2010年7月30日金曜日

――ダリ「眩暈」について

芸術は私たちを喚起する。

不安、喜び、恍惚

芸術は、それら自動化していく日常の中に忘れられた心性を隆起させて、私たちを感情の渦の中に。

目の前のタブローは私たちを、私たち自身の中に投げ込む。

彼は私を、私は私を、嗤う。

――

世界のどこかにある「崖の中の崖」とも呼べる鋭く美しい巨大な崖に、ただ球体が位置している。

なぜその球体は、私の気持ちを不安定にさせるのか。

私を形作るいくつかのパーツが次第にずらされていくようだ。

私はその球体に共鳴している。

球体の位置、状況。

私は球体を「読んで」しまう。

私の経験的な感情や記憶の追体験が、その球体を通して私に迫ってくる。

いつか私はそのような球体であったのだろうか。    

2010年7月24日土曜日

7/24:誰かの主観が教えてくれること

ゴッホの「糸杉」や「黄色い家」に描かれた世界への眼差しは、

世界というのがそのように見える、また、私たちが既にそのように見ている事実を再提示する。

不安や何ものかへの幻惑を私たちが抱えるとき、事実私たちは町並みを街路をまったく本来の姿――そんなものを心の中で定義することは不可能だが――から逸脱した心象で捉えている。

少しの麻薬で空と地面は反転し、空間は歪み、時間は過去から未来への絵巻を魔法のように開いていく。

「この絵は、20世紀が忘れた理性の輝きを教えてくれる」

誰かが何かの絵画について、それほど意味のないこのようなコメントをするとき、

それでも私たちは、主観の無限な拡大が、私たちに主観というものがあったことを、そしてそれが私たちの想像よりも遥かに大きく私たちを支配していることを、学ばされるのだ。