても)けなしません。
それは塾で教えててもそうですね。
伝わるもんですね(笑)
tossyがよく言います。
「高校のとき、竹中くんが黙ってるのが一番恐かった」
「もう僕はいいし、勝手にやったらいいよ」っていうのが、僕が一番恐いときだそうです。
おお、やなやつ(笑)
自分に自信があるから、こんなこと言うんですね。
そういうの、顕著になってます。
今は、もう議論しません。
異文化に触れる機会は決して逃しませんが、
「この人はおそらく無理だな」って思うと、
上っ面の優しさに彩られたコミュニケーションですね。
意見なんてぶつけません。
そうなると、どれだけの人と僕は「衝突」できるのだろう。
自分の思ってることを、真面目に問えるのだろう。
それはもちろん、関係性とかもあるから、もちろん一概にセンスのマッチングだけでは考えられません。
でも、
多分、
家族とかもひっくるめて、僕が出会ってきた人の中で、
15人くらいかもしれませんね。
僕は基本的に、誰にでも、何の話でもしますけど、
そこでしっかり打ち返してくれたり、キャッチしてくれるのは、
それくらいかも。
レベルの差はあれど。
その15人くらいが集まって、話すと、どうなるのかな(笑)
もう、ビッグバンが起こって、世界を征服できてしまいそうですね。
あぁ、ごめんなさい。
そんな懐古趣味なんて、僕は好きじゃないんです。
嫌いじゃないけれど。
あなたの前に出ても恥ずかしくない人間に、なりたいんです。
今日の文章はごめんなさい。
明日も見てください。
おやすみなさい。
あらら(ちょっとショックということね)。
今日は研究会だの、サークルだの、そのあとのご飯だの、いろいろイベンティブではあったのですが、
そんなこと書いても仕方ないわけで。
では、そこから抽出して一般化できるものがあったかというと、ん〜っていう感じなわけで。
目の前を探してみると〜
(今、これを書き終えました。これはまぁ、全く時間の空いたヒマがあれば、読んでください。)
(1)ロハスについて
ロハスっていう言葉は、「自己も高める」という意味だそうです。
自分について上昇志向をもって生きていこうと。
その中で、思索しながら生きるんだから、エコとかオーガニックとかいうことになるんですかね。
はい、おしまい。
(2)夏場の「じめじめ」について
京都で生まれ育ちましたから、
夏場はやっぱり「じめじめ」していたような気がします。
まぁ、「はし」の方に住んでた人はどうかわかりませんが(笑)
この、水分が飽和状態の空気に対して、何も乾いていかない、昇っていかない感じが、つらいですね。
そういえば、京都の話で。
中3の国語の問題で、京都の話が出てました。
五木寛之が誰かに向けて書いた文章なんですが、
そのある人は、パリに住むようになって、自分が京都生まれなことに感謝したそうです。
その文章曰く、京都は、
「年齢にかかわらず個人を独立人として扱い」
「国家に対して、民衆がよりかかっておらず」
「金銭関係をはっきりとしていて」
「他人に甘ったれず」
「うんぬんかんぬん・・」
といろいろ言われていましたが、だそうです。
だから民衆が国家に対して依存していない、ある程度距離を保っている(だから革命なんてものが起きる)大陸的な文化の国、北京、イタリアの例が出てましたが、とは相性がいいという話でした。
だからパリの生活にも自然に溶け込めたと。
日本は、国家と民衆が一体となった文化ですから。
でも、京都だけは違うんですって。
確かにあそこは、歴史的にみても「自治」の精神がありますよね。
だからって、褒められすぎてますよね。
まぁ、そうだそうです。
京都人のみなさん、いかがですか?(笑)
そうなると、僕は京都人ではないかもしれませんね。
私の好きなお寿司屋さんがあるんですけれど。京都にね。
祇園に引っ越したみたいで。
「あら、敷居が高くなるな〜」と、考えてますが、
「祇園デビューしちゃおう☆」なんて愚かなことも考えてます。
おいしいんですのよ。
ここ2年は、そこで年を終え、新年を迎えるのが恒例となっています。
最初はM氏と、去年はK氏と。
K氏とは、高校3年生の年末も過ごしましたからね。
僕が朝起きるまで見守っててくれました。
鏡を見ると、何故か傷だらけでした。
雪の中を、自転車でスリップしてしまったのは、おぼえてました。
おすすめは、
「涙巻き」(ネギトロの裏巻き。表がワサビで、裏がのりです。でもそんなに辛くないのよ。旨いんです)
「サバ寿司」(これはGWの時期ぐらいしか食べられませんね。絶品です。3回は頼みますから)
ぜひぜひ。
今年は誰かしら?
今、みなさん、何をしていますかね?
いや、何かおセンチですね(笑)
ふとね、思いました。
自分の世界が広がるけれど、友達の世界も広がっていきますね。
精神的なことはもちろんですが、
地理的にも自分が東京(はいはい、ホントは神奈川です)、あいつが京都、あいつがドコドコ。と。
そこでまた広げて、
広げて広げて広げて。
そういうニューラルネットワークが、無数に増殖して結合していく。
その拡大に常に目を向けていたいですね。
あぁ、あそこのあの人は今何をやってるんだろう。
mixiは、まぁ、その補完ですね。
声を聞きたいもんです。
こんなにムリしてBlogを書くのも、
あなたが見てくれているからです。
それが一日でも途絶えたら、
僕は悲嘆にくれてしまいますから。
後輩にこんなことを言われてしまいました。
演劇の練習について。
「のぶさん(僕のこと。まぁ、もう慣れました。昔から先輩後輩みたいなのは苦手です)に、何もコメントされないと」
「あぁ、私はダメなんだなって思います」
「他の人が厳しいこと言われてたりして、自分だけコメントされないと、へこみます」
だそうです。
「あら、そんな風に思ってたの」+「確かに、そうね」と思いました。
自分としては、いいときはとても「いい!」って言うし、ダメなときは、けちょんけちょんにします。
でもそれは、ある程度、を、超えてからなので、
全くできてない人には、褒めることはしますが、(教えはしても)けなしません。
それは塾で教えててもそうですね。
伝わるもんですね(笑)
tossyがよく言います。
「高校のとき、竹中くんが黙ってるのが一番恐かった」
「もう僕はいいし、勝手にやったらいいよ」っていうのが、僕が一番恐いときだそうです。
おお、やなやつ(笑)
自分に自信があるから、こんなこと言うんですね。
そういうの、顕著になってます。
今は、もう議論しません。
異文化に触れる機会は決して逃しませんが、
「この人はおそらく無理だな」って思うと、
上っ面の優しさに彩られたコミュニケーションですね。
意見なんてぶつけません。
そうなると、どれだけの人と僕は「衝突」できるのだろう。
自分の思ってることを、真面目に問えるのだろう。
それはもちろん、関係性とかもあるから、もちろん一概にセンスのマッチングだけでは考えられません。
でも、
多分、
家族とかもひっくるめて、僕が出会ってきた人の中で、
15人くらいかもしれませんね。
僕は基本的に、誰にでも、何の話でもしますけど、
そこでしっかり打ち返してくれたり、キャッチしてくれるのは、
それくらいかも。
レベルの差はあれど。
その15人くらいが集まって、話すと、どうなるのかな(笑)
もう、ビッグバンが起こって、世界を征服できてしまいそうですね。
あぁ、ごめんなさい。
そんな懐古趣味なんて、僕は好きじゃないんです。
嫌いじゃないけれど。
あなたの前に出ても恥ずかしくない人間に、なりたいんです。
今日の文章はごめんなさい。
明日も見てください。
おやすみなさい。
2007年6月25日月曜日
居眠り、車。
運転はもちろんしてないんですが、(できませんしね)
友達とのドライブ中に、あまりの睡魔に、コトコトとなってしまいました。
この場を借りて陳謝。「ごめんね」
眠たいのに、それと戦って、
意識が落ちる→「おっと」、落ちる→「うわっと」を繰り返すときは、
僕はそれが夢の中なのか現実なのか、その境界がわからなくなります。
しゃべっているつもりでも、only心の中だけ、みたいなこともあります。
(あれ、今、僕、口に出してたか?)みたいな。
最近は以前のように言語だの現象だの、とblogで書くことも少ないですね。
みなさんのアクセスの数にひやひやしながら、
「あぁ、こんな話してもダメかなぁ」
「あ、でも以外にこの回に、急増してるぞ」
みたいな一喜一憂に、小躍りし続けておりますのです。
いや、でも考えてませんよ。思ったことを書きますし、書きたいことを書かせていただいています。
少し、落ち着いたのかもしれません。
何かに悩んでいるときって、根源的な知を求めるんですよね、僕は。
宇宙とか、言葉とか、身近な人間関係とか、そういう全ての「悩み」。
「なんでこの世界なんて、あるの?」
「僕の目に触れるこの机は、なぜ「机」として僕に映るの?」
「なんで僕の言葉を、そんな風に理解するの!?」
そんな有象無象の「考え」たちが頭にあるときは、何かその思索の出発、ヒント、あわよくば解答、絶対的な拠り所を求めて、先人達の知に触れようとするのでしょうね。
今は少し落ち着いてますから、そういう「from 内省」の取り込みではなく、「外向き」な取り込み、どんどん新しいものに触れたいという姿勢の取り込みを求めてるようで、哲学よりは文学ですね。
別に、二つの取り込みの姿勢は表裏一体というか、不可分で、あえて分けて記述しなくてもいいと思ってますが、
まぁ便宜的に。
だから小説を読むことが多いのですね。
たくさんのシチュエーションがあり、たくさんのキャラクターがあり、様々な事件が起こり、種々多様な感情がめぐる。
そういうたくさんの「妙」に、心躍り、感動し、納得し、疑問をおぼえ、考え、また新たな妙に触れ、心躍り、感動し・・・。
そういう「外部意外性の渦」に自分を巻き込んでいっているという感じです。
そしてまた内省に戻る。
なるほど、僕の中の哲学と文学は、ばっさりやっちゃえばこういう関係で、僕を作ってたのね。
今、同居人(これからはtossyと書きます)を、
「ライターの掃除をしてるなぁ」と横目でとらえていたのですが、
その手元からいきなり何か「燃えたもの!=布+炎!」が飛び出ました。
彼は机の上のそれを慌てて鎮火させようとしていました。
お互いビックリしながら、
「どうしたん!?」
「いや、何かティッシュに火をつけたらどうなるのかなぁ・・って」
「・・・・」
外部からの意外性というのは、自分でも引き起こせるのですね。
ただ、
「火傷しないくらいにしないといけないなぁ」
と、ひょんなことから学びました。
感謝感謝。(ばーか)
友達とのドライブ中に、あまりの睡魔に、コトコトとなってしまいました。
この場を借りて陳謝。「ごめんね」
眠たいのに、それと戦って、
意識が落ちる→「おっと」、落ちる→「うわっと」を繰り返すときは、
僕はそれが夢の中なのか現実なのか、その境界がわからなくなります。
しゃべっているつもりでも、only心の中だけ、みたいなこともあります。
(あれ、今、僕、口に出してたか?)みたいな。
最近は以前のように言語だの現象だの、とblogで書くことも少ないですね。
みなさんのアクセスの数にひやひやしながら、
「あぁ、こんな話してもダメかなぁ」
「あ、でも以外にこの回に、急増してるぞ」
みたいな一喜一憂に、小躍りし続けておりますのです。
いや、でも考えてませんよ。思ったことを書きますし、書きたいことを書かせていただいています。
少し、落ち着いたのかもしれません。
何かに悩んでいるときって、根源的な知を求めるんですよね、僕は。
宇宙とか、言葉とか、身近な人間関係とか、そういう全ての「悩み」。
「なんでこの世界なんて、あるの?」
「僕の目に触れるこの机は、なぜ「机」として僕に映るの?」
「なんで僕の言葉を、そんな風に理解するの!?」
そんな有象無象の「考え」たちが頭にあるときは、何かその思索の出発、ヒント、あわよくば解答、絶対的な拠り所を求めて、先人達の知に触れようとするのでしょうね。
今は少し落ち着いてますから、そういう「from 内省」の取り込みではなく、「外向き」な取り込み、どんどん新しいものに触れたいという姿勢の取り込みを求めてるようで、哲学よりは文学ですね。
別に、二つの取り込みの姿勢は表裏一体というか、不可分で、あえて分けて記述しなくてもいいと思ってますが、
まぁ便宜的に。
だから小説を読むことが多いのですね。
たくさんのシチュエーションがあり、たくさんのキャラクターがあり、様々な事件が起こり、種々多様な感情がめぐる。
そういうたくさんの「妙」に、心躍り、感動し、納得し、疑問をおぼえ、考え、また新たな妙に触れ、心躍り、感動し・・・。
そういう「外部意外性の渦」に自分を巻き込んでいっているという感じです。
そしてまた内省に戻る。
なるほど、僕の中の哲学と文学は、ばっさりやっちゃえばこういう関係で、僕を作ってたのね。
今、同居人(これからはtossyと書きます)を、
「ライターの掃除をしてるなぁ」と横目でとらえていたのですが、
その手元からいきなり何か「燃えたもの!=布+炎!」が飛び出ました。
彼は机の上のそれを慌てて鎮火させようとしていました。
お互いビックリしながら、
「どうしたん!?」
「いや、何かティッシュに火をつけたらどうなるのかなぁ・・って」
「・・・・」
外部からの意外性というのは、自分でも引き起こせるのですね。
ただ、
「火傷しないくらいにしないといけないなぁ」
と、ひょんなことから学びました。
感謝感謝。(ばーか)
2007年6月24日日曜日
読書案内。
トルーマン・カポーティ:「クリスマスの思い出」
ある短編集の中のひとつです。
僕は、これは少しチープですがそれでも、この話の中には、現代のネットワーク社会、「豊かな社会」の一つの在り方、人の生き方みたいんなものが、読み取れないでもない気がします。
カポーティの小説は、「内と外」「平穏と刺激」など、相反するふたつの項をキャラクターたちが演じるというものが多いようです。
そういうシステマティックなものが僕は好きなのですが、そういう見方って、作品の世界を少しまとめすぎちゃう可能性がありますよね。
文学理論みたいなものって、確かに好きだしおもしろいんだけど、何でもかんでも「あてはめたり」「まとめたり」すると、
作者以上に、作品が死んじゃう気がします。
そういうことを、少し思いました。
ある短編集の中のひとつです。
僕は、これは少しチープですがそれでも、この話の中には、現代のネットワーク社会、「豊かな社会」の一つの在り方、人の生き方みたいんなものが、読み取れないでもない気がします。
カポーティの小説は、「内と外」「平穏と刺激」など、相反するふたつの項をキャラクターたちが演じるというものが多いようです。
そういうシステマティックなものが僕は好きなのですが、そういう見方って、作品の世界を少しまとめすぎちゃう可能性がありますよね。
文学理論みたいなものって、確かに好きだしおもしろいんだけど、何でもかんでも「あてはめたり」「まとめたり」すると、
作者以上に、作品が死んじゃう気がします。
そういうことを、少し思いました。
2007年6月23日土曜日
Miss Holly!! How's it going?
Deer Miss Holiday Golightly.
僕の英語は稚拙だから、どうか許して。
アフリカはどう?
こっちはやっとまずまずの暮らしが出来るようになってきました。
(僕ももうあれこれ浮遊感を感じることも昔に比べて減ったしね:-) )
僕にはそっちの生活なんて全く想像もつかないけれど、たまに届いていた君の手紙からすると、君にはやっぱりマッチしているんだろうね。
君があの長方形の建物と、あの街からいなくなってずいぶんと経つ。
その間も僕は、君とはしゃいだあの橋や、公園(僕はあやうく死にそうになった!)をたまに歩けば、
(本当にバカらしいんだけど幾度かは実際に君と一緒にいるようにも思ったんだ!本当に、現実のようにね。)
こうして手紙を書こうと思っても、君のことだから、またどこか遠いところで楽しんでいるんだろうし、結局見ることはないかもしれないな。
それでも、僕は君が大好きだから、やっぱりこれをポストに入れることにするよ。
考えても仕方ないってことに気づいたんだ。君はいつも"traveling"だしね。
また近々、あの場所達(君がお面を盗んだグラッセリーにも行かなくちゃ)を訪れることもあるかもしれない。
その時には、また君の夢を見るんだろうか?
「夢で会いましょう。」
from your "Fred"
僕の英語は稚拙だから、どうか許して。
アフリカはどう?
こっちはやっとまずまずの暮らしが出来るようになってきました。
(僕ももうあれこれ浮遊感を感じることも昔に比べて減ったしね:-) )
僕にはそっちの生活なんて全く想像もつかないけれど、たまに届いていた君の手紙からすると、君にはやっぱりマッチしているんだろうね。
君があの長方形の建物と、あの街からいなくなってずいぶんと経つ。
その間も僕は、君とはしゃいだあの橋や、公園(僕はあやうく死にそうになった!)をたまに歩けば、
(本当にバカらしいんだけど幾度かは実際に君と一緒にいるようにも思ったんだ!本当に、現実のようにね。)
こうして手紙を書こうと思っても、君のことだから、またどこか遠いところで楽しんでいるんだろうし、結局見ることはないかもしれないな。
それでも、僕は君が大好きだから、やっぱりこれをポストに入れることにするよ。
考えても仕方ないってことに気づいたんだ。君はいつも"traveling"だしね。
また近々、あの場所達(君がお面を盗んだグラッセリーにも行かなくちゃ)を訪れることもあるかもしれない。
その時には、また君の夢を見るんだろうか?
「夢で会いましょう。」
from your "Fred"
weblog論。
なんて語れません。僕は。
これはメディアですから、それはどうパーソナルに適合させようが結構。
ここらへんはメディア学をやってらっしゃる方からは、思いっきり批判が来そうですね。
確かにメディアのメディア自身のメッセージ性はわからないこともありませんが、すみません、あまりその方面には明るくないもので。
誰かよければ語って下さい。
でも、なんでこんなタイトルにしたかって言うと、
各人それぞれ、一瞬でも「振り返ったら」いいんじゃないかな、って思ったんですね。
おこがましく、えぇ、とても傲慢な発言ですね。
そんなつもりはないんだけれど、でもね。
日記ってこともないでしょ?でも、じゃあコラムかよっていうと的外れ。
あぁ、エッセイか。
確かに、しっくり来ますね。
よく僕は、エッセイ、随筆ですね、それを授業で教えるときには、
「エッセイは、「体験」+「感想」だ。」
と教えます。
まぁざっくり拾いすぎですが、おおむねこれで小中生にはいいかなと。
ということは、weblogも、
体験と感想、そこから「思いめぐらす」ことくらいに考えるのがいいかもしれませんね。
でも、別に、何でもいいじゃんな。
バトンとかも、面白いよ、あれも。
ま、好きにやっちゃって〜(あ〜、ギャッツビ〜)
果てしなく無駄なweblog。
これはメディアですから、それはどうパーソナルに適合させようが結構。
ここらへんはメディア学をやってらっしゃる方からは、思いっきり批判が来そうですね。
確かにメディアのメディア自身のメッセージ性はわからないこともありませんが、すみません、あまりその方面には明るくないもので。
誰かよければ語って下さい。
でも、なんでこんなタイトルにしたかって言うと、
各人それぞれ、一瞬でも「振り返ったら」いいんじゃないかな、って思ったんですね。
おこがましく、えぇ、とても傲慢な発言ですね。
そんなつもりはないんだけれど、でもね。
日記ってこともないでしょ?でも、じゃあコラムかよっていうと的外れ。
あぁ、エッセイか。
確かに、しっくり来ますね。
よく僕は、エッセイ、随筆ですね、それを授業で教えるときには、
「エッセイは、「体験」+「感想」だ。」
と教えます。
まぁざっくり拾いすぎですが、おおむねこれで小中生にはいいかなと。
ということは、weblogも、
体験と感想、そこから「思いめぐらす」ことくらいに考えるのがいいかもしれませんね。
でも、別に、何でもいいじゃんな。
バトンとかも、面白いよ、あれも。
ま、好きにやっちゃって〜(あ〜、ギャッツビ〜)
果てしなく無駄なweblog。
2006年の、ラブレター。(ある小説の抜粋)
お元気ですか?
僕は元気です。
つまらないことを言いました。ごめんなさい。
今僕は、東京に戻るバスの中です。みんな疲れているみたいで、僕もだんだん、うつらうつらしてきました。
昨夜は本当にどうもありがとう。(これをあなたが読むころにはもう少し時間が経っていますね)
でも、いささかお酒を飲み過ぎました。
楽しい夜でした。
少し肌寒い夜でしたね。
あなたは、「春はもう少し暖かいのに」とつぶやきました。
それでも桜は、本当に綺麗で、
夜の青さはそのピンクとともに、それは幻想的な情景を開いていました。
あの森(本当は公園といった方が近い場所なのかもしれません。でもあれは、森でしょう?)の街頭の光がまぶしすぎたのを、僕は今でも目の前に感じます。
自転車に乗ってそこに着いたあと、僕たちは散歩をしました。
砂利がいっぱいに敷き詰まったその道は、
何だか果てがなくて、
少しお酒の入った二人は、すっかり立ち止まって、惚けてしまいましたね。
そのとき僕は、あなたにキスをしたのでした。
それは、とても、私の中ではロマンチックであって、
自分が何かおとぎ話の世界にいるかのように、ほのかなストーリーの一編であるかのように、
自分をはなれた不思議な視点で、それを見ていました。
幾年も経た恋心は、まったく、私にはわからないものになるのですね。
僕は、自分の人生の中で、あの時ほどの「時間の美しい帰着」を体験したことはありません。
丁寧に重ねられた時間が、本当に一瞬の最後、それは桜のようにはかなかったのですが、実に綺麗にその花弁を開かせて、散ったのです。
その後の数時間は、とても甘美で、僕はもう眠ってしまいそうだった。
そんな言葉を、あのときから僕は心の中にしまい込んで、慎重に丁寧に繰り返してきました。
不誠実な文章です。
本当は、書き尽くせていないものを、集中力の途切れたものを、披露するべきではないのかもしれない。
そんな僕の不真面目を、あなたは笑ってくれますか?
僕は元気です。
つまらないことを言いました。ごめんなさい。
今僕は、東京に戻るバスの中です。みんな疲れているみたいで、僕もだんだん、うつらうつらしてきました。
昨夜は本当にどうもありがとう。(これをあなたが読むころにはもう少し時間が経っていますね)
でも、いささかお酒を飲み過ぎました。
楽しい夜でした。
少し肌寒い夜でしたね。
あなたは、「春はもう少し暖かいのに」とつぶやきました。
それでも桜は、本当に綺麗で、
夜の青さはそのピンクとともに、それは幻想的な情景を開いていました。
あの森(本当は公園といった方が近い場所なのかもしれません。でもあれは、森でしょう?)の街頭の光がまぶしすぎたのを、僕は今でも目の前に感じます。
自転車に乗ってそこに着いたあと、僕たちは散歩をしました。
砂利がいっぱいに敷き詰まったその道は、
何だか果てがなくて、
少しお酒の入った二人は、すっかり立ち止まって、惚けてしまいましたね。
そのとき僕は、あなたにキスをしたのでした。
それは、とても、私の中ではロマンチックであって、
自分が何かおとぎ話の世界にいるかのように、ほのかなストーリーの一編であるかのように、
自分をはなれた不思議な視点で、それを見ていました。
幾年も経た恋心は、まったく、私にはわからないものになるのですね。
僕は、自分の人生の中で、あの時ほどの「時間の美しい帰着」を体験したことはありません。
丁寧に重ねられた時間が、本当に一瞬の最後、それは桜のようにはかなかったのですが、実に綺麗にその花弁を開かせて、散ったのです。
その後の数時間は、とても甘美で、僕はもう眠ってしまいそうだった。
そんな言葉を、あのときから僕は心の中にしまい込んで、慎重に丁寧に繰り返してきました。
不誠実な文章です。
本当は、書き尽くせていないものを、集中力の途切れたものを、披露するべきではないのかもしれない。
そんな僕の不真面目を、あなたは笑ってくれますか?
2007年6月22日金曜日
2007年6月21日木曜日
また、少しだけ読む。
村上春樹を、また、少しだけ読む。
彼のことは、前が100だとしたら、もうあまり嫌いじゃないほど(30くらい)になったかな。
そういう書き方の在り方が僕にもわかるようになってきたし、空気を味わうっていう見方をするようになったから。
それでも僕は、こういうジョイス的な語り方、こっちに何の視座も与えてくれず、アドホックに読み進めていかなくてはいけない語り方は、
苦手なんだよなぁ。
もう一巡りしたら、また読もう。
その時は、愛し合えると願うばかりだ。
彼のことは、前が100だとしたら、もうあまり嫌いじゃないほど(30くらい)になったかな。
そういう書き方の在り方が僕にもわかるようになってきたし、空気を味わうっていう見方をするようになったから。
それでも僕は、こういうジョイス的な語り方、こっちに何の視座も与えてくれず、アドホックに読み進めていかなくてはいけない語り方は、
苦手なんだよなぁ。
もう一巡りしたら、また読もう。
その時は、愛し合えると願うばかりだ。
バゲットをモシャモシャ。
あぁ、天気がいい!
tossy(ルームメイト)が流すsummerなtuneを背景に、
こう、フレッシュバジルとトマト、にモッツァレラ、レタス、生ハムがはさまった(みたいな!)バゲットを、
モシャモシャやりたい!
あぁ、モシャモシャ。
されどモシャモシャ。
しからずんばモシャモシャ。
しかし、いいお日さま具合だ。
ふれーっしゅ。
tossy(ルームメイト)が流すsummerなtuneを背景に、
こう、フレッシュバジルとトマト、にモッツァレラ、レタス、生ハムがはさまった(みたいな!)バゲットを、
モシャモシャやりたい!
あぁ、モシャモシャ。
されどモシャモシャ。
しからずんばモシャモシャ。
しかし、いいお日さま具合だ。
ふれーっしゅ。
2007年6月20日水曜日
表現の自由について、その保障と警句。+ 私の5年間。
あなたは、何を言うことも可能です。
私はそれを真実ではない、などとは決して言いません。
真実なんていう実体はないですし、テクスト(=実体)はどう読まれてもいいのですから。
しかし、では私は、どうやってあなたを否定できるのか?
それは、乗り越えることのみにおいて可能と言えるでしょう。
あなたの意見をAとして、私がそのAについて考えた上に、意見Bを打ち立てたとすれば、
それは否定を正当化できるものですね。
仮に私がAを想定していなかったとしても、AをBの名の下に否定できれば、十分に上記を満たすはずです。
しかし、ゴールはありません。
私は決してBに甘んずることなく、それを乗り越える考えCを新たに創出すべく、そうして永遠の思考をしなくてはいけないのですから。
常にCを疑い、Dを模索し、そこからDを疑い、Eを模索する・・・・そして、Zになり。しかし、その先は無限のインフィニティ。
この「打ち立て」と「乗り越え」の無限ループ(それは時に地獄です)こそが、唯一、表現の自由を保障し、またその責任を課すものであり、その100%の自由に罰を与えうるものなのであります。
「では、僕たちはただ黙ることしかできないじゃないか!?」
とは、なりません。
なぜなら私たちは、生きていくことの中で常に「選択と決断を迫られる主体」であるからです。
その時々の事象に対して、常に私たちは決断をし、語らなければならない。
語らないということも、語ることなのです。
いかに「語れないことを語るか」「語らないことを語るか」という問題なのです。
誰一人としてこの世界から抜け出せず、また、全ての一人がこの世界の要素なのだとしたら、
私たちは絶対に語ることのできない中で、しかし絶対に語り続けなければなりません。
そして絶対に出口は見いだせない中で、しかし絶対に考え続けなければならないのです。
それでも、そうして語り続けることによって、それがどれだけちっぽけかはわかりませんが、すくなくともその時々に自分が最善だと考えた世界が近づいて来ていると発見できたら、それはとても素晴らしい生き方を体現できているのですよ。
常に、構築されたもの(世界中の意見、知識の体系)に対して乗り越えようとする姿勢と覚悟の下に、
そこから自分の行う決断と発話の全ての責任と、そうして出来上がる世界の実体を、自ら一身に引き受け、
ときにはその衝撃によって瀕死となっても、自分の脳みそをデッドヒートで働かせ続け、
また新たな乗り越えを画策し、実行する。
そうして自分自身を、世界に体現し続ける。
そして、また振り出しに戻る。
しかし、そこにはすくなくとも希望があり、
私は最前線で奮闘しているという実感も持つ。
この、「脱-構築」と「アンガージュマン」。
これが15才の僕が、二十歳になって見つけた、ひとつの帰結であり、過ぎ去った通過点に、今、なりました。
私はそれを真実ではない、などとは決して言いません。
真実なんていう実体はないですし、テクスト(=実体)はどう読まれてもいいのですから。
しかし、では私は、どうやってあなたを否定できるのか?
それは、乗り越えることのみにおいて可能と言えるでしょう。
あなたの意見をAとして、私がそのAについて考えた上に、意見Bを打ち立てたとすれば、
それは否定を正当化できるものですね。
仮に私がAを想定していなかったとしても、AをBの名の下に否定できれば、十分に上記を満たすはずです。
しかし、ゴールはありません。
私は決してBに甘んずることなく、それを乗り越える考えCを新たに創出すべく、そうして永遠の思考をしなくてはいけないのですから。
常にCを疑い、Dを模索し、そこからDを疑い、Eを模索する・・・・そして、Zになり。しかし、その先は無限のインフィニティ。
この「打ち立て」と「乗り越え」の無限ループ(それは時に地獄です)こそが、唯一、表現の自由を保障し、またその責任を課すものであり、その100%の自由に罰を与えうるものなのであります。
「では、僕たちはただ黙ることしかできないじゃないか!?」
とは、なりません。
なぜなら私たちは、生きていくことの中で常に「選択と決断を迫られる主体」であるからです。
その時々の事象に対して、常に私たちは決断をし、語らなければならない。
語らないということも、語ることなのです。
いかに「語れないことを語るか」「語らないことを語るか」という問題なのです。
誰一人としてこの世界から抜け出せず、また、全ての一人がこの世界の要素なのだとしたら、
私たちは絶対に語ることのできない中で、しかし絶対に語り続けなければなりません。
そして絶対に出口は見いだせない中で、しかし絶対に考え続けなければならないのです。
それでも、そうして語り続けることによって、それがどれだけちっぽけかはわかりませんが、すくなくともその時々に自分が最善だと考えた世界が近づいて来ていると発見できたら、それはとても素晴らしい生き方を体現できているのですよ。
常に、構築されたもの(世界中の意見、知識の体系)に対して乗り越えようとする姿勢と覚悟の下に、
そこから自分の行う決断と発話の全ての責任と、そうして出来上がる世界の実体を、自ら一身に引き受け、
ときにはその衝撃によって瀕死となっても、自分の脳みそをデッドヒートで働かせ続け、
また新たな乗り越えを画策し、実行する。
そうして自分自身を、世界に体現し続ける。
そして、また振り出しに戻る。
しかし、そこにはすくなくとも希望があり、
私は最前線で奮闘しているという実感も持つ。
この、「脱-構築」と「アンガージュマン」。
これが15才の僕が、二十歳になって見つけた、ひとつの帰結であり、過ぎ去った通過点に、今、なりました。
目を見開く、驚き。
僕は、デリダのデリダ自身のテクストを読む立場では、まだない。
デリダのテクストは、誰かのテクストの読解についてのテクストであることが多いから、
僕がデリダを「読む」ことは、読解の読解、それもハイデガーやフッサールの一次読解の、二次読解を読まなければいけないことになる。
それは、もはや絶望をともなう。
その打破のために、デリダについて書かれたものたち(こういうのを読むのはもう嫌だし、飽きているのだけれど)を読んでいるのだけれど。
その一つに、すごいことが書かれていた。
『「脱構築的読解は」、決して読解を拒むものではない。それどころか、それは徹底的な読解を要求する。読解に読解を重ねたすえに、結局読解が「決定不可能なもの」にしかたどりつかないこと、テクストとは差出人も宛先もない手紙だということを明らかにするのだ。』
って言われてもね。
もう死んじゃうよね。
じゃあ、一つの結論は、思考の「諦め」でしかなくなっちゃうじゃん。
永遠の自己内省、というか思索を繰り返すこと以外に、知的誠実はあり得ないことになるよね。
出口なし。
それでも、人間は、いつ何時も「決断しなくてはいけない」存在だから、
その決断の織り成すものが、その人であり、その人の人生なんだけどさ。
だから、決して「語ること」は無駄ではないんだよ。
むしろ語らないことは、最低だから。
語り得ないものを語り続けることが、絶対的に正義なんです。
その正義も乗り越えられるけど。
いつか死ぬからね、その死がどれだけ偉大かっていうのは、どれだけ「考えたか」になっちゃうんだよね。
つらいね。
だって、考えることをやめる、っていうことが出来ないじゃない。
ゴールなし、って言われたらさ。
脱構築こそが、正義っていわれたら、もうただただ思考の海を、しかも果てのない海を泳ぎ続けることしか出来ないわけでしょ。
「知」に誠実であろうとすれば、賢くあろうとすれば、絶対そこから逃げられないわけじゃない。
あぁ、お酒とか飲んじゃったから、さっき僕はロラン・バルトの、バルト自身のエクリチュールを諦めたけどさ、失礼だから。
苦しいな〜。
デリダのテクストは、誰かのテクストの読解についてのテクストであることが多いから、
僕がデリダを「読む」ことは、読解の読解、それもハイデガーやフッサールの一次読解の、二次読解を読まなければいけないことになる。
それは、もはや絶望をともなう。
その打破のために、デリダについて書かれたものたち(こういうのを読むのはもう嫌だし、飽きているのだけれど)を読んでいるのだけれど。
その一つに、すごいことが書かれていた。
『「脱構築的読解は」、決して読解を拒むものではない。それどころか、それは徹底的な読解を要求する。読解に読解を重ねたすえに、結局読解が「決定不可能なもの」にしかたどりつかないこと、テクストとは差出人も宛先もない手紙だということを明らかにするのだ。』
って言われてもね。
もう死んじゃうよね。
じゃあ、一つの結論は、思考の「諦め」でしかなくなっちゃうじゃん。
永遠の自己内省、というか思索を繰り返すこと以外に、知的誠実はあり得ないことになるよね。
出口なし。
それでも、人間は、いつ何時も「決断しなくてはいけない」存在だから、
その決断の織り成すものが、その人であり、その人の人生なんだけどさ。
だから、決して「語ること」は無駄ではないんだよ。
むしろ語らないことは、最低だから。
語り得ないものを語り続けることが、絶対的に正義なんです。
その正義も乗り越えられるけど。
いつか死ぬからね、その死がどれだけ偉大かっていうのは、どれだけ「考えたか」になっちゃうんだよね。
つらいね。
だって、考えることをやめる、っていうことが出来ないじゃない。
ゴールなし、って言われたらさ。
脱構築こそが、正義っていわれたら、もうただただ思考の海を、しかも果てのない海を泳ぎ続けることしか出来ないわけでしょ。
「知」に誠実であろうとすれば、賢くあろうとすれば、絶対そこから逃げられないわけじゃない。
あぁ、お酒とか飲んじゃったから、さっき僕はロラン・バルトの、バルト自身のエクリチュールを諦めたけどさ、失礼だから。
苦しいな〜。
2007年6月19日火曜日
噛みつき症候群。
最近の僕は、うるさいやつです。
下手に知的な世界を見ようとしているので、奇妙な神経症に陥ってしまっています。
すぐに「それはあまりに記号的でさ〜」とか、「もっとオートポイエティックな〜」とか、ホントにうるさいことを言う、何でもをわけのわからんアカデミズムに引きずり込もうと、全く反射的にしてしまいます。
常にギラギラしていて、ハウンドドッグなのですね。
確かにその過敏さは、絶対悪いというものではないのだけれど、いささかうんざりしますし、相手もうんざりしてしまうでしょう。
感性的なものをうしなってるわけではないし、ピカソのように鳥の歌声に耳を傾けてはいるんだけれど、
いささか、うるさい。
六月だというのに、この蝿は!
下手に知的な世界を見ようとしているので、奇妙な神経症に陥ってしまっています。
すぐに「それはあまりに記号的でさ〜」とか、「もっとオートポイエティックな〜」とか、ホントにうるさいことを言う、何でもをわけのわからんアカデミズムに引きずり込もうと、全く反射的にしてしまいます。
常にギラギラしていて、ハウンドドッグなのですね。
確かにその過敏さは、絶対悪いというものではないのだけれど、いささかうんざりしますし、相手もうんざりしてしまうでしょう。
感性的なものをうしなってるわけではないし、ピカソのように鳥の歌声に耳を傾けてはいるんだけれど、
いささか、うるさい。
六月だというのに、この蝿は!
2007年6月18日月曜日
読書、終わり。
金原ひとみ、「ハイドラ」
読み終わりました。
何か、熱狂の描写が〜とか言いましたが、
僕の理解しえない思考の速度なのかとも思えます。
僕には「ジャンプ」に映るその感情の跳躍は、そういう人には自然なことなのかな。
でも、説得力のある部分(ラスト)と、ない部分はあったかなぁと思います。
でも、いやおもしろかったですよ。
傑作だとは思わないけど、おもしろかった。
(これはまとまっていないからオフレコなんだけど、「純度」なんだと思うんだよね。「いいもの」の「よさ」って。テーマとかって何でもいいんだけど、要はその描写とかテーマの伝わる強さ、みたいなものが強ければ強いほど、いいんだと思うんです。強さ、って書いたけど、それは何も激しさだけじゃなくて、爽やかな感じとかでもいいんだ。ようはその純度なんだよね。こちらがめちゃくちゃにのめり込んでいけるカラフルさ。みたいなものが、やっぱりひとつのメルクマールになるんじゃないかな。)
昔より、僕はバイアスが減っています、確実に。
現代作家なんて〜っていうのは、昔ほどありません。(し、減ってきてます。それは誠実な手段で)
(あぁ、文学だけじゃないよ、アートでも思想でもファッションでも何でも。)
それによってどんどん世界は開けていくし、楽しいんだけど、
考えること悩むこと、思考しなくちゃいけないことが増えて、大変だし悲しいしつらい。
でも、それはやめられないですよね。地平の先の光を求めれば。
それがソクラテス的に「よく生きる」ことなら、
恋も学問も、人生は、生きることだなぁ。
読み終わりました。
何か、熱狂の描写が〜とか言いましたが、
僕の理解しえない思考の速度なのかとも思えます。
僕には「ジャンプ」に映るその感情の跳躍は、そういう人には自然なことなのかな。
でも、説得力のある部分(ラスト)と、ない部分はあったかなぁと思います。
でも、いやおもしろかったですよ。
傑作だとは思わないけど、おもしろかった。
(これはまとまっていないからオフレコなんだけど、「純度」なんだと思うんだよね。「いいもの」の「よさ」って。テーマとかって何でもいいんだけど、要はその描写とかテーマの伝わる強さ、みたいなものが強ければ強いほど、いいんだと思うんです。強さ、って書いたけど、それは何も激しさだけじゃなくて、爽やかな感じとかでもいいんだ。ようはその純度なんだよね。こちらがめちゃくちゃにのめり込んでいけるカラフルさ。みたいなものが、やっぱりひとつのメルクマールになるんじゃないかな。)
昔より、僕はバイアスが減っています、確実に。
現代作家なんて〜っていうのは、昔ほどありません。(し、減ってきてます。それは誠実な手段で)
(あぁ、文学だけじゃないよ、アートでも思想でもファッションでも何でも。)
それによってどんどん世界は開けていくし、楽しいんだけど、
考えること悩むこと、思考しなくちゃいけないことが増えて、大変だし悲しいしつらい。
でも、それはやめられないですよね。地平の先の光を求めれば。
それがソクラテス的に「よく生きる」ことなら、
恋も学問も、人生は、生きることだなぁ。
読書の、途中。
金原ひとみ、「ハイドラ」。
途中での、感想。
これは金原ひとみのせいなのか、それとも記述形式の問題なのか。
透徹した、涼しく冷たく静かな文章の雰囲気、客観性の引き換えに、高次のテンションというか、熱狂というか、ボルテージの高い、熱の高い場面の描写が、「行き切れてない」感じがする。
どうしても冷静な傍観という感じで、のめり込めないのだ。
それも意図のうちなら別に大丈夫なのだが、どうなんだろうか?
「だった」という過去形での語り、にこの問題があるのだろうか。
その傍観性が、確かに落ち着いた雰囲気を与えるかわりに、現在進行な熱狂を奪うのだろうか。
女性作家といわれる人には特に、私小説における「だった」が多い気がする。
だからあの透徹した、落ち着いた感じが出るのだろうか。それは意図?それとも限界?デメリット?
「ふつうの人間のふつうの生活における意識、感情、思考」の描写は上手いと思う。
行き過ぎなず、冷静すぎない感じがよい。オタク臭もないしね。
ただ、やっぱり「熱狂のシーン」ですね、これは多分この人自身も下手なのかもしれない。
それまでの段階を踏んだ丁寧な描写が、気持ちの高ぶっていくシーンになると一気に、「ん?どこでそうなったの?」という印象を受ける。
まぁ、まだ途中なので、何ともいえないが。
(言ってるじゃないか!!)
途中での、感想。
これは金原ひとみのせいなのか、それとも記述形式の問題なのか。
透徹した、涼しく冷たく静かな文章の雰囲気、客観性の引き換えに、高次のテンションというか、熱狂というか、ボルテージの高い、熱の高い場面の描写が、「行き切れてない」感じがする。
どうしても冷静な傍観という感じで、のめり込めないのだ。
それも意図のうちなら別に大丈夫なのだが、どうなんだろうか?
「だった」という過去形での語り、にこの問題があるのだろうか。
その傍観性が、確かに落ち着いた雰囲気を与えるかわりに、現在進行な熱狂を奪うのだろうか。
女性作家といわれる人には特に、私小説における「だった」が多い気がする。
だからあの透徹した、落ち着いた感じが出るのだろうか。それは意図?それとも限界?デメリット?
「ふつうの人間のふつうの生活における意識、感情、思考」の描写は上手いと思う。
行き過ぎなず、冷静すぎない感じがよい。オタク臭もないしね。
ただ、やっぱり「熱狂のシーン」ですね、これは多分この人自身も下手なのかもしれない。
それまでの段階を踏んだ丁寧な描写が、気持ちの高ぶっていくシーンになると一気に、「ん?どこでそうなったの?」という印象を受ける。
まぁ、まだ途中なので、何ともいえないが。
(言ってるじゃないか!!)
2007年6月17日日曜日
心理学擁護についての陳述。
心理学は科学ではない、といわれる。
この場合の科学をどう定義するかというのはいささか億劫ではあるけれども、一応、
「常に同じ結果を反復することが可能な理論。または、その理論を導く実験が常に再現可能であるもの」
と仮定すれば(あまり厳密ではないが、今回の私が述べたいところの結論には少しばかりどうでもいい)、
たしかに心理学を従来の自然科学的範疇の中に納めることは、いささか困難であるかもしれない。
しかし、ここでもやはり私は、「科学=one of the 説明」論に立ちたいと思うのだ。
宗教も文学も、科学も、それは世界の「記述」の一形態である。
ものごとの理解や説明の、一つの「仕方」でしかないと思うのだ。
科学はその説明の確実性や、その物理的生産性によって多大な人気を博している。
しかし、美輪明宏的世界観を、科学は説明できているだろうか?
「あんなものは非科学的だ!」という糾弾は、
=「あんなものは存在しない!」ということと同意であるのか?
とんだ飛躍であり、誤謬であると私は思う。
あれがペテンなのかどうかは問題ではないが、科学が説明できないことが=世界にはないものだというのは、全く非理性的でしょう?
「心」の問題や、それこそ心霊現象、しいて言えば自然についてだって、現代科学は全てを解明しているわけではないし、ある種の限界を認めているじゃあないですか。
その意味で心理学は、まずその初期動作について「仮定」を用いるが、そこから生まれた実験と、現象の分析と、結果について整合性がとれ、現に精神疾病を治療し得ているのであれば、立派に科学的であると言えるだろう。
というよりも、ある意味で「科学と同じ」なのだ。
「心理学は科学ではない!」と言おうが、
心理学は自然科学と同様の、説明理論としての権威と権利を有するのである。
理解の体系なんてものは、真理ではなく、全て仮説なんだ。
この着想のおかげで、
テクストと意味、存在=差異ということとの利用と関連して、
「浦沢直樹「PLUTO」の分析」というテーマのレポートの一つの方向性を得た。
感謝。
全体的な語調の乱れは、気にしないで。
それも少しは僕の意図☆(ずるい!)
この場合の科学をどう定義するかというのはいささか億劫ではあるけれども、一応、
「常に同じ結果を反復することが可能な理論。または、その理論を導く実験が常に再現可能であるもの」
と仮定すれば(あまり厳密ではないが、今回の私が述べたいところの結論には少しばかりどうでもいい)、
たしかに心理学を従来の自然科学的範疇の中に納めることは、いささか困難であるかもしれない。
しかし、ここでもやはり私は、「科学=one of the 説明」論に立ちたいと思うのだ。
宗教も文学も、科学も、それは世界の「記述」の一形態である。
ものごとの理解や説明の、一つの「仕方」でしかないと思うのだ。
科学はその説明の確実性や、その物理的生産性によって多大な人気を博している。
しかし、美輪明宏的世界観を、科学は説明できているだろうか?
「あんなものは非科学的だ!」という糾弾は、
=「あんなものは存在しない!」ということと同意であるのか?
とんだ飛躍であり、誤謬であると私は思う。
あれがペテンなのかどうかは問題ではないが、科学が説明できないことが=世界にはないものだというのは、全く非理性的でしょう?
「心」の問題や、それこそ心霊現象、しいて言えば自然についてだって、現代科学は全てを解明しているわけではないし、ある種の限界を認めているじゃあないですか。
その意味で心理学は、まずその初期動作について「仮定」を用いるが、そこから生まれた実験と、現象の分析と、結果について整合性がとれ、現に精神疾病を治療し得ているのであれば、立派に科学的であると言えるだろう。
というよりも、ある意味で「科学と同じ」なのだ。
「心理学は科学ではない!」と言おうが、
心理学は自然科学と同様の、説明理論としての権威と権利を有するのである。
理解の体系なんてものは、真理ではなく、全て仮説なんだ。
この着想のおかげで、
テクストと意味、存在=差異ということとの利用と関連して、
「浦沢直樹「PLUTO」の分析」というテーマのレポートの一つの方向性を得た。
感謝。
全体的な語調の乱れは、気にしないで。
それも少しは僕の意図☆(ずるい!)
かんたんな整数比としての。
嵐が来た。
とはまぁ、以前紹介した友人のことだが。
(名前を出すと、怒られそうだ、笑)
「社会の上部構造と下部構造の、」
「だからフランスのカルチャー論とかって、」
「日本における」
「だからマスコミ、メディアなんてものは」
「スーパーフラットですよ」
「ケプラーの夢見たのは、」
「質量って言葉は、ずるいよね」
「そこに美を見出せた時代は、もう終わり?」
「それこそメダルが神様、」
「分かり合えないなんて、悲しすぎるじゃない」
「それは生物的に同じなんだから、夢見たいよね」
「バタフライ・エフェクトじゃないけどさぁ」
「好きっていう言葉は、」
「ひとつひとつの障壁をどけて」
「近づいていくのよね」
社会のこと、
メディアのこと、
認知論、
「科学」について、
神様について、
フランス革命について、
将来について、
人間関係の一般論について、
人と人が付き合うということについて、
そして、
自分について。
さまざまなことについて、
ブランデーをひっかけながら、話した。
彼と僕とでは、
(知ってる人は知ってるだろうが)
全く領域の違うのだけれど、
相手の言葉をとらえ、考え、反応し、呼応し、議論し、ぶつけ合い、笑う。
あぁ、いいなぁ、と思う。
やはり「考える」ということが、知的であるということだ。
真摯に向き合う、それ以外はあり得ない。
僕は、イスの上で飛び跳ねながら、ふつふつと湧き上がり続ける(それはときには噴火する!)知的興奮を、全く隠しきれない。
こういう関係性でしか、お互いを分かり合うなんて幻想は、実現しえないさ。
4時間近く夢中であって、
しゃべり疲れたところで、同居人が帰って来た。
嵐は寝たが、笑。
そこから少し、ルームメイトと話す。
ひとつひとつの言葉を、お互いがしっかりと受け止めながら、
穏やかな会話が、そこにある。
二つの知性が、そこにある。
あぁ、いいなぁ。
僕はなんて、恵まれているのだろう。
とはまぁ、以前紹介した友人のことだが。
(名前を出すと、怒られそうだ、笑)
「社会の上部構造と下部構造の、」
「だからフランスのカルチャー論とかって、」
「日本における」
「だからマスコミ、メディアなんてものは」
「スーパーフラットですよ」
「ケプラーの夢見たのは、」
「質量って言葉は、ずるいよね」
「そこに美を見出せた時代は、もう終わり?」
「それこそメダルが神様、」
「分かり合えないなんて、悲しすぎるじゃない」
「それは生物的に同じなんだから、夢見たいよね」
「バタフライ・エフェクトじゃないけどさぁ」
「好きっていう言葉は、」
「ひとつひとつの障壁をどけて」
「近づいていくのよね」
社会のこと、
メディアのこと、
認知論、
「科学」について、
神様について、
フランス革命について、
将来について、
人間関係の一般論について、
人と人が付き合うということについて、
そして、
自分について。
さまざまなことについて、
ブランデーをひっかけながら、話した。
彼と僕とでは、
(知ってる人は知ってるだろうが)
全く領域の違うのだけれど、
相手の言葉をとらえ、考え、反応し、呼応し、議論し、ぶつけ合い、笑う。
あぁ、いいなぁ、と思う。
やはり「考える」ということが、知的であるということだ。
真摯に向き合う、それ以外はあり得ない。
僕は、イスの上で飛び跳ねながら、ふつふつと湧き上がり続ける(それはときには噴火する!)知的興奮を、全く隠しきれない。
こういう関係性でしか、お互いを分かり合うなんて幻想は、実現しえないさ。
4時間近く夢中であって、
しゃべり疲れたところで、同居人が帰って来た。
嵐は寝たが、笑。
そこから少し、ルームメイトと話す。
ひとつひとつの言葉を、お互いがしっかりと受け止めながら、
穏やかな会話が、そこにある。
二つの知性が、そこにある。
あぁ、いいなぁ。
僕はなんて、恵まれているのだろう。
2007年6月16日土曜日
読み終わりました。
「アルジャーノンに花束を」
よく、子供が読むにはいい本みたいな紹介がされてますが、
とんでもない。
こういうのが、
(素晴らしくバッサリと、批判にさらされることを承知で言えば)
文学ですよ。
立派な文学。
まぁ、僕の志向もあるでしょうけど。
文学って、
最強の学問じゃないだろうか?
だってこんなふうに、社会のカオスとか総合理論とか、心理学とか未来とか感性とか芸術とか人間とかを、ふんわり包み込んで、あいまいな状態で記述できる(それがいいのか悪いのかは別)、また厳密に記述できる(ある意味ではね)ものって、文学以外にないでしょう?
何が文学かは知りませんし、(もうこんなこと言うのどうでもよくなってますが)
ちょっとそう思ったんですよ!(意味不明な逆ギレ笑)
よく、子供が読むにはいい本みたいな紹介がされてますが、
とんでもない。
こういうのが、
(素晴らしくバッサリと、批判にさらされることを承知で言えば)
文学ですよ。
立派な文学。
まぁ、僕の志向もあるでしょうけど。
文学って、
最強の学問じゃないだろうか?
だってこんなふうに、社会のカオスとか総合理論とか、心理学とか未来とか感性とか芸術とか人間とかを、ふんわり包み込んで、あいまいな状態で記述できる(それがいいのか悪いのかは別)、また厳密に記述できる(ある意味ではね)ものって、文学以外にないでしょう?
何が文学かは知りませんし、(もうこんなこと言うのどうでもよくなってますが)
ちょっとそう思ったんですよ!(意味不明な逆ギレ笑)
ミクロ・エピステーメー
フーコーという人が、言いました。
「そのときどきの時代には、その時代の思考を支配する玉座がある」
その時代時代の、クーン的に言えば「パラダイム」ですね、考え方の大前提になる思考の台座。
それを、エピステーメーというのです。
これはとてもマクロな話ですから、ここはひとつ僕らの言葉に落とし込んでみましょう。
国会で、どっかの議員が、安倍首相に、
「アンシャン・レジームとは何ですか?日本語で言ってもらいたい」
といいました。
アンシャン・レジームという言葉自体を知らなかった、とは思わないんですが、
(そんな人間が政治の世界で生きてるなんて、考えただけでも恐ろしいですよね)
いくら攻撃のためとはいえ、くだらないなぁと思いました。
それは、それ、ですが。
僕もよく外来語、英語、フランス語の単語を借用する方なのですね。
「ニュアンスが〜」とか、「アグレッシブに〜」とか、「ドラスティックだ〜」とか、「ペシミスティックだな〜」とか。
ペシミスティック=悲観主義、なんていうのは翻訳可能だと思うんですが、
そういった言葉が口に出てくる背景には、やっぱりそれは「翻訳不可能性」にあると思うんですね。
日本語の「かわいい」とか「萌え」、「わび」「さび」なんて、他の文化の言葉では表現不可能でしょう?
その逆もしかりで、ドラスティック=徹底的な、思い切った、深刻な、ではそれってやっぱり違うと思うんです。
言語っていうのが、その絶対性、根底性のために、人間の思考様式まで規定する、っていうのは半信半疑ですが、やっぱり一方ではあり得るし正しいとも思うわけです。
英語に育った人間は、英語が規定する思考の枠組みから逃げることはできない。
その言語の、「音」であるとか「ヴィジュアル」であるとか、すいったことの全てが思考に対してアプローチすると思うのですね。
それはやはりエピステーメーであると思うのです。
そこから生まれるコミュニケーションの問題とかは、今別に話さないし、僕なりの回答がありますからいいんですが。
一番言いたかったのは、
言葉に対してセンセィティブになろうよ、ってことです。
安易に外国語使うのも反対ですが、表現の手段として、それしか取り得なかったのであれば、僕はおおいに結構だと思います。
だって、「エピステーメー」と「台座」。
違うでしょ?
前者は背景に多くの説明を持ってますから、フェアじゃないけど、
違うでしょ?
だから、この手の問題は、
批難する方も、適当なこと言ったらアカンよ、って思うんです。
ーーーー
最近、各方面で、僕と恋愛するのは、「しんどそう」と言われます。
まぁ、上みたいな話って、モテませんわな(笑)
これを、ひねくれてると言われたら、
僕はただただ萎縮するばかりで、部屋の隅で怯えるしかありません。
にゃ〜。
「そのときどきの時代には、その時代の思考を支配する玉座がある」
その時代時代の、クーン的に言えば「パラダイム」ですね、考え方の大前提になる思考の台座。
それを、エピステーメーというのです。
これはとてもマクロな話ですから、ここはひとつ僕らの言葉に落とし込んでみましょう。
国会で、どっかの議員が、安倍首相に、
「アンシャン・レジームとは何ですか?日本語で言ってもらいたい」
といいました。
アンシャン・レジームという言葉自体を知らなかった、とは思わないんですが、
(そんな人間が政治の世界で生きてるなんて、考えただけでも恐ろしいですよね)
いくら攻撃のためとはいえ、くだらないなぁと思いました。
それは、それ、ですが。
僕もよく外来語、英語、フランス語の単語を借用する方なのですね。
「ニュアンスが〜」とか、「アグレッシブに〜」とか、「ドラスティックだ〜」とか、「ペシミスティックだな〜」とか。
ペシミスティック=悲観主義、なんていうのは翻訳可能だと思うんですが、
そういった言葉が口に出てくる背景には、やっぱりそれは「翻訳不可能性」にあると思うんですね。
日本語の「かわいい」とか「萌え」、「わび」「さび」なんて、他の文化の言葉では表現不可能でしょう?
その逆もしかりで、ドラスティック=徹底的な、思い切った、深刻な、ではそれってやっぱり違うと思うんです。
言語っていうのが、その絶対性、根底性のために、人間の思考様式まで規定する、っていうのは半信半疑ですが、やっぱり一方ではあり得るし正しいとも思うわけです。
英語に育った人間は、英語が規定する思考の枠組みから逃げることはできない。
その言語の、「音」であるとか「ヴィジュアル」であるとか、すいったことの全てが思考に対してアプローチすると思うのですね。
それはやはりエピステーメーであると思うのです。
そこから生まれるコミュニケーションの問題とかは、今別に話さないし、僕なりの回答がありますからいいんですが。
一番言いたかったのは、
言葉に対してセンセィティブになろうよ、ってことです。
安易に外国語使うのも反対ですが、表現の手段として、それしか取り得なかったのであれば、僕はおおいに結構だと思います。
だって、「エピステーメー」と「台座」。
違うでしょ?
前者は背景に多くの説明を持ってますから、フェアじゃないけど、
違うでしょ?
だから、この手の問題は、
批難する方も、適当なこと言ったらアカンよ、って思うんです。
ーーーー
最近、各方面で、僕と恋愛するのは、「しんどそう」と言われます。
まぁ、上みたいな話って、モテませんわな(笑)
これを、ひねくれてると言われたら、
僕はただただ萎縮するばかりで、部屋の隅で怯えるしかありません。
にゃ〜。
2007年6月15日金曜日
P.239までの、対談。
Custard(以下C):「今日は、ありがとうございます」
Charley Gordon(以下G):「いえいえ、気になさらずに」
C:「立ち入ったことをお聞きするのですが」
G:「はい」
C:「アリス・キニアンとの口論は、何が原因だと?」
G:「彼女は知性、インテリジェンスですね、そのことについて自分が私より劣っていく、そのことが嫌であると言っていました。それは同時に彼女自身に強い自己嫌悪を起こしていたようです。私は、彼女を理解しようとしましたが、そういった行為も彼女には私の「驕り」に見えたのかもしれません。」
C:「私はその話を聞いたとき、あなたにとてもうかがいたいことが頭に浮かんだのです。つまりそれは、知性というものがそんなに一義的なものなのだろうか?ということなのですね。あなたは確かに賢い。記号論理学や文化的変異、どんなアカデミックな場においてもあなたは権威となり得るほどです。ただその知性とは違う「知性」、そういうものは存在しませんか?僕はあり得ると思うのですが」
G:「わかりませんね。少なくとも書かれた私は、そのことについての考えを表明していないでしょう?(笑)」
C:「確かに(笑)」
G:「しかし、知性の在り方というイシューへの意識はなかったかもしれないが、私は、自分の知性を周囲と比較するというような考えは、それほど持ってはいなかった。学者先生たちをバカにすることは除いてね(笑)。私は私の欲求のために賢くなろうとしたし、物事について考えもした。ただそれだけだったのですがね。ただ、それが周りの憎悪や反感、戸惑い、混乱を生んでしまった。それは何故か?真剣に悩みましたね。」
C:「私はね、ゴードンさん。あなたがコンサートのときに、音楽について「考えようと」したでしょう?それに、あなたは学会発表のために飛行機に乗るときになって、頭ではわかっていながらも、感情的、経験的にその不安、墜落の不安ですね、それを抑えることが出来なかった。前者はいわゆる「知的といわれること」の部分的ですが、悪い側面であり、後者は、まさに頭でっかちの子供だ(笑)頭ではわかっていても、人生経験の乏しさや感情のコントロール、感情と理性の擦り合わせができないことから生まれる不安を抑えきれなかった。」
G:「おっしゃるとおりです(笑)」
C:「でも、そのとき彼女が隣にいれば、どうでしたか?「大丈夫よ、チャーリー。あたしの手を握って」と、声をかけられていればどうでしたか?コンサートのときも、あなたは音楽についての別の見方、「感じればいいの。理解しなくてもいいから海の波のようにあなたの心を洗わせればいいの」という言葉を得た。それは、あなたとは全く違う「知性」だとは言えませんか?」
G:「・・・・」
C:「僕はそれは純粋に「かしこい」と思うんです。知性というのはロジカルであったり冷静であったりすることではなくて、いろんなことをまとめられる穏やかな境地だとね。一つ一つに目くじらをたて惑わされるのではなく、よくよく世の中の全ての事象をみつめて、その間の共通項をひとつの見方にまとめあげる。そういうことだと思うんです。だから例えば男女においても、ここではあなたがそうだったように、あなたはある意味でとても「かしこかった」が、彼女は別の意味で「かしこかった」。あなたが知的であるあまりに制御不能に陥ったり、知性がありすぎるために持ち得なかったものを、彼女はコントロールできたし、持っていたでしょう?恋愛や、人間関係が相手への「尊敬」でなりたっているものだとすれば、僕はそういう補完の仕方があり得ると思うんです。ステレオタイプに言えば、お洒落ではない男の科学者と、大学に行かずフランスにいったアートが好きな女の子は結ばれると思うんですよ。男は宇宙空間の膨張理論について激しく悩み、議論し、激昂するが、一人のときにはあまりに情緒不安定な子供なのです。彼女はそんな男の論理を聞き、おもしろくも思うが、もっと別な見方がある、「科学はただの説明で、絶対ではないのよ」と言い、彼の頭をひざの上にのせる。マッチョだと思いますか?男性中心的な枠組だと?それは、別に逆でもいいんです。僕は、知性っていうのは、よく考えること、だっていうことが言いたいだけなんですよ。それによって互いに惹かれ合うということが、全くあり得るし気づくべきだということがね」
G:「・・・・」
チャーリー・ゴードン氏は、語ることにおいて限界をもたれていたため、
私は、少しアンフェアな返答をしてしまったかもしれない。
インタビュアーとして、失格であったと思う。
Charley Gordon(以下G):「いえいえ、気になさらずに」
C:「立ち入ったことをお聞きするのですが」
G:「はい」
C:「アリス・キニアンとの口論は、何が原因だと?」
G:「彼女は知性、インテリジェンスですね、そのことについて自分が私より劣っていく、そのことが嫌であると言っていました。それは同時に彼女自身に強い自己嫌悪を起こしていたようです。私は、彼女を理解しようとしましたが、そういった行為も彼女には私の「驕り」に見えたのかもしれません。」
C:「私はその話を聞いたとき、あなたにとてもうかがいたいことが頭に浮かんだのです。つまりそれは、知性というものがそんなに一義的なものなのだろうか?ということなのですね。あなたは確かに賢い。記号論理学や文化的変異、どんなアカデミックな場においてもあなたは権威となり得るほどです。ただその知性とは違う「知性」、そういうものは存在しませんか?僕はあり得ると思うのですが」
G:「わかりませんね。少なくとも書かれた私は、そのことについての考えを表明していないでしょう?(笑)」
C:「確かに(笑)」
G:「しかし、知性の在り方というイシューへの意識はなかったかもしれないが、私は、自分の知性を周囲と比較するというような考えは、それほど持ってはいなかった。学者先生たちをバカにすることは除いてね(笑)。私は私の欲求のために賢くなろうとしたし、物事について考えもした。ただそれだけだったのですがね。ただ、それが周りの憎悪や反感、戸惑い、混乱を生んでしまった。それは何故か?真剣に悩みましたね。」
C:「私はね、ゴードンさん。あなたがコンサートのときに、音楽について「考えようと」したでしょう?それに、あなたは学会発表のために飛行機に乗るときになって、頭ではわかっていながらも、感情的、経験的にその不安、墜落の不安ですね、それを抑えることが出来なかった。前者はいわゆる「知的といわれること」の部分的ですが、悪い側面であり、後者は、まさに頭でっかちの子供だ(笑)頭ではわかっていても、人生経験の乏しさや感情のコントロール、感情と理性の擦り合わせができないことから生まれる不安を抑えきれなかった。」
G:「おっしゃるとおりです(笑)」
C:「でも、そのとき彼女が隣にいれば、どうでしたか?「大丈夫よ、チャーリー。あたしの手を握って」と、声をかけられていればどうでしたか?コンサートのときも、あなたは音楽についての別の見方、「感じればいいの。理解しなくてもいいから海の波のようにあなたの心を洗わせればいいの」という言葉を得た。それは、あなたとは全く違う「知性」だとは言えませんか?」
G:「・・・・」
C:「僕はそれは純粋に「かしこい」と思うんです。知性というのはロジカルであったり冷静であったりすることではなくて、いろんなことをまとめられる穏やかな境地だとね。一つ一つに目くじらをたて惑わされるのではなく、よくよく世の中の全ての事象をみつめて、その間の共通項をひとつの見方にまとめあげる。そういうことだと思うんです。だから例えば男女においても、ここではあなたがそうだったように、あなたはある意味でとても「かしこかった」が、彼女は別の意味で「かしこかった」。あなたが知的であるあまりに制御不能に陥ったり、知性がありすぎるために持ち得なかったものを、彼女はコントロールできたし、持っていたでしょう?恋愛や、人間関係が相手への「尊敬」でなりたっているものだとすれば、僕はそういう補完の仕方があり得ると思うんです。ステレオタイプに言えば、お洒落ではない男の科学者と、大学に行かずフランスにいったアートが好きな女の子は結ばれると思うんですよ。男は宇宙空間の膨張理論について激しく悩み、議論し、激昂するが、一人のときにはあまりに情緒不安定な子供なのです。彼女はそんな男の論理を聞き、おもしろくも思うが、もっと別な見方がある、「科学はただの説明で、絶対ではないのよ」と言い、彼の頭をひざの上にのせる。マッチョだと思いますか?男性中心的な枠組だと?それは、別に逆でもいいんです。僕は、知性っていうのは、よく考えること、だっていうことが言いたいだけなんですよ。それによって互いに惹かれ合うということが、全くあり得るし気づくべきだということがね」
G:「・・・・」
チャーリー・ゴードン氏は、語ることにおいて限界をもたれていたため、
私は、少しアンフェアな返答をしてしまったかもしれない。
インタビュアーとして、失格であったと思う。
終わりに、アラビアータのレシピ。
二人分の作り方です。
まず、大きい鍋に、たっぷりの水をいれて、火にかけてください。
(いいですか、『たっぷりの』水ですよ。じゃないとパスタはおいしくありません)
そうしてペンネを茹でるためのお湯を用意してる間に、今日はアラビアータソースを作りましょう。
(アラビアータとは、イタリア語で、「カッかする」という意味だそうです)
(もちろんお湯が沸騰したら、塩を(これも多めに)入れて、ペンネ(200~250g)を茹でて下さいね)
まず、ガーリック(3〜5かけ)を厚めにスライスしてください。
そのつぎは鷹の爪(これは好みです。僕なら4本を種ごと)を輪切りに。(種は辛いですからね!)
それをフライパンにいれたら、鍋をこちら側にかたむけてください。
ちょうどコンロの真ん中のくぼみに、パンの底の手前側の角が、はまります。
そしたら、オリーブオイルをなみなみと入れましょう。
僕はガーリックがちょうど「ひたひたになる」くらいにします。
そしたら、弱火にかけて、じっくりローストしてください。
こうすると焦げずに香りが立ちます。
その間に、ホールトマト(一缶400gですから、それ全部)を汁ごと缶から出して、軽く手で、もみつぶしてください。
ガーリックの香ばしいにおいがしてきたら、
フライパンをまっすぐにして、(ふつうの状態ってことです、笑)
トマトを汁ごと、フライパンにいれます。
オイルとしっかりまぜたら、そのまま強火で煮詰めて、トマトの水分を飛ばしましょう。
(水がなくなってくると、油がはねますから注意して!)
ほどよく水気が減ってくれば、そこにパスタのゆで汁をいれてください。
そしてまた少し煮詰めます。
後は、お好みで塩・コショウをし、味見してください。
オッケーですか?
ならば、茹でたペンネ(250g)をどさっとフライパンに入れて、よくソースと絡めましょう。
ハイ、出来上がり☆

僕は今日はブラックオリーブを入れました。
ちなみにこれはかなり辛いので、唐辛子は普通は種を取り除いて3本くらいがいいかもしれません。
わかりにくかったかもしれませんが、みなさん是非ためしてみてくださいね☆
くわしいレシピや応用レシピ、あと上手くやるコツが知りたい方は、ぜひぜひコメントしてください。
このあと僕は、汗だくになりながら、ペロッと完食しました。
夏場だからこそ、いいんですよね。
まず、大きい鍋に、たっぷりの水をいれて、火にかけてください。
(いいですか、『たっぷりの』水ですよ。じゃないとパスタはおいしくありません)
そうしてペンネを茹でるためのお湯を用意してる間に、今日はアラビアータソースを作りましょう。
(アラビアータとは、イタリア語で、「カッかする」という意味だそうです)
(もちろんお湯が沸騰したら、塩を(これも多めに)入れて、ペンネ(200~250g)を茹でて下さいね)
まず、ガーリック(3〜5かけ)を厚めにスライスしてください。
そのつぎは鷹の爪(これは好みです。僕なら4本を種ごと)を輪切りに。(種は辛いですからね!)
それをフライパンにいれたら、鍋をこちら側にかたむけてください。
ちょうどコンロの真ん中のくぼみに、パンの底の手前側の角が、はまります。
そしたら、オリーブオイルをなみなみと入れましょう。
僕はガーリックがちょうど「ひたひたになる」くらいにします。
そしたら、弱火にかけて、じっくりローストしてください。
こうすると焦げずに香りが立ちます。
その間に、ホールトマト(一缶400gですから、それ全部)を汁ごと缶から出して、軽く手で、もみつぶしてください。
ガーリックの香ばしいにおいがしてきたら、
フライパンをまっすぐにして、(ふつうの状態ってことです、笑)
トマトを汁ごと、フライパンにいれます。
オイルとしっかりまぜたら、そのまま強火で煮詰めて、トマトの水分を飛ばしましょう。
(水がなくなってくると、油がはねますから注意して!)
ほどよく水気が減ってくれば、そこにパスタのゆで汁をいれてください。
そしてまた少し煮詰めます。
後は、お好みで塩・コショウをし、味見してください。
オッケーですか?
ならば、茹でたペンネ(250g)をどさっとフライパンに入れて、よくソースと絡めましょう。
ハイ、出来上がり☆

僕は今日はブラックオリーブを入れました。
ちなみにこれはかなり辛いので、唐辛子は普通は種を取り除いて3本くらいがいいかもしれません。
わかりにくかったかもしれませんが、みなさん是非ためしてみてくださいね☆
くわしいレシピや応用レシピ、あと上手くやるコツが知りたい方は、ぜひぜひコメントしてください。
このあと僕は、汗だくになりながら、ペロッと完食しました。
夏場だからこそ、いいんですよね。
私小説。
「アルジャーノンに花束を」を読んでいます。
「記憶を、思い出す」ということの不思議を、
再発見すると同時に、気づかされています。
心に、やはり考えることがあって、
苦々しい悲痛と悲しみの「抜け落ち」、
そのせいで心にすっかり空間ができた瞬間、まさにその瞬間、
角の花屋のフラワーのその香りが、その穴にすべりこんで来て、ふわっと開きました。
とても甘く、草々しく、青く。
この音楽に救われました、とか信じなかったのですね、僕は。
実体験としてもそれほどないし、なんか安易な気がして。
でも、最近はわかるのです。
さっきの花にも、音楽にも癒される瞬間がある。
それは、感受性というか感動性という場面で、
僕が成長しているということなんでしょうか?
トマト缶とペンネ、牛乳を買う。
本屋には立ち寄らずに。
空はとても青く、風はすこし濡れている。
緑の公園に、黄色い町並み。
グレーの家に帰って来て、
ミルクを飲み(350mlほど!)
鉄のフライパンで、アラビアータのソースが煮立つ。
ペンネはもう茹だったかな?
「記憶を、思い出す」ということの不思議を、
再発見すると同時に、気づかされています。
心に、やはり考えることがあって、
苦々しい悲痛と悲しみの「抜け落ち」、
そのせいで心にすっかり空間ができた瞬間、まさにその瞬間、
角の花屋のフラワーのその香りが、その穴にすべりこんで来て、ふわっと開きました。
とても甘く、草々しく、青く。
この音楽に救われました、とか信じなかったのですね、僕は。
実体験としてもそれほどないし、なんか安易な気がして。
でも、最近はわかるのです。
さっきの花にも、音楽にも癒される瞬間がある。
それは、感受性というか感動性という場面で、
僕が成長しているということなんでしょうか?
トマト缶とペンネ、牛乳を買う。
本屋には立ち寄らずに。
空はとても青く、風はすこし濡れている。
緑の公園に、黄色い町並み。
グレーの家に帰って来て、
ミルクを飲み(350mlほど!)
鉄のフライパンで、アラビアータのソースが煮立つ。
ペンネはもう茹だったかな?
2007年6月14日木曜日
今日という一日。
朝から、
「天気が悪いなぁ〜」
と思いながらも、
表参道にブラブラしに行きました。
いろいろお店とかにも行きましたが、
ホンマタカシという人の写真展に行き。
「波」の写真なんですがね。
空と、海の境界から、
それはすごく曖昧なんだけれど、
その境界から、ぐわっと、立体的に、
波、が来るんですよね。
京都に生まれて、海になじみのない僕には、
あらためて考えさせられる経験でした。
そうして今日は、学校に戻り、演劇の練習。
本番まで、もう一ヶ月もなく。
憶えなくきゃいけない台本は、山ほど(らしい)。
あ、でも今回は、友達にも胸を張ってチケット渡せます。
多分、おもしろいから。
と、いうわけで、
チャオ!!
妹がなんか荒んでるらしいですよ。
原因不明で「暗い」っていうのは、やめてほしいな。
どうしたらいいかわからへんしね。
まぁ、みんないろいろあるんでしょうが。
チャオ!☆
「天気が悪いなぁ〜」
と思いながらも、
表参道にブラブラしに行きました。
いろいろお店とかにも行きましたが、
ホンマタカシという人の写真展に行き。
「波」の写真なんですがね。
空と、海の境界から、
それはすごく曖昧なんだけれど、
その境界から、ぐわっと、立体的に、
波、が来るんですよね。
京都に生まれて、海になじみのない僕には、
あらためて考えさせられる経験でした。
そうして今日は、学校に戻り、演劇の練習。
本番まで、もう一ヶ月もなく。
憶えなくきゃいけない台本は、山ほど(らしい)。
あ、でも今回は、友達にも胸を張ってチケット渡せます。
多分、おもしろいから。
と、いうわけで、
チャオ!!
妹がなんか荒んでるらしいですよ。
原因不明で「暗い」っていうのは、やめてほしいな。
どうしたらいいかわからへんしね。
まぁ、みんないろいろあるんでしょうが。
チャオ!☆
2007年6月13日水曜日
ユーリカ!!(わかった!!)
僕が、お酒でズタボロに酔うときって、
めちゃくちゃ、しゃべってるとき、なんですよね。
しゃべるとヒートアップするわけですよね。
だから体温が〜、のどがかわくからゴクゴク〜かどうかは知りませんけど、
しゃべるときは、泥酔っていうのは、
わかりました。
(どうでもいいけど、「しゃべるときは、泥酔」って、
「真夜中は、純潔」みたいだよね〜)
だれか〜、僕とひっそり飲んでくれる人募集〜
(めちゃくちゃしゃべるのでもいいで〜す。友人曰く、面倒くさい、そうですが笑)
最近はあまり、お家で飲みません。
「逃げ」が少なくなったということかもしれませんね。
「逃げちゃダメだ 逃げちゃダメだ 逃げちゃダメだ」
めちゃくちゃ、しゃべってるとき、なんですよね。
しゃべるとヒートアップするわけですよね。
だから体温が〜、のどがかわくからゴクゴク〜かどうかは知りませんけど、
しゃべるときは、泥酔っていうのは、
わかりました。
(どうでもいいけど、「しゃべるときは、泥酔」って、
「真夜中は、純潔」みたいだよね〜)
だれか〜、僕とひっそり飲んでくれる人募集〜
(めちゃくちゃしゃべるのでもいいで〜す。友人曰く、面倒くさい、そうですが笑)
最近はあまり、お家で飲みません。
「逃げ」が少なくなったということかもしれませんね。
「逃げちゃダメだ 逃げちゃダメだ 逃げちゃダメだ」
MAGIシステム。
新世紀エヴァンゲリオン、を読み返しています。
だいぶ忘れていたなぁという印象ですが、
その中で赤城ナオコという女性が開発したのが、
MAGIと呼ばれるスーパーコンピューターなのですね。
「マギは3人の私なの」
「科学者としての私、母親としての私、女としての私」
「その3人の私がせめぎ合ってるのよ」
三種の知能によるジレンマをあえて残すことで、新しい人工知能を作るというのが、
とてもおもしろいなぁと思いました。
人はそれを論理的というのでしょうか?
おそらくMAGIは、
「それは87%の確立で〜」
というような解を出すのでしょう。
そのような解を人間は求めるのでしょうか?
思うに意識は・・・
いえ、なんでもないのです。
ただ複数の思考をぶつけることで、さらなる解を求めるという、
新たなステージのコンピューター理論というのが、
大変印象的だった、というだけのことなんです。
よくわからなくてすみません。
あと、昨日の僕のお酒に関わっていただいた方々。
ありがとうございました。
僕はみなさんに支えられてるなぁと、
(文字通り、「支えられていた」わけですが)
たいへん感謝しています。
だいぶ忘れていたなぁという印象ですが、
その中で赤城ナオコという女性が開発したのが、
MAGIと呼ばれるスーパーコンピューターなのですね。
「マギは3人の私なの」
「科学者としての私、母親としての私、女としての私」
「その3人の私がせめぎ合ってるのよ」
三種の知能によるジレンマをあえて残すことで、新しい人工知能を作るというのが、
とてもおもしろいなぁと思いました。
人はそれを論理的というのでしょうか?
おそらくMAGIは、
「それは87%の確立で〜」
というような解を出すのでしょう。
そのような解を人間は求めるのでしょうか?
思うに意識は・・・
いえ、なんでもないのです。
ただ複数の思考をぶつけることで、さらなる解を求めるという、
新たなステージのコンピューター理論というのが、
大変印象的だった、というだけのことなんです。
よくわからなくてすみません。
あと、昨日の僕のお酒に関わっていただいた方々。
ありがとうございました。
僕はみなさんに支えられてるなぁと、
(文字通り、「支えられていた」わけですが)
たいへん感謝しています。
2007年6月12日火曜日
一気に三冊。
今日、読み終わった本。
「デリダ」
「夜は短し、歩けよ乙女」
「蒲田行進曲」
おもしろかったです、全部。
そうだなぁ、一言言うとしたら、
「人間って、ねじれてるなぁ」
かな。
そんな簡単に割り切れたら、
この世は善人のお芝居ばかりになって、
犯罪がたくさん増えてしまいます。
人って、アンビバレントなものでしょう?
みんな、そのことに気づいてるでしょう?
認めちゃいけませんか?ダメですか?
いいことですよ。
そんな簡単にやれるわけないんですから。
そこから、ですよ。
そこから、生きてくんですよ。
始まりですよ。
でも、またそこでアンビバレンスが出てくる。
そうやって、
アンビバレントの二律背反の中で、
自分を見失い、
窒息状態で、息も絶え絶えで。
苦しいさ、そりゃぁ苦しいさ。
でもそうやって、
常に全ての多面性、側面を積極的に「引き受けていく」ことが、
誠実な生き方だと、
勝手に思っているのです。
「デリダ」
「夜は短し、歩けよ乙女」
「蒲田行進曲」
おもしろかったです、全部。
そうだなぁ、一言言うとしたら、
「人間って、ねじれてるなぁ」
かな。
そんな簡単に割り切れたら、
この世は善人のお芝居ばかりになって、
犯罪がたくさん増えてしまいます。
人って、アンビバレントなものでしょう?
みんな、そのことに気づいてるでしょう?
認めちゃいけませんか?ダメですか?
いいことですよ。
そんな簡単にやれるわけないんですから。
そこから、ですよ。
そこから、生きてくんですよ。
始まりですよ。
でも、またそこでアンビバレンスが出てくる。
そうやって、
アンビバレントの二律背反の中で、
自分を見失い、
窒息状態で、息も絶え絶えで。
苦しいさ、そりゃぁ苦しいさ。
でもそうやって、
常に全ての多面性、側面を積極的に「引き受けていく」ことが、
誠実な生き方だと、
勝手に思っているのです。
2007年6月11日月曜日
白樺派は夢想なりきや?
ある一瞬について、のお話です。
志賀直哉という人がいます。
「暗夜行路」という小説を書いた人です。
彼は雑誌、白樺というものを舞台に、彼と彼の友達により、
大正デモクラシーを生き抜く人間、というものを、
「個人の実存、主体の実存」という在り方で書きました。
明治に種をまかれた、西欧個人主義や民主主義。
それが育ち、安定した時代の、人間。
社会流動性が一挙に高まり、それがあまねく存在し始めた時代でした。
社会流動性の高まりが、個人を生みます。
(だって、農民の子が永遠に農民であり、殿様が世襲制の時代に、
「個人としてどう生きるか?」なんて思想は起こりえません。
そこにはone of themしかありえず、個人なんて尊重はありえないのです)
そこで生まれた「個人」という概念を、一人の人間はどう生きればいいのか?
社会と個人、という関係の中で、人はどう生きればいいのか?
(とくに農耕社会の日本において)
そういった実存主義を、
皮肉に言えばブルジョア的に、(個人の潜在的なパワーを信じて!)
書いたのですね、彼らは。
社会流動性が高みを迎えた今においては、
こんな考え、「個人」という考え方は、当然のようですね。
それをその萌芽期において、センスィティブに感じ取った、作家たち。
これを物語として語った、作家たち。
作家というものも偉大さ(それは同時に衆愚さをともない)を、
あらためて感じた、そんな一瞬でした。
志賀直哉という人がいます。
「暗夜行路」という小説を書いた人です。
彼は雑誌、白樺というものを舞台に、彼と彼の友達により、
大正デモクラシーを生き抜く人間、というものを、
「個人の実存、主体の実存」という在り方で書きました。
明治に種をまかれた、西欧個人主義や民主主義。
それが育ち、安定した時代の、人間。
社会流動性が一挙に高まり、それがあまねく存在し始めた時代でした。
社会流動性の高まりが、個人を生みます。
(だって、農民の子が永遠に農民であり、殿様が世襲制の時代に、
「個人としてどう生きるか?」なんて思想は起こりえません。
そこにはone of themしかありえず、個人なんて尊重はありえないのです)
そこで生まれた「個人」という概念を、一人の人間はどう生きればいいのか?
社会と個人、という関係の中で、人はどう生きればいいのか?
(とくに農耕社会の日本において)
そういった実存主義を、
皮肉に言えばブルジョア的に、(個人の潜在的なパワーを信じて!)
書いたのですね、彼らは。
社会流動性が高みを迎えた今においては、
こんな考え、「個人」という考え方は、当然のようですね。
それをその萌芽期において、センスィティブに感じ取った、作家たち。
これを物語として語った、作家たち。
作家というものも偉大さ(それは同時に衆愚さをともない)を、
あらためて感じた、そんな一瞬でした。
2007年6月9日土曜日
友達との交際に関する覚え書き。
-
人に優しく。
自分とよく対話し。
あれも、これも、ではなく。
今、自分はどうするべきか。
よく考えたいものですね。
とくに、人に会うときは少し考えませんか?
「それは〜朝早すぎるからムリ〜」
と、ムリならちゃんと伝えて、
そして、相手とすり合わせるべきですよね。
もちろん相手は、この人のことを考えたうえで、
優しさを見せなければいけません。
いちいちの本能だけで動いていると、
結局疲れるのは、自分なんだな。
相手も疲れるし、
その相手の「相手をする」のに、自分がもっと疲れる。
心によく刻みます。
もう少し、考えて生きなくては、と思いました。
人に優しく。
自分とよく対話し。
あれも、これも、ではなく。
今、自分はどうするべきか。
よく考えたいものですね。
とくに、人に会うときは少し考えませんか?
「それは〜朝早すぎるからムリ〜」
と、ムリならちゃんと伝えて、
そして、相手とすり合わせるべきですよね。
もちろん相手は、この人のことを考えたうえで、
優しさを見せなければいけません。
いちいちの本能だけで動いていると、
結局疲れるのは、自分なんだな。
相手も疲れるし、
その相手の「相手をする」のに、自分がもっと疲れる。
心によく刻みます。
もう少し、考えて生きなくては、と思いました。
2007年6月8日金曜日
そういうの、ない?
「そういうこと」を、考えているときって、
「そういうこと」とつながったものばかりを、目にする。
出会うもの出会うものが、「そういうこと」を想起させる、結びつくものばかり。
それって、「読み」の問題ですよね。
全てのものには、本当の姿なんてなくて、
全ては、出会った側の「解釈(=読み)」にまかされているです。
だから、あなたが、それと出会って、あなたが感じた理解(=現象)は、
あなたの脳みそと関係しないに決まってるのです。
だから、やっぱり、
すべてのもの(=すべてのテクスト)は、
無数の現象になり得る(=無限の読み方をされる、しでき得る)。
これも、僕がこういう話に傾倒してるから、
こういうの(最初三行)が、こういう話(それ以下の行)と結びつくんであって、
今見ている「時効警察」のタイトルが、
ひとつのことを想起させるし、結びつく。
考えさせられる。
「そういうこと」とつながったものばかりを、目にする。
出会うもの出会うものが、「そういうこと」を想起させる、結びつくものばかり。
それって、「読み」の問題ですよね。
全てのものには、本当の姿なんてなくて、
全ては、出会った側の「解釈(=読み)」にまかされているです。
だから、あなたが、それと出会って、あなたが感じた理解(=現象)は、
あなたの脳みそと関係しないに決まってるのです。
だから、やっぱり、
すべてのもの(=すべてのテクスト)は、
無数の現象になり得る(=無限の読み方をされる、しでき得る)。
これも、僕がこういう話に傾倒してるから、
こういうの(最初三行)が、こういう話(それ以下の行)と結びつくんであって、
今見ている「時効警察」のタイトルが、
ひとつのことを想起させるし、結びつく。
考えさせられる。
本に謝れ!
読書中のその本に、
それがまだ途中にも関わらず批評するなんて、
最低だ、と言われるかもしれませんが、
僕は、けっこう、思うのですね。
「そんなの、ウソだよ」
「あまりにも、本の世界だよ」
「そんな言い回し、嘘つきだよ」
「なんで?そんな小洒落た言葉が好きなの?」
「伝わる内容は、いいのにな〜。」
難しい言葉を使うのが、好きなのかな?
(今、「お前が言うな」と思った人は、それは間違ってると思います)
僕は、少なくとも、
安易な微笑のための表現なんて、絶対しない。
古めかしい小難しい小洒落た言葉を、
むやみやたらに散りばめるなんて、
バカみたいなことはしない。
じゃぁ、彼らも、そうなんだろうか?
そういう表現でしか、
彼らの意図する物語と、その内容は語れなかったんだろうか?
「違うと思うな〜」
そんな誠実に、本を書いてないと思うな。
すくなくとも、職業臭い感じがして。
でも、ここらへんのことに対する僕の考えって、
あんまり固まってないし、洗練されてないんです。
だから、もっと読まないといけないんだと思うんですけど。
村上龍が、「蹴りたい背中」に対して、
「よく書けてるから」
って言いましたけど、
最近のベストセラー文芸なんてものを読むと、
少しその言葉が頭をよぎります。
「たしかに、そうかも。」
たしかに、そうかも。
考えよっ。
とりあえず、
もし、このblogを読んでる人で、
小説を書こうって思ってる人がいたら、
ウソはやめようよね。
自分へのウソとか、
現実へのウソとか。
だって、
否定できないリアリティーの上に、
本当のファンタジーがあるんやって。
僕は、ハリー・ポッター、好きですよ。
それがまだ途中にも関わらず批評するなんて、
最低だ、と言われるかもしれませんが、
僕は、けっこう、思うのですね。
「そんなの、ウソだよ」
「あまりにも、本の世界だよ」
「そんな言い回し、嘘つきだよ」
「なんで?そんな小洒落た言葉が好きなの?」
「伝わる内容は、いいのにな〜。」
難しい言葉を使うのが、好きなのかな?
(今、「お前が言うな」と思った人は、それは間違ってると思います)
僕は、少なくとも、
安易な微笑のための表現なんて、絶対しない。
古めかしい小難しい小洒落た言葉を、
むやみやたらに散りばめるなんて、
バカみたいなことはしない。
じゃぁ、彼らも、そうなんだろうか?
そういう表現でしか、
彼らの意図する物語と、その内容は語れなかったんだろうか?
「違うと思うな〜」
そんな誠実に、本を書いてないと思うな。
すくなくとも、職業臭い感じがして。
でも、ここらへんのことに対する僕の考えって、
あんまり固まってないし、洗練されてないんです。
だから、もっと読まないといけないんだと思うんですけど。
村上龍が、「蹴りたい背中」に対して、
「よく書けてるから」
って言いましたけど、
最近のベストセラー文芸なんてものを読むと、
少しその言葉が頭をよぎります。
「たしかに、そうかも。」
たしかに、そうかも。
考えよっ。
とりあえず、
もし、このblogを読んでる人で、
小説を書こうって思ってる人がいたら、
ウソはやめようよね。
自分へのウソとか、
現実へのウソとか。
だって、
否定できないリアリティーの上に、
本当のファンタジーがあるんやって。
僕は、ハリー・ポッター、好きですよ。
読書中、失礼。
-
今、本を読んでいるのです。
「本」には失礼なのだけど、ここで一筆。
ーーーー
"discomunication" の、呪い。
これにだいぶんと悩まされてきました。
(もちろん、これからも)
Aさんの言葉は、(Aさんの意志は)
Bさんにちゃんと伝わるのか?(BさんはAさんの思った通りを、その言葉に「読める」のか?)
とても大きい問題ですね。
でも、
それでも、語らなければいけない言葉があります。
「あなた」に通じない、という事実。
「あなた」は、違う「読み」をしてしまうんじゃないかという不安。
そうであれば、これは、この僕の「伝えたいこと」は、メールに書くべきじゃないんじゃないか?
では、「語らないこと」で、「語れる」のか?
相手を尊敬してる人でも、
相手をバカにしてる人でも、
「悩む」のです。
では、このメールは送るべきなのでしょうか?
正解は、
50%の確立で、送るべきです。
あなたは伝えたい → なら送ろう。
どうして? → 語ることそれ自体が、愛だから。
相手に伝えたいという気持ちそれ自体が、愛なのです。
どっかのマンガのキャラクターが、
「人と人とが 完全に理解し合うことは 決してできぬ。人とは そういう悲しい生き物だ』
と言いましたが、
それでも、伝えるべきなのですね。
語るべきなのです。
愛しているなら。
それをどうしても伝えたい相手には、
いくらボロボロになろうとも、
discomunicationの森を走り抜け、
その先の光の中へ飛び出す努力を、
しなくちゃあいけないと、
思うんです。
それが、
この不合理な世界を生きる僕たち人間の、
美しく呪われた、運命なんだと、
思うんです。
あきらめるなんて、
悲しいじゃないですか。
こういった考え方は、
悪い風ではないけど、すこし感情的で、理屈にあわない。
でも、僕は、いいと思う。
だって、文学、だから。
僕たちの、文学。
友達TMKとの。
そして、あなたとの。
「この世に、限りはあるの?」
「もしも果てが見えたなら」
「どうやって分かろうか?楽しもうか?もうやりつくしたね」
「じゃあ何度だって忘れよう」
「そしてまた新しく出会えれば」
「すばらしい」
「さようなら」
「初めまして」
今、本を読んでいるのです。
「本」には失礼なのだけど、ここで一筆。
ーーーー
"discomunication" の、呪い。
これにだいぶんと悩まされてきました。
(もちろん、これからも)
Aさんの言葉は、(Aさんの意志は)
Bさんにちゃんと伝わるのか?(BさんはAさんの思った通りを、その言葉に「読める」のか?)
とても大きい問題ですね。
でも、
それでも、語らなければいけない言葉があります。
「あなた」に通じない、という事実。
「あなた」は、違う「読み」をしてしまうんじゃないかという不安。
そうであれば、これは、この僕の「伝えたいこと」は、メールに書くべきじゃないんじゃないか?
では、「語らないこと」で、「語れる」のか?
相手を尊敬してる人でも、
相手をバカにしてる人でも、
「悩む」のです。
では、このメールは送るべきなのでしょうか?
正解は、
50%の確立で、送るべきです。
あなたは伝えたい → なら送ろう。
どうして? → 語ることそれ自体が、愛だから。
相手に伝えたいという気持ちそれ自体が、愛なのです。
どっかのマンガのキャラクターが、
「人と人とが 完全に理解し合うことは 決してできぬ。人とは そういう悲しい生き物だ』
と言いましたが、
それでも、伝えるべきなのですね。
語るべきなのです。
愛しているなら。
それをどうしても伝えたい相手には、
いくらボロボロになろうとも、
discomunicationの森を走り抜け、
その先の光の中へ飛び出す努力を、
しなくちゃあいけないと、
思うんです。
それが、
この不合理な世界を生きる僕たち人間の、
美しく呪われた、運命なんだと、
思うんです。
あきらめるなんて、
悲しいじゃないですか。
こういった考え方は、
悪い風ではないけど、すこし感情的で、理屈にあわない。
でも、僕は、いいと思う。
だって、文学、だから。
僕たちの、文学。
友達TMKとの。
そして、あなたとの。
「この世に、限りはあるの?」
「もしも果てが見えたなら」
「どうやって分かろうか?楽しもうか?もうやりつくしたね」
「じゃあ何度だって忘れよう」
「そしてまた新しく出会えれば」
「すばらしい」
「さようなら」
「初めまして」
どれだけ偉そうなことを言っても。
_
どれだけ偉そうなことを、したり顔で語ろうとも、
結局その仮面の下には、単純な感情の塊がある。
それは、決して悪いことではなく、
感情や理性の合い混じる「解釈」の範疇で、
必死で自分や、世界という「事態」を掴もうとするのは、
正しい。
ただ、結論によるところで、
結局ロジカルではなく、
(感情≠ロジカルなのか?それはまた違うな)
もっと本能的なものに、
その「解決」が回収されたならば、
それは恥じるべきでもなく、
また誇るべきでもなく、
ただ事実として、(事実の「自分」として)
理解しなければならない。
やはり、
熱に浮かされたBlogでも、
よかったりもするものだ。
少なくとも、
「わからせようという気が少ない」時点において、
僕の文筆家生命は断たれているし、失格であるが、
自分なりには、なかなか好きだ。
今こうして書いているこの文章よりは。
誠実、誠実とうるさいくせに、
全く相手への配慮に疎い。
ただ、
「じゃあ一体どう書きゃいいんだ?」
「コミュニケーションの不可能の問題は?」
などもあるから、
(くだらない!しゃべるの大好き、だろうが!)
っていうのもあるんだけれど。
どれだけ偉そうなことを、したり顔で語ろうとも、
結局その仮面の下には、単純な感情の塊がある。
それは、決して悪いことではなく、
感情や理性の合い混じる「解釈」の範疇で、
必死で自分や、世界という「事態」を掴もうとするのは、
正しい。
ただ、結論によるところで、
結局ロジカルではなく、
(感情≠ロジカルなのか?それはまた違うな)
もっと本能的なものに、
その「解決」が回収されたならば、
それは恥じるべきでもなく、
また誇るべきでもなく、
ただ事実として、(事実の「自分」として)
理解しなければならない。
やはり、
熱に浮かされたBlogでも、
よかったりもするものだ。
少なくとも、
「わからせようという気が少ない」時点において、
僕の文筆家生命は断たれているし、失格であるが、
自分なりには、なかなか好きだ。
今こうして書いているこの文章よりは。
誠実、誠実とうるさいくせに、
全く相手への配慮に疎い。
ただ、
「じゃあ一体どう書きゃいいんだ?」
「コミュニケーションの不可能の問題は?」
などもあるから、
(くだらない!しゃべるの大好き、だろうが!)
っていうのもあるんだけれど。
2007年6月7日木曜日
「内容」と、適切な「スペース」。
-
どんな小説だって、論文だって、演劇だって、
十分な内容があったはずなんです!
でも、それを書いた人は、そのスペースを測り間違った!
入れ物が大きすぎたんです。
作者が書きたいと思ったものは、
その入れ物には大きすぎたし、
この入れ物には小さすぎたんです。
そんなのよくあることでしょう!
世の中の傑作っていうのは全部、
名建築士が建てたってだけなんだ。
中身は変わらないんだ。
だから、「すべらない話」の、
キム兄の「キクチの話」は、
絶妙でギリギリのスペースなんだよ。
磨くとしたら、この測り方だぜ、みんな!
どんな小説だって、論文だって、演劇だって、
十分な内容があったはずなんです!
でも、それを書いた人は、そのスペースを測り間違った!
入れ物が大きすぎたんです。
作者が書きたいと思ったものは、
その入れ物には大きすぎたし、
この入れ物には小さすぎたんです。
そんなのよくあることでしょう!
世の中の傑作っていうのは全部、
名建築士が建てたってだけなんだ。
中身は変わらないんだ。
だから、「すべらない話」の、
キム兄の「キクチの話」は、
絶妙でギリギリのスペースなんだよ。
磨くとしたら、この測り方だぜ、みんな!
コピーキャット。
-
ネタばらし。
今日の「エクリチュール」とか、「痕跡」とかは、
ジャック・デリダという人の言葉です。
「生きていかなければならない」とかは、サルトル。
「卵」はドゥルーズ。
「現象」は、フッサール。
そう、僕によって書かれた言葉たちの中には、
たくさんの先達が存在していました。
ぼくは、そのパッチワーカーでしかなく。
でも、僕の思考の志向は確実に内包されていて、
あなたにも現象(コピーキャット)として、立ち現れたかもしれませんね。
僕は、彼らを借りて(様々な絵の具)
それを書きなぐる(描きなぐる)ことで、
彼らを塗りつぶし、
僕色に、染め上げた。
つもりです。
つもりですが、
ぼくは塗りつぶしてやる。いろんな痕跡を。
その痕跡に立ち上がる香りが、全て僕であるように。
どんなものを借用しても(それが敵でも)
全く同じ絵の具で、
とびきり綺麗な塗り方をして、
戦ってやる。
僕が描くキャンバスは、
絶対、誰にも渡さない。
僕のキャンバスがあなたに見せるイメージは全て、
僕自身だ!
僕自身であるように、僕は努力するのであり、
たくさんのコピー、
飼いならされた猫になってやる。
その猫は間違いなく、
虎視眈々と、
その全てを引き裂くことを、
そのことのみの「復讐」を考えているんだ。
たとえその爪が伸びなくても、
ボロボロになってもその猫は、
涙を流しながらメチャクチャにそのキャンバスを離さない。
家からつまみ出されてもその猫は、
そのキャンバスだけを考えて、壁を掻く。
でも、猫は、猫だからこそ、
グッドなタイミングで新しいご主人を見つける。
いつの日か、取りこぼしたキャンバスをギタギタにして、
自分のキャンバスを唯一不可侵のものにするために。
猫のひと舐め、一つの傷が、
そのキャンバスに跡を残す。
いつかその香りと痕跡は、全身を埋め尽くし、
その人は、その猫以外の現象を思えなくなる。
「認識しえないものは、存在しないものと一緒だ!」
な、猫は功名だろ。
ネタばらし。
今日の「エクリチュール」とか、「痕跡」とかは、
ジャック・デリダという人の言葉です。
「生きていかなければならない」とかは、サルトル。
「卵」はドゥルーズ。
「現象」は、フッサール。
そう、僕によって書かれた言葉たちの中には、
たくさんの先達が存在していました。
ぼくは、そのパッチワーカーでしかなく。
でも、僕の思考の志向は確実に内包されていて、
あなたにも現象(コピーキャット)として、立ち現れたかもしれませんね。
僕は、彼らを借りて(様々な絵の具)
それを書きなぐる(描きなぐる)ことで、
彼らを塗りつぶし、
僕色に、染め上げた。
つもりです。
つもりですが、
ぼくは塗りつぶしてやる。いろんな痕跡を。
その痕跡に立ち上がる香りが、全て僕であるように。
どんなものを借用しても(それが敵でも)
全く同じ絵の具で、
とびきり綺麗な塗り方をして、
戦ってやる。
僕が描くキャンバスは、
絶対、誰にも渡さない。
僕のキャンバスがあなたに見せるイメージは全て、
僕自身だ!
僕自身であるように、僕は努力するのであり、
たくさんのコピー、
飼いならされた猫になってやる。
その猫は間違いなく、
虎視眈々と、
その全てを引き裂くことを、
そのことのみの「復讐」を考えているんだ。
たとえその爪が伸びなくても、
ボロボロになってもその猫は、
涙を流しながらメチャクチャにそのキャンバスを離さない。
家からつまみ出されてもその猫は、
そのキャンバスだけを考えて、壁を掻く。
でも、猫は、猫だからこそ、
グッドなタイミングで新しいご主人を見つける。
いつの日か、取りこぼしたキャンバスをギタギタにして、
自分のキャンバスを唯一不可侵のものにするために。
猫のひと舐め、一つの傷が、
そのキャンバスに跡を残す。
いつかその香りと痕跡は、全身を埋め尽くし、
その人は、その猫以外の現象を思えなくなる。
「認識しえないものは、存在しないものと一緒だ!」
な、猫は功名だろ。
2007年6月6日水曜日
子供、アイルランド。それは白黒の風景として。
-
子供が、泣いた。
その子はいまだ決して、「ひと」の前で涙など、
ましてや、あんなに大声をはりあげて、
それもすごい金切り声を、
その女性の胸に、顔いっぱいをおしつけて、
くぐもった空間、つぶされそうな顔面いっぱい、そのコットン地にむかって、
自分のぜんぶをつかって泣いたことなど、
一度もなかった。
その子の母親はとても優しかった。
その子はとても大切に育てられた。
でも、その子は泣かなかったし、甘えなかった。
泣く相手と、泣きたい相手が、同じでなかったから。
だから、その子は昨日、泣いたんだ。
この女性にむかって。
目一杯の、そう本当に目一杯の。
女性は、どうしたらいいかわからなかっただろう。
その子はひどく神経的で、躁鬱の激しい状態だった。
疲れていた。
わけのわからない高熱で。
気づけばその子は、この大きなアイルランドの上で、
裸足だった。
その子が必死でかけ回った大地は、
唯、広く。
空は、白黒の風景で、地面は、地面のカラーで。
崩れ落ちた城たちは、ただ世界の境界を告げていた。
その子はいつしか、家についた。
そこには母親はいなくて、
ただその子が幼いころに着ていた大好きだったボーダーの、Tシャツが、
ただの調度品として、あった。
その子は走ってかけより、
それはもういろんなテーブル、いろんなおもちゃにぶつかりながら、
そのたびにわめき、
笑い、しながら、
つめよって、
その「幼いころ、自分が着ていた服、ボーダー」という、
ただ、たったそれだけの記号、憧憬に、
ぐしゃぐしゃに泣いた。
それが女性だった。
本当にそこには記号の世界も、言葉の世界もなかった。
その子は、それからのことは憶えておらず、
泣いたあと、寝た。
彼は、昨日、こう言ったあと、
「でもよく憶えてないんだ。それこそ、一瞬のことで。」
「でも、そういうことがあったことは、本当だよ。だって、僕は話しているもの。」
「君がこの話をどう考えるかは、楽しみだな」
「だって、意味が見当たらないだろう?」
子供が、泣いた。
その子はいまだ決して、「ひと」の前で涙など、
ましてや、あんなに大声をはりあげて、
それもすごい金切り声を、
その女性の胸に、顔いっぱいをおしつけて、
くぐもった空間、つぶされそうな顔面いっぱい、そのコットン地にむかって、
自分のぜんぶをつかって泣いたことなど、
一度もなかった。
その子の母親はとても優しかった。
その子はとても大切に育てられた。
でも、その子は泣かなかったし、甘えなかった。
泣く相手と、泣きたい相手が、同じでなかったから。
だから、その子は昨日、泣いたんだ。
この女性にむかって。
目一杯の、そう本当に目一杯の。
女性は、どうしたらいいかわからなかっただろう。
その子はひどく神経的で、躁鬱の激しい状態だった。
疲れていた。
わけのわからない高熱で。
気づけばその子は、この大きなアイルランドの上で、
裸足だった。
その子が必死でかけ回った大地は、
唯、広く。
空は、白黒の風景で、地面は、地面のカラーで。
崩れ落ちた城たちは、ただ世界の境界を告げていた。
その子はいつしか、家についた。
そこには母親はいなくて、
ただその子が幼いころに着ていた大好きだったボーダーの、Tシャツが、
ただの調度品として、あった。
その子は走ってかけより、
それはもういろんなテーブル、いろんなおもちゃにぶつかりながら、
そのたびにわめき、
笑い、しながら、
つめよって、
その「幼いころ、自分が着ていた服、ボーダー」という、
ただ、たったそれだけの記号、憧憬に、
ぐしゃぐしゃに泣いた。
それが女性だった。
本当にそこには記号の世界も、言葉の世界もなかった。
その子は、それからのことは憶えておらず、
泣いたあと、寝た。
彼は、昨日、こう言ったあと、
「でもよく憶えてないんだ。それこそ、一瞬のことで。」
「でも、そういうことがあったことは、本当だよ。だって、僕は話しているもの。」
「君がこの話をどう考えるかは、楽しみだな」
「だって、意味が見当たらないだろう?」
痕跡。
Blogっていうものを、
たとえば僕の何月何日かの日記を、ひとつ取り上げて、
僕を「読み解く」なんてことは、
少なくとも、
僕のBlogにおいては、
ご遠慮願います。
僕は、
40年ぐらいの壮大な物語として、
タイトル「自分」の、ページを綴っているのです。
だから、
もしそれが間違った態度であっても、
そういうものだと思って、
お読みになって、また、評価してください。
これは言い訳ではなく、
処方箋です。
40年後のあなたの一言を、
楽しみにしています。
こうやって、日々書かれる文章たちは、
僕の「痕跡」である、のです。
僕は日々、この世界をすり抜けて行きます。
もちろんあなたも。
この世界も、僕やあなたを、そしてまた世界自身をすり抜けていきます。
だから、ここにこうして書かれた、もの、たちは、
すべてその足跡、なのです。
実体はその、本当に一瞬先に、歩いている姿をもつ。
これは、全てを過去形にしてしまうことで、今の自分を守ろうなんていう、程度の低い話ではありません。
世の中の全てが、痕跡なのです。
その原因を数々の人が、
「差異」と呼んだり、「卵」と呼んだり、
「現象」と呼んだり、「イデア」、「潜態質」と呼んだりしました。
それはわかりませんが、
でも、その足跡たちは確かにぼく自身ですから、
(もともと全てのものは、足跡としてしか存在できません)
確かにそれは、僕なのです。
僕、とは、
あなたたちの解釈によってうまれる存在であり、
この世界をただ流れるイメージでしか、ありません。
実体の僕は、
体はあっても、
観念的には実存しえない。
そこでの僕は、
(僕という人間は)
全ての書かれたもの、でしかないのです。
(「書かれたもの(エクリチュール)」とは、ここでは「痕跡」「足跡」と同じ意味です)
1)だから、僕は、僕のイメージの何をも否定できない。
2)だから、僕は自分の存在に対して、誠実にあろうとする。
1+2)だから、僕はあなたに話しかける。あなたを愛しているから。
僕は全ての人と、語ります。
あなたさえ、よければ。
たとえば僕の何月何日かの日記を、ひとつ取り上げて、
僕を「読み解く」なんてことは、
少なくとも、
僕のBlogにおいては、
ご遠慮願います。
僕は、
40年ぐらいの壮大な物語として、
タイトル「自分」の、ページを綴っているのです。
だから、
もしそれが間違った態度であっても、
そういうものだと思って、
お読みになって、また、評価してください。
これは言い訳ではなく、
処方箋です。
40年後のあなたの一言を、
楽しみにしています。
こうやって、日々書かれる文章たちは、
僕の「痕跡」である、のです。
僕は日々、この世界をすり抜けて行きます。
もちろんあなたも。
この世界も、僕やあなたを、そしてまた世界自身をすり抜けていきます。
だから、ここにこうして書かれた、もの、たちは、
すべてその足跡、なのです。
実体はその、本当に一瞬先に、歩いている姿をもつ。
これは、全てを過去形にしてしまうことで、今の自分を守ろうなんていう、程度の低い話ではありません。
世の中の全てが、痕跡なのです。
その原因を数々の人が、
「差異」と呼んだり、「卵」と呼んだり、
「現象」と呼んだり、「イデア」、「潜態質」と呼んだりしました。
それはわかりませんが、
でも、その足跡たちは確かにぼく自身ですから、
(もともと全てのものは、足跡としてしか存在できません)
確かにそれは、僕なのです。
僕、とは、
あなたたちの解釈によってうまれる存在であり、
この世界をただ流れるイメージでしか、ありません。
実体の僕は、
体はあっても、
観念的には実存しえない。
そこでの僕は、
(僕という人間は)
全ての書かれたもの、でしかないのです。
(「書かれたもの(エクリチュール)」とは、ここでは「痕跡」「足跡」と同じ意味です)
1)だから、僕は、僕のイメージの何をも否定できない。
2)だから、僕は自分の存在に対して、誠実にあろうとする。
1+2)だから、僕はあなたに話しかける。あなたを愛しているから。
僕は全ての人と、語ります。
あなたさえ、よければ。
目の前にある、こと。
アイルランドのジョージ・バークリーは、
「存在することは認識されることである」(esse est percipi)
と言った。
と、ある人(おなじみの脳科学者ね)が書いていた。
「やっぱり、当然だよね。うん。やっぱり」
目の前の風景は、ぼくにとって、「ある程度の世界」でしかない。
百メートル先の、木は、見える、けれど、
それ以上ではない。
緑色で、茶色でということは、見える。
それが葉で、それが幹で、ということは知っている。
でも僕には、それ以上ではない。
もしここに、植物学者がいたら、
そこにはもっと違う世界が存在することになるだろう。
認識されなかったものは、存在しない。
また、
認識の甘かったものは、そんなに強く存在しない。
だから、
無感覚であったり、目の当たりにしなかったりすれば、
つらい事実は、存在しない。
けれど、
ハッピーな事実も、存在しない。
だから、やっぱり、
自分の五感の全てでもって、
「向き合うこと」が、
絶対、ぜったい、大事だ。
でも、人間の本能は、
あまりに危険な刺激に対しては、
その機能をシャットダウンしてしまう。
死なないために。
でも、
その寸前までは、やれるんだ。
僕の本能よ、強くなれ。
最後に、
形而上的思考を愛するひとたちに。
「哲学は良くも悪くも社会の実態から離れた机上の空論だというのは、わかりやすいようで間違った考え方だ。
哲学は、大多数の人々には無縁の存在だというのも間違っている。
何故ならば、哲学の最先端で問題になり、哲学者たちの苦闘を経て一応の解決を見たような問題が、何年か経つと「当り前」の一般常識になるからだ。
しかも、そのような一般常識が、人々が日常生活を生きていく上でのかけがえのない知恵となる。」
脳科学者が言ってました。
「存在することは認識されることである」(esse est percipi)
と言った。
と、ある人(おなじみの脳科学者ね)が書いていた。
「やっぱり、当然だよね。うん。やっぱり」
目の前の風景は、ぼくにとって、「ある程度の世界」でしかない。
百メートル先の、木は、見える、けれど、
それ以上ではない。
緑色で、茶色でということは、見える。
それが葉で、それが幹で、ということは知っている。
でも僕には、それ以上ではない。
もしここに、植物学者がいたら、
そこにはもっと違う世界が存在することになるだろう。
認識されなかったものは、存在しない。
また、
認識の甘かったものは、そんなに強く存在しない。
だから、
無感覚であったり、目の当たりにしなかったりすれば、
つらい事実は、存在しない。
けれど、
ハッピーな事実も、存在しない。
だから、やっぱり、
自分の五感の全てでもって、
「向き合うこと」が、
絶対、ぜったい、大事だ。
でも、人間の本能は、
あまりに危険な刺激に対しては、
その機能をシャットダウンしてしまう。
死なないために。
でも、
その寸前までは、やれるんだ。
僕の本能よ、強くなれ。
最後に、
形而上的思考を愛するひとたちに。
「哲学は良くも悪くも社会の実態から離れた机上の空論だというのは、わかりやすいようで間違った考え方だ。
哲学は、大多数の人々には無縁の存在だというのも間違っている。
何故ならば、哲学の最先端で問題になり、哲学者たちの苦闘を経て一応の解決を見たような問題が、何年か経つと「当り前」の一般常識になるからだ。
しかも、そのような一般常識が、人々が日常生活を生きていく上でのかけがえのない知恵となる。」
脳科学者が言ってました。
てんやわんやですよ〜。
一夜の浮気が、つらいですか?
それとも、継続的な浮気の方がつらいですか?
それって、人それぞれだと思うんです。
「そりゃあ継続に決まってるじゃない」
果たして、そうでしょうか。
いや、僕もその方がつらいかな、とも思います。
でも、ことによると、一回の突発的なもののほうが、
(突発的という言葉ほど、生々しいものもありませんね)
場合によると、死にそうなくらい、つらかったりするんじゃないでしょうか。
男の浮気は甲斐性だ、とよく言われますが、
なるほど、一夜のパーティーならいい。
でも「愛人」となると、
それは奥さんにとって死にそうなくらいつらいものですね。
まして逆の場合、
(私は典型的で古典的な人間でしょうか)
女性は、やっぱり「受け身」(あまり直接的な表現は苦しい)ですから、
男性側は、また違ったつらさがあるでしょうね。
よく映画とかで、男が女の浮気に対して、かなり辛辣でしつこい批判と質問をしますが、
あの反応は、おそらく、男だけのものですね。
女性は、ああはならない。
最近の非理性的な僕のBlogの中に、
「クローサー」という映画についての感想がありますが、
あの映画は、チープですが、
描いていることは正しいのではないか、と思います。
浮気に関する男女の反応の違いは、
その「性」固有の、身体性や文化によって、かなり類型化されますね。
でも、
浮気は、「背徳」とは違うと思います。
「裏切り」ではあると思いますが。
その愛は本当でしょうし。
ただ、その「もう一人」に対する裏切りではあるのでしょうね。
でも裏切られるほうも、悪いのです。
いや、それは失礼。ケース・バイ・ケースですよね。
相手は相手の「誠実さ」でもって接していても、
裏切られる場合はある。
彼氏が彼女を、無関心の域に置いていたなら、
そこは大きな過失でしょう。
浮気された側は、
「本当に「浮気」だったの?」
という疑念にさい悩まれるのでしょう。
浮気という言葉ほど、雑なものもありませんね。
浮気が浮気であればよし、
という恋愛の達人も、
相手が、自分と等価、対等なら、
「おれとあっちで、迷うのか〜」
と、へこんでしまうのではないでしょうか。
一夜のまちがいでも、よし?
男の甲斐性でも、よし?
「浮気」が「あなたと同レベルの恋愛」でも、よし?
みんな、どこで傷ついたり、どこで大丈夫だったり。
いろいろなんでしょうね。
あ、僕が何かしたわけではないですよ〜(笑)
あくまで、エッセイ。
エッセらホッせ。
それとも、継続的な浮気の方がつらいですか?
それって、人それぞれだと思うんです。
「そりゃあ継続に決まってるじゃない」
果たして、そうでしょうか。
いや、僕もその方がつらいかな、とも思います。
でも、ことによると、一回の突発的なもののほうが、
(突発的という言葉ほど、生々しいものもありませんね)
場合によると、死にそうなくらい、つらかったりするんじゃないでしょうか。
男の浮気は甲斐性だ、とよく言われますが、
なるほど、一夜のパーティーならいい。
でも「愛人」となると、
それは奥さんにとって死にそうなくらいつらいものですね。
まして逆の場合、
(私は典型的で古典的な人間でしょうか)
女性は、やっぱり「受け身」(あまり直接的な表現は苦しい)ですから、
男性側は、また違ったつらさがあるでしょうね。
よく映画とかで、男が女の浮気に対して、かなり辛辣でしつこい批判と質問をしますが、
あの反応は、おそらく、男だけのものですね。
女性は、ああはならない。
最近の非理性的な僕のBlogの中に、
「クローサー」という映画についての感想がありますが、
あの映画は、チープですが、
描いていることは正しいのではないか、と思います。
浮気に関する男女の反応の違いは、
その「性」固有の、身体性や文化によって、かなり類型化されますね。
でも、
浮気は、「背徳」とは違うと思います。
「裏切り」ではあると思いますが。
その愛は本当でしょうし。
ただ、その「もう一人」に対する裏切りではあるのでしょうね。
でも裏切られるほうも、悪いのです。
いや、それは失礼。ケース・バイ・ケースですよね。
相手は相手の「誠実さ」でもって接していても、
裏切られる場合はある。
彼氏が彼女を、無関心の域に置いていたなら、
そこは大きな過失でしょう。
浮気された側は、
「本当に「浮気」だったの?」
という疑念にさい悩まれるのでしょう。
浮気という言葉ほど、雑なものもありませんね。
浮気が浮気であればよし、
という恋愛の達人も、
相手が、自分と等価、対等なら、
「おれとあっちで、迷うのか〜」
と、へこんでしまうのではないでしょうか。
一夜のまちがいでも、よし?
男の甲斐性でも、よし?
「浮気」が「あなたと同レベルの恋愛」でも、よし?
みんな、どこで傷ついたり、どこで大丈夫だったり。
いろいろなんでしょうね。
あ、僕が何かしたわけではないですよ〜(笑)
あくまで、エッセイ。
エッセらホッせ。
僕たちは、いったいどうやって。
僕たちは、いったいどうやって、
自分の気持ちを、
本当に自分が思っていることを、
語るのだろうか。
語ることができるのだろうか。
僕たちは、演技をする。
僕たちの、心自体も。
僕たちが、自分の気持ちを掴もうとするとき、
初めに、「心が、対象世界の現象を感じる」。
このとき、その心がどれだけピュアであるか、など、
そうとう難しい問題であるし、もしかしたら理解し得ないかもしれない。
その次に、僕たちが、自分たちの「心と対面」する。
そのときに、僕たちは一体、どれだけ自分の心を理解できるのだろうか。
自分が本当に思っていることを、
僕たちは常にすくいあげているのだろうか。
そこに、誤解、誤謬はないのだろうか。
そして、最後にそれを「語る」段階がある。
そのとき、僕は適切な言葉でもって、僕の僕自身の心の理解、を、
表現しているのだろうか。
ここで、僕は、聴き手の理解について言及するつもりはない。
僕たちは、適切な言葉を繰り返すことで、その誤解を解く努力をしよう。
「心が、世界と対面し」
「僕が、心と対面し」
「僕は、言葉と格闘し」
そのどこにも、誤謬が含まれ得るという不安。
ここでの「僕たち」は、「僕」とどう違うのか。
ここでの「、」「。」は、果たして本当に、僕の心と完全な対応を果たしているのか。
でも、僕たちは、そんな誤謬と不安にあふれた世界を生きなければならない。
世界と向き合い、自分と向き合い、言葉と相手に真摯に向き合うことでしか、
この世界で、「誠実に生きる」ことはできない。
自分と相手に誠実に生きること。
その姿勢を僕は尊重したい。
そこから先が、感情の世界だ、と、少し思う。
僕は、果たして、語り得たんだろうか。
僕が、誠実に向き合おうと考えた対象は、
適切に捉えられ、言葉を選ばれ、
ピュアな形で、
ここでこうして、書かれたのだろうか。
これは永遠にエクリチュールとして(「書かれたもの」として)、
僕の記号であり続ける。
あなたは、ここから僕を「読む」だろうし、
僕を理解するだろう。
だから、僕はこうして、
何度も何度も同じことを(似たようなこと)、
何度も何度も書いている(書き続けている)。
この「向き合った事実」以外に、
僕は、ここでの言葉達に何の自信もないが、
この「事実」だけには、
(これは多分に誤解を生み出すだろう、危険だけど)
満足している。
僕たちは、演技をする。
僕たちの、心自体も。
そして、僕たちも。
だから、僕は疑い続けるし、ひねくれつづける。
状況に酔った言葉なんて、まっぴらごめんだ!!
自分の気持ちを、
本当に自分が思っていることを、
語るのだろうか。
語ることができるのだろうか。
僕たちは、演技をする。
僕たちの、心自体も。
僕たちが、自分の気持ちを掴もうとするとき、
初めに、「心が、対象世界の現象を感じる」。
このとき、その心がどれだけピュアであるか、など、
そうとう難しい問題であるし、もしかしたら理解し得ないかもしれない。
その次に、僕たちが、自分たちの「心と対面」する。
そのときに、僕たちは一体、どれだけ自分の心を理解できるのだろうか。
自分が本当に思っていることを、
僕たちは常にすくいあげているのだろうか。
そこに、誤解、誤謬はないのだろうか。
そして、最後にそれを「語る」段階がある。
そのとき、僕は適切な言葉でもって、僕の僕自身の心の理解、を、
表現しているのだろうか。
ここで、僕は、聴き手の理解について言及するつもりはない。
僕たちは、適切な言葉を繰り返すことで、その誤解を解く努力をしよう。
「心が、世界と対面し」
「僕が、心と対面し」
「僕は、言葉と格闘し」
そのどこにも、誤謬が含まれ得るという不安。
ここでの「僕たち」は、「僕」とどう違うのか。
ここでの「、」「。」は、果たして本当に、僕の心と完全な対応を果たしているのか。
でも、僕たちは、そんな誤謬と不安にあふれた世界を生きなければならない。
世界と向き合い、自分と向き合い、言葉と相手に真摯に向き合うことでしか、
この世界で、「誠実に生きる」ことはできない。
自分と相手に誠実に生きること。
その姿勢を僕は尊重したい。
そこから先が、感情の世界だ、と、少し思う。
僕は、果たして、語り得たんだろうか。
僕が、誠実に向き合おうと考えた対象は、
適切に捉えられ、言葉を選ばれ、
ピュアな形で、
ここでこうして、書かれたのだろうか。
これは永遠にエクリチュールとして(「書かれたもの」として)、
僕の記号であり続ける。
あなたは、ここから僕を「読む」だろうし、
僕を理解するだろう。
だから、僕はこうして、
何度も何度も同じことを(似たようなこと)、
何度も何度も書いている(書き続けている)。
この「向き合った事実」以外に、
僕は、ここでの言葉達に何の自信もないが、
この「事実」だけには、
(これは多分に誤解を生み出すだろう、危険だけど)
満足している。
僕たちは、演技をする。
僕たちの、心自体も。
そして、僕たちも。
だから、僕は疑い続けるし、ひねくれつづける。
状況に酔った言葉なんて、まっぴらごめんだ!!
2007年6月5日火曜日
ひねくれ松子の一生。
一つ、報告です。
というか、言葉にしておかないと、何ともできませんから、
Blogという場を借りて。
昨日、彼女の家を、
結局、朝早くに訪れました。
すると、本当に元気をもらえました。
長い間、もう関係は終わり続けていたのに、
彼女が、とても好きになりました。
これもいつまで続くのか、わかりませんが。
ここは一つ、温かい目で見守っていただけたら、幸いです。
さてさて、
僕は、
ひねくれている、そうです。
とっても貴重なご意見です。
でも、
自分では、素直だと思ってるんです。
それは、シンプル・コンプレックス論の延長で、
僕は、自分と向き合いたいし、
ウソはつきたくない。
だから、思っていることは、
内的な葛藤も含めて、
(もちろん整理されている状態が一番いいんですが)
ひとつ残らず、話したい(書きたい)。
理性の部分とか、感情の部分とかは、分けて考えたいし、
(でも、大人になれません。僕は、「ませた、かしこいガキ」ですから)
つまびらかに、丁寧に言葉は選んで、見せたいのです。
一つの問題への思考は、自分の頭の回る範囲で、やっぱり考えたいんですね。
それが、ひねくれている、ならもちろんそうかもしれません。
僕は、どんな脳みそにも敬意を払います。
さてさて、
やっぱり、自分で「よく考えた言葉」、「本当に気持ちをdiscribeする言葉」で、
語りたいのですね。
だから、その時の「状況」や「役割」、「勢い」で、
「ありきたりのセリフ」、「そのシチュエーションでこの役なら決まっていうだろうセリフ」を吐くやつは、
大嫌いなんですね。
「またまた、ひねくれてる。どうしてもっと素直に受け取れないの?」
僕は素直です。
でも、あんたのその見え見えの、スケスケの嘘っぱちが、
どうしても許せない。
それで僕を、ひねてると言ってほしくない。
偽善のマスクなんて、
まっぴらごめんですし、
そういうことは経験してきたけど、
さすがに卒業したよ!
というか、言葉にしておかないと、何ともできませんから、
Blogという場を借りて。
昨日、彼女の家を、
結局、朝早くに訪れました。
すると、本当に元気をもらえました。
長い間、もう関係は終わり続けていたのに、
彼女が、とても好きになりました。
これもいつまで続くのか、わかりませんが。
ここは一つ、温かい目で見守っていただけたら、幸いです。
さてさて、
僕は、
ひねくれている、そうです。
とっても貴重なご意見です。
でも、
自分では、素直だと思ってるんです。
それは、シンプル・コンプレックス論の延長で、
僕は、自分と向き合いたいし、
ウソはつきたくない。
だから、思っていることは、
内的な葛藤も含めて、
(もちろん整理されている状態が一番いいんですが)
ひとつ残らず、話したい(書きたい)。
理性の部分とか、感情の部分とかは、分けて考えたいし、
(でも、大人になれません。僕は、「ませた、かしこいガキ」ですから)
つまびらかに、丁寧に言葉は選んで、見せたいのです。
一つの問題への思考は、自分の頭の回る範囲で、やっぱり考えたいんですね。
それが、ひねくれている、ならもちろんそうかもしれません。
僕は、どんな脳みそにも敬意を払います。
さてさて、
やっぱり、自分で「よく考えた言葉」、「本当に気持ちをdiscribeする言葉」で、
語りたいのですね。
だから、その時の「状況」や「役割」、「勢い」で、
「ありきたりのセリフ」、「そのシチュエーションでこの役なら決まっていうだろうセリフ」を吐くやつは、
大嫌いなんですね。
「またまた、ひねくれてる。どうしてもっと素直に受け取れないの?」
僕は素直です。
でも、あんたのその見え見えの、スケスケの嘘っぱちが、
どうしても許せない。
それで僕を、ひねてると言ってほしくない。
偽善のマスクなんて、
まっぴらごめんですし、
そういうことは経験してきたけど、
さすがに卒業したよ!
とってもチャーミングな。
エリック・シュミットです。
とってもチャーミイングな人でね。
こんなことしてるから、
Blogのセッション数が減っていくんですね。
こういう時は、
彼女の家を訪ねて、
頼るべきなんでしょうね。
でも、一人で落ちてしまったから。
落ちる、っていうのは、気持ちがってことです。
(そんな簡単に説明できることではないですが)
思考のスピードが、頭の回転数が、
人より速く、多いものですから、
(笑えばいいさ)
これは決して、自慢でもなく、熟考を欠くという意味で欠点ですが、
というか、話してもわからないでしょうね。
よくこんなことを書きますよね、僕も。
いいよいいよ何でも。
これが、誰に対するメッセージなのか。
あぁ、もう、全然ムリ。
空が落ちてくる〜。
とってもチャーミイングな人でね。
こんなことしてるから、
Blogのセッション数が減っていくんですね。
こういう時は、
彼女の家を訪ねて、
頼るべきなんでしょうね。
でも、一人で落ちてしまったから。
落ちる、っていうのは、気持ちがってことです。
(そんな簡単に説明できることではないですが)
思考のスピードが、頭の回転数が、
人より速く、多いものですから、
(笑えばいいさ)
これは決して、自慢でもなく、熟考を欠くという意味で欠点ですが、
というか、話してもわからないでしょうね。
よくこんなことを書きますよね、僕も。
いいよいいよ何でも。
これが、誰に対するメッセージなのか。
あぁ、もう、全然ムリ。
空が落ちてくる〜。
2007年6月4日月曜日
まれに見るミレニアムアルミニウム。
まれに見る、「落ち期」です。
この数日間、僕とコンタクトした人、
ごめんね。
積み重ねですね。
ちっさいことの積み重ね、
自分のヒストリーたちが、
僕自身を追いつめます。
スカーレット・ヨハンソンが、
よすぎるんだもの。
そのせいにしときます。
この数日間、僕とコンタクトした人、
ごめんね。
積み重ねですね。
ちっさいことの積み重ね、
自分のヒストリーたちが、
僕自身を追いつめます。
スカーレット・ヨハンソンが、
よすぎるんだもの。
そのせいにしときます。
2007年6月3日日曜日
映画を見ました。
「マッチ・ポイント」ですね。
ウッディ・アレンという人が監督です。
僕は彼が大好きなんですが、
確かに今作は、いささか「ドラマ」がなかったかな、と思います。
アレンの作品にしては、物語の「イベント」(=ここでは二度目の再会とその破綻)までの道のりも長く、
すこし、ゆっくりでスムーズすぎる感じです。
いきなりポンと、事件を持って来て、その波紋とか、その中でのキャラクター達を楽しむという、
古畑任三郎メッソド(「スコルピオンの恋まじない」という作品はこの分野ですね)ではありません。
ただ、
「人間」というものを描かせたら、
この人は実に、よく理解しているし、真摯に取り組む、天才だと思います。
とても滑らかに物語は進み、滑らかに終わるのですが、
その中での人物達の、セリフ、動き、心理描写に、
全くウソがない。とても現実的です。
橋田壽賀子先生に見てもらいたい。
(もちろん、アレ(わたおに)の価値は認めます。)
人間ですから、そんなに類型的に、いい人、悪い人という分け方はできませんし、
会話にしても、いろんな布石と気配りと王手、によって会話はなされるものでしょう。
そう、会話のシーンの「会話」はとっても、
本当に秀逸で、脚本家としての彼のセンスには脱帽です。
「映画に文学性なんていらない!!」
かもしれませんし、
確かに、映画として、どうこうという作品ではないと思います。
ただ、これは古典文学として、
1970年代からの、何とも形容しがたい、
「日常を生きる文学」という名のもとにおいて、
とてもすばらしい傑作です。
確かに派手じゃないし、インパクトもないが、
とても愛されて作られた、
とっても繊細で美しい、
非常にディティールの優れた、
いい文学作品だと、
思いました。
ウッディ・アレンという人が監督です。
僕は彼が大好きなんですが、
確かに今作は、いささか「ドラマ」がなかったかな、と思います。
アレンの作品にしては、物語の「イベント」(=ここでは二度目の再会とその破綻)までの道のりも長く、
すこし、ゆっくりでスムーズすぎる感じです。
いきなりポンと、事件を持って来て、その波紋とか、その中でのキャラクター達を楽しむという、
古畑任三郎メッソド(「スコルピオンの恋まじない」という作品はこの分野ですね)ではありません。
ただ、
「人間」というものを描かせたら、
この人は実に、よく理解しているし、真摯に取り組む、天才だと思います。
とても滑らかに物語は進み、滑らかに終わるのですが、
その中での人物達の、セリフ、動き、心理描写に、
全くウソがない。とても現実的です。
橋田壽賀子先生に見てもらいたい。
(もちろん、アレ(わたおに)の価値は認めます。)
人間ですから、そんなに類型的に、いい人、悪い人という分け方はできませんし、
会話にしても、いろんな布石と気配りと王手、によって会話はなされるものでしょう。
そう、会話のシーンの「会話」はとっても、
本当に秀逸で、脚本家としての彼のセンスには脱帽です。
「映画に文学性なんていらない!!」
かもしれませんし、
確かに、映画として、どうこうという作品ではないと思います。
ただ、これは古典文学として、
1970年代からの、何とも形容しがたい、
「日常を生きる文学」という名のもとにおいて、
とてもすばらしい傑作です。
確かに派手じゃないし、インパクトもないが、
とても愛されて作られた、
とっても繊細で美しい、
非常にディティールの優れた、
いい文学作品だと、
思いました。
2007年6月2日土曜日
センチメンタル、じゃ〜に〜。
「H2」を読んでいます。
「透明人間」を聞いてます。
夕方の、小田急線に乗っています。
いい天気ですね。
土曜日です。
久々に、感傷的です。
こういう感じで、すいませんが、終わります。
「透明人間」を聞いてます。
夕方の、小田急線に乗っています。
いい天気ですね。
土曜日です。
久々に、感傷的です。
こういう感じで、すいませんが、終わります。
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