2009年4月30日木曜日

today.

で、も き、み、は、い、つ、も〜

まぬけづらをした〜

マッチョマン〜とキ、スしてる〜

ど〜お〜すりゃ、いいのさ〜この、気、持、ち〜!


きいみとぼおくに夏がくーるさ

なあつはビートでゴーゴーなのさ

もうすぐく〜るさ わい わい さまー〜!


なんて!自転車、こーぎながら、さーけん、でるー

ヒトリビートでゴーゴー ファイッ ファイッ さわー!    

2009年4月28日火曜日

Lonely Chaplin.

お酒といふものは、飲みだすと、よりいっそう飲んでしまうものなり。





焼き鳥のお店でお昼を食べて、母親の買い物に付き合い、バイト前にお茶をする。

母親はキャラメルミルク、ぼくはボンベイサファイアをロックで、ライムを沈めて。


バイトが終わって、今日は家に戻ってもひとりだろうから、と、

いつものバールに、ひとりで座る。

「すかっとする、ソーダの、何か、カクテル、ください」

出てきたのは、ジンが多めのジンライム。

やっぱり炭酸水とトニックウォーターは、また違うなぁ。

ぼくは、ふつうのソーダも好きです。





ジンが偶然続いたので、一杯で帰ろうかなと思っていたけれど、

マティーニを頼む。

優しい味のマティーニ。

ヴェルモットが少し多め。


よし、帰ろうかな、と思っていたけれど、

お客さんが少し落ち着いてきたので、

お店の人と話が盛り上がる。





チンザノ・オランチョ。

15%ほどの度数で、ストレートで飲む。

アマレットっぽい甘さだけれど、飲みやすい。香りがいいですねっ。





というわけで、けっきょく三杯も飲んで、ずいぶん気分が良くなりました。

この後、帰宅して、

けっきょくスイッチが入って、

飲み過ぎたのは言うまでもなく。


最後は、久しぶりに、湘南台のお友達たちとお話したのでした。in Skype。


京都の春は、まだ寒いです。

独り身に、凍みますなぁ。    

2009年4月26日日曜日

factotum.39

雨の日は、おとしものが多い。

雨の日の夜に、おとしものはやってくる。


ハンカチ

くつ

帽子

イヌ

イアリング

眼鏡



目の玉

二つの目の玉



光彩

血管の通った白い

脳につながる

目の

タマ


雨は、さっき少しやんだ。

ぼくは夜の涼しい街を、散歩しようと、外に出た。

ぶかっとしたワークジャケット、外国の運転手が着るらしい少し無骨なジャケットを着て、夜の街路をふらふら歩く。


歩き始めてすぐに、前の方に何か落ちている。

湿ったトウカエデの木の根元、緑の影の下、フルフラットの石畳の上にごろんと二つの眼球が落ちている。

ぼくは近づいて片方の眼球に手をのばし、しゃがんだまま、片方の眼球の汚れを大きめのジャケットの裾で拭った。

立ち上がって、手を空にのばし、一個の眼球を見上げる。

「おとしものだ」


雨が、また落ち始めた。

ぼくは自分の顔の、片方の空いた眼窩の空洞に、急いでおとしものの眼球を仕舞った。

くぼみにしっくりと納まるまで、右の顔面の筋肉をぐりぐり動かす。

目をあけると、視界がぼやけて揺れている。

街灯の光とトウカエデの影、道沿いに並ぶ背の低い建物と向こうから来る一台の自転車が、まぶしく混ざる。


ぼくは走って、家に帰る。

雨が強くなってきた。

大きめのワークジャケットは、ずいぶん雨を吸っていく。

服がどんどん、重くなる。

落ちてくる雨を吸って、まずはぼくの足が、地面に擦り減るように沈んでいく。

ぼくは懸命に足を動かしてみるけれど、足は確かにその神経を感じさせるのだけれど、地面の下で動かない。

ぼくは両の腕を使って、前に進もうとする。

クモのように、二つの腕を交互に動かし、ずるずると前に這い進む。


髪が濡れて、重い。

上半身全部を覆うジャケットが、重い。

ぼくはもう自分の頭の自重を自分で支えることが出来なくなって、

首を前に後ろに倒してしまい、

次に頭を振った瞬間に、さきに仕舞った眼球を、ごろりと落としてしまった。


向こうに向こうに転がって行く眼球。

ぼくはそれを空になった眼窩で見ている。

上半身をクモのようにして、両肩両腕を張り出して、地面に手をついて、体全体で雨をドブドブ吸いながら、

ぼくは遠くで止まった眼球をじっと眺める。

残った片目で。


向こうで誰かが、片目の眼球を拾っている。

彼には両目がない。


後ろを見れば、さきのトウカエデの下で、男が残った眼球を自分の顔に仕舞った。

残った彼の片方の目も、空洞で暗い。


片目のクモが一匹と、片目の人間が二人。

20メートルの距離に、等間隔でいる。



「恥ずかしい」


真ん中のクモは、

横道に入って、這って家に帰った。


ジャケットが、重い。    

2009年4月25日土曜日

オニオングラタンスープ。



たまねぎを炒めること、3時間。

もう少し色をつけたかったけれど、急な用事で断念。

ネクストちゃれんじ。    

2009年4月23日木曜日

感想 - 5



「写真ノ話」

「要するに、お父さんとお母さんに死んでもらえば写真家になれるってことです。....ハハハハハハハ。一番愛する人の死っていうのが、一番勉強になるんだから。」

「こうも言えるのよ。人が死んでブツになるでしょ。....そんで、写真はブツになったときが勝負とも言えるのよ。ここでどんだけ相手に責任とるかっていうことになる。...それで、クッとこうカメラアングルを習得したわけだよ。ブツになった母に」

「親父の場合はね、....で、そんな元気な感じの親父だったのに、入院して一年ぐらいになると、もうやつれてつまんないの。....とくに、顔が情けない。そこで、そういうのはね、残さない。切る!で、その瞬間にもう、フレーミングっていうのを勉強したことになるわけだよ。写真撮らなきゃ、記憶なんて消えていくからね」

「彼女と初めて会ったとき静岡の浜辺で彼女が拾ってくれた石ころがあるんだけど、その石ころを君と思ってずっと持ってる、っていうような弔辞を言うくらいの気になるじゃない。....で、その海岸に行く前にはいろいろ想像して行くわけですよ。石ころがいっぱいある浜辺を一枚撮って、これが写真集のラストシーンだなぁ、なんて思いながら行くじゃない。ところが、そこに「生」が通り過ぎるんだよ。....「生」っていうのはカップルだよ。....通り過ぎるんだよ!恋愛が。....オレはさぁ、石ころと浜辺なんていうありきたりの哀愁でラストシーンを想っちゃうわけだけどさ(笑)....シボイ二人がさ、手つないで、海辺を歩いて行くわけよ。....でも、それがい〜んだ。」
   

はじめての王将。




うまい!    

2009年4月22日水曜日

感想 - 4



「国家の品格」

(本文の後記を最初に述べるが、以下に書かれた私の感想は、全く論理性に乏しいものである。最後にはただの直情的で品格のない感想をを述べる、という無様な結果に終わってしまった。これから読まれる方には前もってそれを詫び、読まれた方には改めて謝罪をしておく)

著者の主張によれば、大事なのは論理ではなく情緒や感性であるらしい。

よって、私も自身の情緒と感性と直感にもとづいて、読書開始早々に本書を壁に投げつけた。
投げつけたままなので、読むことができない。残念だが、残念以上にその方が有益だ。

本書を批判する言葉はいくらでもある。
しかし、本書のような愚本相手には、それら種々の批判を自分の言葉で列挙する作業すらやる気が起きない。
Amazonで買う必要など全くないので、タイトルのリンク先を別のものにしたが、本書の書評をもう一例だけ紹介して、本書を巡るパブリックな意見についての言及を終えたい。

著者は、論理至上主義を否定し、そして情緒を大事にすることがなぜ重要かを、わかりやすく論理的に証明してくれる。
そんなに説明してくれなくても、情緒で十分なら一言「情緒が大事」と言ってくれれば十分である。
著者の啓蒙主義的姿勢には頭が下がる。
ただ、やはり著者は論理などに価値を置いていないのか、本書の文章の論理は悉く破綻している。

「市場原理主義の前提は、「まずは公平に戦いましょう」です。公平に戦って、勝ったものが利益を全部とる。....こういう論理です。....しかしこの論理は....「武士道精神」によれば「卑怯」に抵触します。大きい者が小さい者と戦いやっつけることは卑怯である。強い者が弱い者をやっつけることは卑怯である。武士道精神はそう教えています。」

大きい者が小さい者と戦うことも強い者が弱い者を戦うことも、全く公平な戦いではない。まずは公平に戦ってないのだから、それは本当にとても卑怯である。
もしかすると著者は、市場原理主義の言う「市場」というものが全く公平なものとして定義されている、と考えているのかもしれない。
しかし市場というのは公平でも何でもない、ただの場所である。ただ交換が行われる場所であるに過ぎない。
よって、競争する者の出発点が同等でなければ、それはもちろん公平ではない。
市場原理主義を批判したいならば、「まず最初から公平に戦えない」と言うべきだろう。
公平でない市場が、公平でないのは当たり前である。自己言及は論理的に常に正しい。

なるほど、もしかすると著者は、市場で戦った結果が公平でないことを「卑怯」だと評しているのかもしれない。
しかも先の「最初から公平に戦えない」という市場原理の欠陥をちゃんと念頭においているのだ。だからこそ「ケインズは、国家が公共投資などで需要を作り出すことの重要性を指摘したのです」などと紹介するのだろう。
しかし同時に著者は、共産主義を「美しすぎて目眩いをおこしそうな論理」と批判する。
彼は結果の平等を完璧に遂行しようというきわめて道徳的な理想を、美し過ぎると侮蔑する。
著者がどういう国家を理想とするのか、この時点で私には、彼の論理的説明をもってしても全く理解できないが、最後に著者は、品格ある国家の指標を「高い道徳」に求める。
国家は善なるものを知っており、何が経済を復興させるかをよく知っているという前提に立つ論理を賞賛しながら、国家が善なるものを知っており、国家が管理すれば永遠の経済発展が望めるという論理を罵倒する。
そして最後には国家に哲人的な道徳を求める。
もう頭が混乱してあまり考えられないが、どうやら著者が結果の平等などを求めていないということだけはわかる。

では彼はどういう論理で、市場原理主義を批判しているのだろうか。

それは、「アメリカが悪で、日本は善である」という論理である。

もういい加減疲れたので嫌みも止めるが、彼は論理を否定して数学を大事だと言い、アインシュタインを評価しないで、ラマヌジャンを褒めちぎる。

いや、もうやめよう。

論理的に書かれていないものを論理的に批評しようとすれば、それは全て書き直すしかない。
著者は「アメリカが嫌いで、日本が好き」と言いたいだけなのだから、そこには始めから論理などないのだ。
日本は世界で一番素晴らしい国だということは、情緒的に明らかなので、論理では証明できないのだろう。

ここまでの私の批判もおそらく論理的でなく、文章として醜い。なるほど著者が言うように「論理や理性には限界がある」らしい。――それでハイエクを否定するのだからもう訳が分からない。

なので、情緒のみで感想を。

あぁ、なるほど。
品格ある国家とは、ナチスのことを言うのか。    

感想 - 3



「グロテスクな教養」


本書は、教養という一般名詞を、多様な最大公約数のもとに分析している。

こう言ったからといって、私が本書を批判しているとされるのは困る。

男の教養、教養の時代的変遷、女の教養。

本書の言及がこの三点にあることで、それは教条主義的な教養主義の言説とは大きく違うことが認められるのだ。

ーーーーーーー

男子よ!2009年に君がエリート的自意識過剰に苛まれ、2009年に君が世の中の安き流れを悉く憂うならば、直ちに読みたまえ。

女子よ!2009年はまさにあなたたちの時代であるとともに、あなたたちの時代である。つまり、階層上昇と、それに対しての失意が混在する時代である。

自分は自分をどう生きるのか、どのように作るのか、と2009年に問うアナクロな諸君。

本書は君たちの展開を生み出す。

君たちが腐るか、それとも生きるかは、君たち次第である。

私の感想は、

入力よりも出力の偉大だ、ということだ。    

2009年4月21日火曜日

factotum.38

「男女の友情って成立しますかね?」

ソファに腰掛けていた秋山は、手元の雑誌に目を落としながらそう言った。

「生物学的には、というのが僕の見解だ。少なくとも女と認識された以上、それは男にとっては交尾の対象だろう」

「それって、矛盾してませんか?」

秋山は雑誌から顔を上げ、いぶかしげな目を向けながら、右の口角を少し上げた。

「確かに。でもやはり矛盾しないね。つまり意識の上で女でないものは、生物学的な問題を除けば性別を持たない存在だ、ということさ」

カワサキはワークチェアに背をもたれて、頭の後ろで手を組んだ。

「何か、悩んでるわけかな。秋山君」

「えぇ、まぁ。でも、女の子の方からそんなこと言われたら、男は答えようがないですよね。知らないけど、今は成立したら困るんだよ、って言うしかないんです」

「君、賢くなったんじゃない。試験が近いからって、勉強し過ぎだよ」

秋山は少しむっとしたが、この先輩にそんなことで腹を立ててもそれは十分無駄なことで、最後は結局彼のユーモアの前に降参するしかないことを分かっていたので、ただお辞儀をするだけで部屋を出ていった。

「やはり、賢くなったんだな」

カワサキは丁寧に閉められたドアを見ながら言った。

デスクの上には、目を通さなければならない二三の書類と名刺が一つ置かれている。

体を起こしてからカワサキは名刺だけを指でつまみ、少し眺めてから足下のゴミ箱に捨てた。

「交尾か。もう少し、いい言葉はないかな」    

2009年4月20日月曜日

BBQと美肌パック。



母親の仕事の関係で、滋賀県は琵琶湖近くにバーベキューに行った。

最初はせっせと焼きそばを作ったりしていたが、

小さい子供が多かったので、バレーボール、サッカー、鬼ごっこ、バドミントンと、記録的な真夏日の炎天下の中、汗だくになった。

缶ビールを5本くらい飲んでいたので、くたくたになりながらだが、なかなか気持ちよかった、楽しかった。


帰ってくると完全に顔が日焼けして、熱くてたまらない。

急な運動とアルコールで頭も痛い。

キンキンに冷やした美肌パックで顔を癒す。

撮影は、妹。    

感想 - 2



「ケインズ・シュンペーター・ハイエク」

本書のタイトルの全文は、「ケインズ・シュンペーター・ハイエク ー 市場社会像を求めて」である。
副題に「市場社会像を求めて」とあるように、本書の後半において著者は、20世紀経済学を代表する三人の巨人がその思想の中で描き出した市場観、社会観を比較することで、市場社会の要素や構造の分析と、その未来への展望を考える。
しかし、まえがきにもあるように、本書は著者のケインズへの偏愛に満ち満ちている。

「本書は20世紀前半の主導的な経済学者であるケインズを、時代状況、家庭環境、思想・文化環境、経済理論の構築、経済政策活動、市場社会観等の側面から検討することにより、立体的なケインズ像を提示すること、ならびにそれらを通じて同期間のイギリス経済社会の状況の一端を探ること、を主たる目的としている。」

さらに「本書がケインズを中心に論じることにした主な理由は次の点にある。」と述べ、二度の世界大戦の中で世界の経済システムが大きな不安と混乱の中に向かう時代に、ケインズはその中心的な人物となって新たな経済理論、経済政策論、世界システム案を提案したことを評価し、「これらの点で彼に比肩する人物は皆無である」とする。

最終的な感想を率直に言えば、本書は「ケインズ本」として実に秀逸であり、人間としてのケインズの実像と歴史的なケインズ像の側面を巧みに融合させながら、そこに黄金期の凋落から始まるイギリス社会の諸相を織り交ぜ、ケインズがいかに生まれたのか、またケインズとは何だったのか、ケインズは現代に何を教えるのか、という包括的な「ケインズ像」を描き出すものである。

一人の経済学の出発は、その主体個人の社会哲学から始まる。
よって、ケインズの人格形成の過程から彼の理論の構築の手順を見る本書の手法は、我々のケインズ理解を一層深めてくれるものであろう。

よって本書はまず、「ケインズとは誰か?」という興味を持った方に推薦される。
経済とその理論としての経済学の理解や、人間自身、社会の実相といったものへの興味も本書は満たしてくれる。

では、シュンペーターやハイエクについてはどうか。
もちろん出鱈目が書いてあるというわけではない。シュンペーター経済学の全貌とその前提である「創造的破壊」概念の説明や、ハイエクの「自生的秩序」の論理や彼の社会哲学の本質を、本書は十分に紹介している。
しかしそれはケインズの分析の質や量と比較して、全く不十分であり劣っており、フェアではない。

もちろん本書のまえがきは事前に読者にそれを宣言し断わっている。
これはケインズがメインであり、残りはその思想理解の補佐であると。
しかしたとえそのように宣言されたとしても、本書を読了して思うことは、タイトルが全く不適当であるということだ。
「ケインズ・シュンペーター・ハイエク」と三者を並列して並べることも間違いであるならば、副題の「市場社会像を求めて」という設定も間違いである。

「ケインズの思想とその時代 ―― 市場社会の理想とは何か?」

これくらいが適当であろう。
本書は三者の市場社会像の比較も十分ではないし、何より著者自身がケインズの社会観を自身の思想の中核に据えていることが本書全体からありありと見て取れる。
冷静な論の展開に努めてはいるが、著者の疑義はことごとく彼の思想を前提に出されており、哲学的認識の底が浅い。

たとえばハイエクを批判して「重要なのは、現存する市場社会を、巨大企業組織や巨大労働組合が重要な機能をはたしていることを視野に入れ、....検討するということであろう。」と著者は言うが、そもそも巨大企業や組合の存在が、自由な市場による生産能率の弊害である可能性もあり、また「一人の天才が歴史の流れを決定づけるということは、人類がこれまでに幾度も経験してきたところである。」との主張は、そのような行為も自制的秩序の宇宙の中の一つの変数であり得、ハイエクが理想とする市場社会における国家の役割といったような問題の一層の分析と考察を必要とするテーマである。

ケインズと同質同量の分析を他の両者についても行えないのであるならば、著者はケインズをもっと主軸に据える姿勢を徹底するべきだった。そうであるならば、より有効な議論と結論が導出出来たかもしれない。

本書はそれでも比較の書である。
以下事項別に、本書における三者の主張の記述を比較したものを記す。

<人間>
ケインズ:資本主義にあっては「強欲、高利貸し、用心等」
シュンペーター:「企業者」と、それ以外。
ハイエク:「きわめて非合理で、誤りに陥りやすい存在」

<資本主義>
ケインズ:賢明に管理されるならば、いかなる代替的システムよりも効率的なものだが、「本質的にはきわめて不快なもの」
シュンペーター:「創造的破壊」によって形作られ、貨幣単位を計算単位にまで高め、人間行為全般を合理化する。
ハイエク:市場社会の前提

<社会主義>
ケインズ:「貨幣にたいするわれわれの考え方や感じ方を劇的に変革させることは、現代に具現された理想がますます重視していく目的となるかもしれない。おそらく、それゆえにこそ、ロシアの共産主義は偉大な宗教がもつ最初の混沌とした感動を露呈しているのである」
シュンペーター:「生産手段にたいする支配、または生産自体にたおする支配が中央当局に委ねられている....ような制度的類型」
ハイエク:「設計主義的合理主義」の極限であり、「隷従への道」である

<市場>
ケインズ:「中央組織による通貨と信用の意識的なコントロール」と「大規模なデータの収集と伝播」によって、リスクや不確実性を縮減することで、最大の効率となる
シュンペーター:「創造的破壊」によってはてしなく運動と反運動が繰り返される均衡
ハイエク:不完全な情報と知識しか持たない個人を、価格システムを中心に情報を伝播・伝達させることで、社会に結合させているもの。また完全情報を達成する場。

<動力>
ケインズ:資本主義にあっては「金もうけ本能および貨幣愛への強力な訴え」
シュンペーター:「企業者」による「創造的破壊」
ハイエク:予見できない変化を生むものとしての「競争」と、それに応じてなされる諸経済主体の意思決定

<未来>
ケインズ:政府が「金融業者、企業者、その他この種の人々の知能と決断力と経営力を、合理的な報酬条件で社会の役に立つように活用する」
シュンペーター:資本主義はその過程の進展とともに制度自体が自壊し、社会主義社会が実現する。
ハイエク:抽象的原理の強制による完璧な市場社会こそ、人類の到達した最良のもの。

以上が簡単なまとめと振り分けである。
この要約にも私の偏見が介入している余地があることは否定出来ない。

本書を離れて私見を述べれば、
ケインズの具体的な施策者としての情熱を私は評価し、
シュンペーターの経済構造とその動力の分析を評価し、
ハイエクの社会哲学とその理解と姿勢に同感する。
これまでの繰り返しであるが。    

2009年4月19日日曜日

一日酔い。

京都に戻って少し経ち、

この一週間ほどでめっきりお酒を飲む量が減った。

無理をして酔わなくても、また、無理をしてお酒を飲んで暇をつぶさなくても、それなりに時間を充たすことができるからだろう。

健康であることが体や心にいいことかどうかはわからないが、ぼくの体は健康である。


読書や勉強を真面目にやろうと思うと、やはりお酒は邪魔だ。

話すとか動くとか、そういうことではなくて、真面目にじっと机に向かうには、アルコールはぼくを上気させ過ぎる。

穏やかに静かに、目の前のことに落ち着いて取り組むのならば、コーヒーが一番だ。
(粉末のインスタントコーヒーというのは、なかなかどうしておいしい。何より手間がかからなくて、いい)


今日は全く何も手に着かなかった。手に着く気分じゃなかった。放っておけばいつも非生産的なぼくを、今日は修正することが出来なかった。

ので、昼からずっと、オンでいた。飲んでいた。

すっきりしたと少し甘いスコッチを飲んで、陽気になった。

そのまま祖父母の家に筍ご飯を食べに行き、そこでワインを一本空けたら、かなり酔ってしまった。

帰りの自転車が少し危なかった。


昼からスイッチに手をかけて、力をいれていたから、ここでスイッチが入った。

一度家に戻って、飲みにいこうと意気込んだ。

ぼくは京都に、ずいぶん友達がいない。

連絡が出来ないからと言い訳をしておく。

少し家でぼーっとすると寝てしまった。

起きたら、妹が帰ってきていた。

そうして今までふらふらと起きている。





真面目さと飲酒は、両立しない。

かといって、どちらか一方にも走れない。

昨日の真面目は、今日の不真面目につながっている。

今日の不真面目は、明日の真面目を保障しない。

どちらも、ぼくを裏切らない。

真面目にも不真面目にも、ぼくは誠実でありたい。





久しぶりにがばっと飲んだから、一眠りして起きると、頭が痛かった。

弱くなっていく。

すかっとしたくてコンビニにいったら、いいのがあった。

おいしい。    

2009年4月18日土曜日

感想 - 1


「金持ち父さん 貧乏父さん」

もちろんお金は好きだけれど、経済とかお金とか、そういうことばかりに関心を持っているというわけではない。
世の中はたいてい何だって、おもしろい。
読みたい人が近くにいたので、近くの図書館で借りた。
だから彼女が読む前に、読んでみた。

(なぜこんなに言い訳がましいことを最初から言っているのか。羞恥心なのか?)

著者にもそしてこの文章を読んでいるあなたにも申し訳ないが、私は本書をちゃんと読んでおらず、飛ばし読みをした。
しかしそれは決して本書の内容の優劣によるものではなく、ただ単に私の性向の問題である。
私は、説教臭いもの――少なくとも自分がそう感じてしまうもの――が、大嫌いなのだ。

繰り返し言うが、以上の行動や感想は、私のパーソナリティの問題であり、純粋に主観の問題の範囲に属するものである。
これを最初に書いたのは、以下の記述がそういった個人の主観的な読解と用心深く距離を置かれて書かれたものであると、私は最大限私の感想を私のバイアスから遠ざけたということを示すためだ。
私の言及が絶対に私の主観から逃れ得ないという本来的な議論はさておいて、そのようなニュアンスを感じ取ってもらえればうれしい。

本書を読む上で忘れてはならないこと。
それは本書が「金持ちになるため」に書かれているということだ。
もちろんテクストの読み方というものは千差万別であり、そのどれもが正解だと思う。
一人の成功者の成功は、彼の人生の全てを肯定する見方を生み出すだろう。
しかし本書も、成功や善悪を人生の価値という観点から述べてはいないし、私には著者自身がそれを慎重に避けているように見える。
本書は純粋に物理的にいかにして金持ちになるかの手順を教えるものであり、そのために必要なマインドや思考の在り方を示すものだ。
よって、本書を金の亡者の読み物として扱うのは適切ではない。
お金を稼ぐにはどうすればいいかという手引きがそこには書かれているのであり、その中で人間が持つべきとされている一切の人間像は「お金を稼ぐ」ための理想像なのだ。

そのような認識に立ち、つまり自己の保持する貨幣を将来に向けて可能な限り最大化することを目的とする人間の生涯の社会的また人格的なモデルの記述として、本書は実に創意に富んだものであり、読み物としての面白さも十分なものである。

「資産は私のポケットにお金を入れてくれる」
「負債は私のポケットからお金をとっていく」

これは私個人の意見だが、本書に合計21個描かれている「収入・支出・資産・負債」の図示は、本書全体の内容を極めてシンプルにそして包括的に要約してくれるものであり、それだけを見て頭の中で読み取るだけで、単純だが美しい一つのモデルを学ぶことが出来るだろう。

何度も言う。
本書はリアリティーを満たした小説であり、普遍的な強度を持つであろう抽象性を一人の人間の生涯から一つの人格モデルとして導きだしたものである。
この話はこの形以外にはなく、そこで宣言されたテーゼは悪いものではない。
本書の文章や挿話は、「金持ちになる」ためには実に有効な滋味に溢れている。

さて、そこで私が提案したいのは、先に紹介した「収入・支出・資産・負債」という言葉を各人が各人なりに意味づけてみる、ということである。
本書では目指すべき人間像を「金持ち」と置いたが、我々には共通の目指すべき人間像などはない。
私にとって何が資産であり何が負債であるかというのは、私が何においてそれを判断するか、どういった目でそれを見るかに依る。
私の文学は、私の過度な飲酒を大いに喜び肯定するだろう。
飲まれたアルコールは全て収入であり、飲めば飲むだけ私の資産、意識や経験の量や質の変化は貯蓄される。
支出は寿命であり、負債はその他の全てだ。
ある種の性格を持つ人ならば、失敗も十分な収入であり資産であるだろうし、ほとんど全てのことを収入に転換できるだろう。(それが資産の絶対値の減少となっても、である。彼や彼女は新たな価値の設定でそれに対処するだろう)

これは「何だ、人格論に置き換えただけじゃないか」ということではない。その批判に逆説的な回答をすれば、ほとんど全ての精神的現象は全て経済的現象に置き換えられる。時間は金であるが、時間は自在に定義可能だ。

私が主張したいのは、ただ「収入・支出・資産・負債」というこのモデルの明瞭さとその含意である。
その4類型に自分と周囲を分類してみるというその行為である。
何にとって何が収入であり、ある何かを収入と考える自分は一体何を支出であると考えるのか。そしてその支出ははたして資産を増やすものなのか、それとも全く無意味な世界に消えるのか、それとも負債にすらなってしまうのか。

「資産は私のポケットに○○を入れてくれる」
「負債は私のポケットから××をとっていく」

自分の描く価値とその世界を多次元的に眺める場合に、そのような一つの単純なモデルを用いる。
そのような一つの思考の在り方をストックしたことで、私の支払った時間は、資産となった。
一時的には過払いの支出であったかもしれないが。

※説教臭くなってしまった。話法のより一層の精進に努めたい。
   

2009年4月17日金曜日

factotum.37

木枠の窓に木枠のブラインドがはめられて、その隙間から入り込むオレンジ色の光が部屋全体を包むようににじみ融けている。

椅子に座り、テーブルに両肘をついて、宙に浮かんだ手足の先をぶらぶら遊ばせる。

いつもと変わらない、みほちゃんのお決まりの景色であり世界だ。

「だめなの?」

そう言うと彼女は立ち上がり、ベッドのある部屋に戻った。

ついさっき起きたばかりの彼女は、寝てた姿そのままに彼女が言うところの「まんなかの部屋」に出てきたのであり、まんなかの部屋のまんなかに自分を落ち着けたと思うと今のようにまたベッドの部屋に戻ってしまったのだ。

ベッドの部屋から戻ってきた彼女は、テーブルと平行に行儀よく並んでいた椅子を斜めに引き離して、お尻を置くとすぐに片膝を立てて自分の体に寄せた。

ペディキュアを人差し指の爪から塗り始める。

どこから塗ればいいのか、決まりがあるとしたらやはり親指からなのか、それを彼女は知らないが、彼女の感覚では、人差し指から中指へ筆を進め、小指に飛んで次に薬指を、そして最後に親指の爪を塗るというのがもっとも美的にしっかりする、彼女の感覚的にはしっくりくる順番だった。

みほちゃんはじっと足の先に視線を固定し、沈黙している。

ゆっくりと下から上へ滑らかに動かされる筆と手先の他に、騒がしいものはなにもない。

ある一点を除いて、景色全体もまたひっそりと沈黙を決めたようだ。

みほちゃんは凝視を続けている。

手首から指先、指先から筆先へと延長されるその動きの流れは、精確なリズムで繰り返されている。

黒い爪。

「こうやって自分を守るの。自分が一番自分にいじわるすることで。黒い爪のあたしを愛せるのは、あたしだけなの。」

みほちゃんは爪を塗りながらそう呟いた。そう呟いたように口は動いたように見えた。

太陽はもうこの街から消えていて、部屋の暖色はすっかりインディゴに塗り替えられていた。

明かりもない中、みほちゃんは変わらず作業を続けている。

そこでは一つの動き以外、やはり何もかもがひっそりしていた。

ペディキュアが塗られ続けなければ、テーブルも壁も何もかもが窓から外に吸い込まれてしまいそうだった。

夜に融けていくような夜。

彼女はそんな変化に関わらず、親指の爪をずっと塗り続けていた。    

2009年4月16日木曜日

factotum.36

人間だけが、歴史の記憶に触れられる。


交差点でふと立ち止まり、東から西へ南から北へ延びていく幅の広い道路を眺めて、そう感じたことはないか。


地球というなんとなく知っているだけの巨大な球体のイメージに、人間の交路はぐるぐると巻き付けられ、検討のつかないほどの建物が隙間なく突き刺さっている。


相対的にはちっぽけで、絶対的には気の遠くなるような時間がかけられ、今日自分が買い物をしたスーパーマーケットは出来たのであり、今日ここにいる無数の人々の、それら人々の無数の行き着く先々が用意されたのだ。


人間だけが、任意の現在に立ちながら、任意の過去に触れられる。


「先進国の傲慢。人間の傲慢」


生物にとって記憶とは、"なくなったもの"と同義だ。


現在の喪失感は過去を照らし、記憶は影のように蘇り

過去からの記憶の光によって、私たちは現在の影を意識する


実体のないもの、触れられないもの。


それが記憶だ。


ただ人間だけが、記憶を記録し始めた。


なくなったものを、"あったもの"として保存することを可能にした。


だから、だろうか。


なくなったものが、本当になくなってしまったことを

それが本当に"あったもの"としてはっきりと見せられたとき


抵抗できない悲しみが、こみあがる。


ある医者がある人の手術をした。

手術は開始から6時間で成功し、局部麻酔のため意識のあったその人と医師は、二人で成功を確かめ喜びあった。

しかしすぐに合併症が引き起こされ、11時間の手術の後、患者は亡くなった。



テレビの中で。


最初の30分の間に本当に生きていた人が、次の30分では本当にいなくなってしまった。


その1時間は、すべてもうその人がいなくなった後の時間だった。


生きているものが、ある、ないということが、その長い時間の背景が、

様々に時空間をずらされて、立ち現れた。

現実に世界を知覚する、それと全く同じヴィジュアルで。


この驚きは、そのことの驚きなのかもしれない。


偽善かもしれない。


「おばあちゃん」という記号に感傷的になり、

メディアのデマゴーグに扇情された愚かさかもしれない。


よってこれはただの"きっかけ"でしかない。

最初に書かれたことの。


ただ人間だけが記憶に触れられる。

ただ人間だけが過去を現在として扱える。


ただ人間だけが、その特殊さの生み出す未来を経験する。


たとえその暴力に自身が砕かれるとしても。    

2009年4月15日水曜日

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「電波利権」

最近の僕は、やっと池田信夫的経済観からようやく少し冷静になり始めたけれど、やはり彼の社会観やその感覚というのは僕自身の哲学にマッチしているから、自分の"見方"を対象の分析に理論的に組み入れながら理論を構築していく彼の論述形式――プロフェッショナルには反駁もあるのだろうが、少なくとも僕のような学識のない人間にはそう見えるーーは、僕としてはかなり大きい説得をされてしまい、かなり大きい影響を受けながら首肯してしまう。

本書の発売は2006年であるから、日進月歩に進化するこの業界ーー皮肉である。本書を読めばわかるようにそれは技術だけであり、だからこそシステムがより一層遅れていくーーにあっては、本書の取り扱っている現実は過去となり、描かれた将来の予測も何らかの結果となって過ぎていった。

最先端のテクノロジーを語る、今現在のニュースを知るという観点からすれば、ここで扱われる要素はもはや周知のものばかりと考えても間違いではない。

しかし本書の重要な意味は何よりも、"通信・放送・電波"といったテーマを"経済学者"が考えたことだろう。

「本書の特徴は、電波をこうしたビジネスの観点から見た点にある。」
「これまで電波をテーマにした本といえば、技術的な解説書に限られ、放送についてはジャーナリズム論として議論したものが多い。しかし放送の未来像を論じる上でも、ジャーナリズムのあり方を考える上でも、電波を取り巻く産業の基盤が大きく変化しているという現実を抜きには語れない。」


著者が冒頭で語るこの言葉が本書を貫く議論の骨子である。

許認可制による"免許の配給"によって作り上げられた日本の放送システムの歴史を、国内外の政治情勢の変遷や"標準化"のグローバリズムの相の下に語り、それら歴史の観察と分析と反省から、これからの電波の将来像を考える。

そこで糾弾されているのは明らかに「電波社会主義」と呼ばれる設計主義であり、目指されるのは別の著作でも語られた「自立分散型の構造」である。


「なんで、インターネットでテレビが見れないの?」

「それは、損する人が多いからだよ。いろいろ出来上がちゃってるからね」


そんな会話の経験がある方は、一度お読みになって損はないだろう。


*「斜体」は原書の引用である。今後何らかの感想を書く際には、この書式をとる。    

2009年4月14日火曜日

factotum.35

この空気が好きだった。

偽善と遠慮で残された少しの緑、街路樹が、いつもより少し湿度を含んだ空気、夜になって涼やかになった空気の中で、その匂いを街全体に満たしている。

この空気が、好きだった。

好きだったことを、今、この気持ちよさで思い出した。

あのときの俺は、どんな感じでこんな風に自転車をこいでいたんだろう。

今と昔の俺は、そんなに違うか?

「違わないね」

「いや、成長してるわ」

昔はコーラだったか、今はそれがビールか、それぐらいの違いか。

「昔もビールだったよ、はは」

自転車で走るというのは、その土地の地形の様子をよく感じさせてくれる。

北に向かえば、ペダルが重い。

少し踏ん張りながら、少しペダルを強く押し、少しだけ息をあげる。

少し、少し、少し。

ちょっとのことをちょっとの力で過ごしている。

ちょっとのことに思い切りの力をかけることはできない。少しの力で回るペダルを、思い切り踏み込み続けることはできない。

少しの緑、少しの湿度、ペダル、坂道、息、体温の変化。

重いペダルが必要なのだろうか。

俺はこぎたいのだろうか、そのペダルを。

重いペダルの自転車を作ることも、買うこともできないとしたら、じゃあ誰かが乗せてくれるのだろうか。

乗せて欲しいのか?

乗りたいのか?

乗れたか乗れなかったか、チャンスをどうしたこうしたの話なのか?

そうやって俺は俺に嘘をつくのか。

目の前に流れていくつまらない樹や草みたいに、歯切れの悪い心をぽつぽつと残したまま、俺は俺を完成させていく。

いつでも焼き払える。

街は燃える。

いつでもこの手で、街は燃やせる。

燃えたあとには何も残らないが、何もないことが生むことが一つあるとすればそれは、失われる可能性のあるものもそこには全くないということだ。

諸行無常の響きすら響かない灰塵の広場。

焼け落ちた瓦礫の中で、呆けてみればそこには、やっぱり何もないということがある。

ただ、焼けたあとの空気だけが。    

2009年4月13日月曜日

cogito back home.


   

2009年4月12日日曜日

努力についてのMankiw的観察法。

完全競争が成立している完全市場のように我々主体の行動と成果が成り立つとする。

そのモデルは、自己の情報を自身以上に知りうる人間がいないという仮定に基づけば成立するものである。

しかし、主体のそのような決定モデルから導きだされた結果、報酬の全責任を、彼の決定モデルに全て帰するのは、少し酷であるかもしれない。

短気的な経済観測と有効手段を考えれば、そこには需要刺激による状態の底上げが可能であり、硬直した均衡点を上向きに修正することが可能である。

ルールや状態の変化は彼の潜在的な生産力を生み出すかもしれないが、一瞬の起爆力としては成立しにくいものであるからだ。

もちろん財政出動のような真水はストックに支えられるものであるから、主体は最終的にフローとストックを恒久的に循環させるポンプにならなければならないが。


僕もなんと弱くなったことだろう。

つまり僕は20代をヒモとして過ごしたいのだ。それをソフィストとしての僕はこのように語るということだ。

*経済学を真剣に学ばれている方は、怒らないで聞いてほしい。
 ただこんなつまらないゲームでも、「のって」くれるなら、それは楽しいことだ。    

2009年4月9日木曜日

まじめんな、ふざけやろう。

   

factotum.35

河沿いを走りながらゆうたは、ふと足を止めた。

河沿いにずっと北へ北へ走るのは毎日の日課にしていることだが、こうやって景色に目を留めて、しかも立ち止まるというのは彼には珍しい。

大きな河沿いに延びる二車線の道なりにぽつぽつと街灯が置かれており、延びて湾曲したその首の先が、ちょうど桜の枝々の中に重なって一本の桜の木の中を明るく膨らませている。

こういうのを、なんて言うのかわからないな。きれいなんだけど、ぼんやりしてるし、捉えらんない。白いし、ピンクだし、やっぱり木って茶色いし、全部あわせて桜、サクラ?の方がいいのかな、サクラなんだよね。花びらは小さい。きれいだ。

ゆうたは立ち止まって見ている。すぐ傍を車が何台か向こうから背後へ走り抜けていくそのヘッドライトが、彼とサクラを照らし一瞬間一体にさせる。

同じ光りの中で彼はサクラを我が身のように感じ、しかしそう感じた瞬間にやはりサクラはただの木でありモノであり、自分とは違う他者であり、勝手に感じた自分の感傷を、えぐいエゴイズムだと感じる。

「きれいでしょ?」

河の土手から急に声をかけられて彼は心臓が止まりそうになり、上半身から汗がじわりと吹き出す。

急に声をかけてきた彼女は少し離れたサクラの木の根元から急に起き上がったように現れ、いや正確には現れたように、そこに立っていた。

「昔からサクラの木の下には幽霊っていうけれど、そうなのかな?」

ゆうたはまだ心臓をばくばくさせながら、自分でも意味のわからない文脈で話しだした。少し離れたところの彼女の服は、ひらひらして白い。

「そうね、そうです。でも幽霊でも幽霊じゃなくても、こんな時間にこんな風に誰かが現れたら、それだけで十分恐いでしょ?だから私が幽霊でも幽霊じゃなくても、変わらないわ。それに、あなたは恐がらなくていいの、私は恐くないから。ふふ、でも無駄よね、自分で自分のことを言ったって。何にも証明できませんね。」

「そうだね。で、何なのかな。僕はまだ警戒してるんだけれど。すぐにでも逃げ出したい。でも、君の口ぶりにほだされた、ほだされたっていうのかな、緊張が拍子抜けしてるのも本当なんだ、何かあれば聞くよ。恐いことじゃなかったら」

「キス、してくれない?」

「恐いよ」

「死ぬとかそういうのはないわ、多分だけど」

「経験談なの?」

「えぇ、急にね、したくなるの。春って、寂しいから」

「春が寂しいのはすごくわかる、けどやっぱり難しいな」

「難しいことは、出来ないことじゃない」

「そうだね、出来ないことじゃない」

ゆうたは、ほとんどのことに受け身だ。それは彼の自信家な部分がそうさせるのか、それとも彼が本当に何かを決定することの難しさを認めていて、その上で自分の身に降り掛かる全てのことを受け入れようと積極的にも消極的にも決意しているからなのだろうか。

幽霊の彼女の唇は、小さくて膨らんでいて柔らかくて、なによりピンク色だった。

そんな印象が目の前に浮かんだときには、彼女はやはり急にゆうたの唇に自分の口を触れさせていて、二人の唇はそれぞれの厚さを自分の中に溶け込ませていた。

ここは、どこだろうか。走ってただけなのに。ここには、二人の顔しかなくて、アニメの感動的なシーンみたいだ。辺りは真っ白で輝いている。僕たちの顔しか映ってない。二人の世界。

厚いピンク色の重なった部分だけを残して、世界は急に現実へと収縮していった。

温かい唇の感触だけを残して、彼女は消え、暗い夜の中にサクラと街灯が明るく浮かんでいる。

灰色のコンクリートの道が闇に延び、緑の土手が河に落ちていく。

ゆうたは、また走り出した。

さっきのが自分の夢だろうと何であってもいいけれど、自分にも誰かが欲しくなる瞬間があるんだなと、彼はふと自分の弱さと本能に気づかされた。

しばらく走って、最後に全力で疾走し、ぜいぜい息を吐いたあと、胸を落ち着けて彼はケータイをポケットから出した。

「もしもし、夜遅くにごめんなさい。今からお家に行ってもいいですか?」

「いいよ。でも眠たいよ」

「ごめんなさい。でも今はなんだかそうしたいんです」

「可愛いですねー、仕方ないなー。待ってまーす」

「すぐ行きます」    

2009年4月6日月曜日

factotum.34

一般的に、赤ワインと魚介類は食い合わせとしてマッチしないと思われているが、その半分は事実だし半分は思い込みだ。

しかし、タンニンが強いぶどうの皮のざらざらを感じるようなピノ・ノワールにスルメイカの天ぷらとなると、さすがに少しえぐみのあるもわっとしたアンバランスが口中に広がり鼻に抜ける。

「でも、そういうときのあの感じ、おもしろいし楽しいから私は好き」

「へぇ、かわってるね、何かなそれは、マゾなの?」

カワサキは笑ってそう聞き返した。

「Mか〜、そうなのかな〜わかんないけど、ほら悪いものじゃないじゃない。おいしいものは匂いもきついでしょ、あんまり気持ち悪い匂いじゃなかったら、私は好きだなぁ、可愛いし愛せるもんね」

まいちゃんは紅いテーブルに片肘をつきながら、オリーブに楊枝を突き刺して口に運んだ。

オリーブか、目の前のタラのフリットと彼女の白のグラスを見ながらカワサキはその三種が口の中で混ざり合ったその世界を想像する。

「もう少しさっぱりさせてくれる白にしようか、僕は詳しくないけど」

「そうだね、お店の人と目が合ったら呼ぶよ」

二人はそれぞれのグラスをそれぞれ眺めながら、昨日の夜の自分を思い返す。

カワサキは自分の部屋にいた。

「急だった、かもしれないな」

まいちゃんも自分の家にいた。

「急だった、かなぁ」

カワサキは店員を呼び白のハーフを注文したあとで言った。

「今日は?何してたの?」

「お昼過ぎまで寝てた、君は?」

「朝は大学だね、夕方に家に帰ってシャワーを浴びた。大学でも浴びれるけど、落ち着かないから」

「昨日は?」

「夜は、家にいたよ。君は?」

「おうち」

ワインが届き、新しいグラスに注がれる。

「おいしい。でも私はさっきのも、よかったな」

「世の中、だいたいほとんどのものは素敵だよ」

カワサキの言葉に、まいちゃんは口を付けていたグラスを置いて、笑う。

「なにそれ、どうしたの?おかしい」    

2009年4月5日日曜日

I can make me happy.

にゃーにゃーと、めんどくさいことを午後の3時まですませて

ぐわぐわと、いらいらしながらスーパーに向かい

むがむがと、よし遅い昼飯にパスタをぐわっと作って夜もキャベツをまるごと料理してくれるわと買い物し

しゃばしゃばと、傘で守れない可哀想なカバンを雨に濡らしながら

ぷらんっと、信号待ちをしていた。


隣に外国人の女性、かなりいいお年だがかなりかっこいい、シルバーのおかっぱ&いいセルのウェリントンの淑女ペアがいらっしゃる。

おかっぱ女史が僕をちらりと見る。

おかっぱ女史は僕を背景に立ち、ウェリントン女史はカメラを構える。

僕は邪魔にならないようにと少し体を動かしたが、カメラは僕のズレに合わせて2度向きを変えた。

「ぼく?」

ぽけっとした顔をしたところをM8のシャッターで切られた。

なるほど、僕も負けずおとらずの「おかっぱ&メガネ」だからな。胸を張ろう。


二人の女史は青信号を渡り、まっすぐ大通りを道なりに進む。

僕は少し立ち止まりどうしようか考えたが、おもしろそうだから後ろをついて歩くことにし、どきどきしながら話しかけようかどうしようかと早足でついて歩く。

「さっきなぁ、おばさんに道聞いてたっぽいんだよなぁ」

かなりの早足に必死でついていく、しかし悟られてはいけない、あくまで僕の行き先(家)もこっちなのだ(事実こっちからでもいける)

「ここで話しかけるくらい自分をチェンジしていかないと、Yes, We can I can We....excuse moi...」

そうしてこの競歩を自分の人生の行く先にまでフィードバックさせながら下を向いていると、突然ウェリントン女史が振り返りこちらに話し寄ってきた。


<以下:僕の全く稚拙で不思議な英語&フランス語の混成と、二人の女史の流暢なフランス語&少しの英語による会話>

ウェリントン女史(以下:ウェ女史)「寺町通りはどこですか?」

僕(以下:僕)「あ〜ん〜、と、じゃあ付いてきて!」

ウェ女史「あら、フランス語話せるの!?」

僕「少し。です」


なんでもウェ女史は写真家で(道理でライカ!)日本に5週間ほど滞在するのだそうだ。
おかっぱ女史はわからないが、京都は2日目らしい。


ウェ女史「あなた学生?」

僕「この3月に卒業しましたが、まだ勉強中の身です」

ウェ女史「何の?」

僕「あ〜ん〜っと、法律〜ん〜法律〜」

ウェ女史「それはavocatっていうのよ」

僕「アボック?。。へ〜、ふ〜」(聞き取れてないわけだ)


寺町通りについた。


おかっぱ女史「一保堂はわかる?」

僕「ええ、お茶の?」

おかっぱ女史「そうそう、それとギャラリーにも行きたいの。ここ」


地図を見ながら歩いていく。

着いた。

お別れ。


二人の女史「アリガトウ〜☆」

僕「good trip〜」


僕は笑顔で帰路に進むが、顔は少し苦い。

「グッドトリップはないよな、いくらとっさに出たといっても、、have a〜みたいなこと言えるだろうに、おい。」

しかし、顔は同時に晴れ晴れ晴れた桜色を少したたえた、と思う。


つまり何が言いたいかというと、僕はやはり変わっていかないといけないと思うのだということだ。

恐い、面倒くさい、わずらわしい、などなど云々の事象に、今までそう感じてたものを、また新たに捉えなおした段階でもう一度処理消化していかなければならないということだ。


なぜ「ければならない」のか?


今の僕はこの先の僕に対してベストでは、ないからだ。


こういう思いに至るまでの過程というのは、この手記以前からの思索が文脈をして存在するからこそであるのだが、それは面倒だから書けない(僕のこういう部分も再考の余地があるということだ)

この冬から春にかけてのぐにゃぐにゃと将来に対するぐにゃぐにゃは、まだテクストとして世界に流されるには、醜いぐにゃぐにゃでありすぎる。


フィクションの世界に送ってやりたかったが、彼らは彼らの人生を歩んでいる。

僕のあまりに僕個人の個別具体的な事柄を彼女たちに押しつけることはできない。


そんな線引きが、どうやら僕と彼らの間にはあるらしい。    

2009年4月1日水曜日

factotum.33

どうせ「はねっかえり」って言われるんなら、跳ね返った隙間で生きてやるさ。

ダニエル君は、2007年の秋の日に、紅葉の色づきが終わり葉がちらちらと落ちていく大学のキャンパスの石畳を歩きながらタバコを吸っている。

「ここはそんな「擦り合わせ」の判断ではないと思います。少なくとも司法解釈を厳密に行おうとするレンキストやスカリアの姿勢は、オコナーやブラックマンのそれとは次元が違いますし、何より純粋です」

「いや、もっと実際はテクニカルに判例の歴史は積み重ねられていくよ。そこでは法の安定性とかの理念はもちろんだが、そんな建前以上に現実を見据えた漸進的な変化が重視される」

「それはでも、それを言っちゃぁおしまいよ、じゃないですか。それを判決文に書くなんて、その時点で彼らの権能の破綻ですよ」

「かといってだ、司法というのは時代を見るし、その調整者としての役割も期待されてきたんだ、古来からずっと。君の司法観は狭義だし、ファンダメンタルすぎる。解釈主義が司法の全てを説明できるわけではないし、かなり不十分なんだ」

ダニエル君はゼミが終わり、3時を迎えたキャンパスのベンチに座りながらまだ不機嫌だ。

すぐに自分のフォーマットに持っていく。それなら最初からディスカッションなんてしなければいいんだ、聞く気がないんなら。

知性は開かれていなければいけない、少なくとも彼は知性の理想的な在り方をそう定義していた。

「どんなやつでも正面からぶっとばせる、切れ味」

二本目のタバコに火をつけて、深く煙を吸い込み遠くにそれを吐き出しながらダニエル君は言った。

「それは気をつけてるつもりなんだ」

いくぶん気持ちが落ち着いてきた。目の前の開けた屋外ではみんなが笑って話している。

「僕の立ち位置は、どこだ」

タバコを足で踏みつけて、ダニエル君は遅いランチを、いや早い夕飯をとりに食堂への階段を降りた。