2008年10月30日木曜日

実存的な悩みは、法的に救済できるもんではありません。

客観性というのは、


全ての表意はどこまでも主観性の網の外には抜け出せないということを担保にして、


初めて発言可能であるかもしれませんが、


彼の最大の敵は、主体的になること、かもしれません。


積極的に何かを選べないことに、彼の呪いはあり、


それを呪いと思わないように思わないように生きていきたい彼は、


鏡の前で呆然と、ただ佇み立ちすくむのです。凝固した眼で。


これ以上は、何も言えません。


つまらないと最後に書くのが一番つまらないのですが、


これはエッセイという形で発露させる感情ではなかった。


表現、か。    

2008年10月29日水曜日

自信作

   

2008年10月25日土曜日

21世紀メガネ学。

当代切っての権威でもある、定刻大学迷世博士竹中博士は語る。


「21世紀はリスク社会の時代です。我々は科学技術の進歩とともに、それが生む様々なリスク(負の効果)を未来に先送りしながら生きていくんですな。

そしてその未来危機のためにいろいろ考えるんですが、まぁ私たちはそれについてのいかなる言語(手段)も持ち得ないわけです。進化と偽装した変化を追い求めることでしか成り立たない社会ですから。

その中で、メガネなのです。

我々は今、あらゆる現場で、視覚なしにはその活躍を期待できないでいる。現代は、今までのどの時代よりも、印象メディアが発達し、脳を直接に刺激するコミュニケーションがその威力をふるっている。現代人は忙しいのです。

我々は目を守らなければなりません。では何が危険なのでしょうか?

紫外線、確かにこれも脅威ですが、一番の敵は、やはりコンタクトレンズ、レーザー手術それ自身なのです!これこそがリスク社会的な病巣であります。

メガネとは、防御であり盾でありますが、コンタクトレンズとレーザーは針であり攻撃なのです。我々は心理的にも物理的にも、常に攻撃されている、もしくは攻撃されたというストレスにさらされる。それが何にも増す危険であります。当然、あらゆる医学的言説、人文科学の叙述がこのことを立証しています。

我々はメガネをかけねばなりません。ではどんなメガネを?

ここで重要なのは、およそメガネにおいては人間工学など必要ないということです。これはさきのリスク社会論からもおわかりでしょう。科学技術の進歩によって生まれたデザインにはどんな危険が潜むかわからない。

そして、何よりも大きいことが重要であります。盾なのですからね、ガッハッハ。

最後にはクラシックであることです。近代的な変化、進化の呪いから我々は自分を解放しなければなりません。永遠の象徴として我々はメガネをかけるのです。2weekのコンタクトなど、全くナンセンスということがよくわかるでしょう?

よって、みなさん私のようなメガネをかけるべきなのです。何?自分の好みを押しつけ、、、とんでもない!あなた、アカデミズムというのはおおむね趣味、、、、、、zzzzz」


博士をずいぶんお酒を召していたし、何より睡眠不足だったそうだ。

後日、発言のほとんどを記憶されていなかったことがわかった。

まったく、うさんくさいものだ。    

2008年10月22日水曜日

日記。

僕が好きなとある授業の先生は、


知的財産法という何とも漠然としたくくりの分野で、


日本なんかでは負ける訳がない、っていう自負と事実のもとに、


活動されている。


でも、別に人生の目標なんてないそうだ。
この分野をやっているのにも理由はない。

刹那的に日々を目一杯楽しむ。それだけだ。


「人間玉井克哉の目標はないんですか?」


「ない!」


と、断言される。


そうかぁ、と一人の若輩は考えふけってしまった。


( 阿部サダオのCMはおもしろい。


役者って職業の評価軸は、単一のヒエラルキーではないものな。)


こんなに賢い人を目の前にして、


生き方というのにまた、考えてしまった。    

2008年10月21日火曜日

機械化された少女たち。

"perfume"っていうネーミングは、上手。


機械化された少女たち、Dollsは、


僕らの情念で動いている。


偶像崇拝っていう性欲で。


彼女らはその他律的で自立的なプログラムの妙の中で、僕らの興奮をかき立てる、刺激する。


ファナティックなperfumeなのだ。


彼女と彼女ら周辺は。    

2008年10月20日月曜日

試論。

テクストの価値は、内面にあってはそれについての筆者の誠実さにあり、外側からの評価は資本主義的な認容・評価のシステムの中で決定される。


それは結局、真実などというものはないのであり、またそれらはテクストの外に決してあり得ないからである。


テクストの構図はシンプルである。


その客観性を問うことは、一次資料を除いては、不可能であり、そんなものを議論しても仕方がない。


各個人のテクストについての誠実システムと、それらの多数決的投票であり市民権の生存競争である資本主義システムの二つしかない。


すべては、その集合なのである。


これは何も批評について、出版についてなどということではない。


「書くものに責任はないのか」という訴訟に応えようと思う過程なのだ。


責任はあるのだ。


その二つのシステムに対して。    

暴力 part X.

竹中信幸氏に聞いた。

氏は定刻大学の迷世博士であり、こういった問題について大変造詣が不快かたである。


「就職活動が、就活となり、しゅーかつ、となります。

それを歴史的な経過だと勝手に仮定して、現在にいたると決めつけるんですね。

そうすると、それは結局、ビューロクラシーを頂点としたハイエラルキカルな秩序世界に飛び込んでいく、そういう人生のシステムとプランが、そういう神話が、最高潮を迎えた後に崩壊していくという中で、しかしその形骸が機能しつづけざるを得ない、そういうときに現れるということが、わかるわけです。

現代の若者というのは、それこそあらゆる価値観を並列的に肯定出来る人々ですから、まぁそれを東君はデータベース思考なんて言っているわけですが、そういう中で戸惑うんですな。いや、それすらも意識的ではないかもしれない。

何でも受けてしまうというのは、目指すべきものなど最初からない、アプリオリな経験として与えられたストーリーなどないからです。
物語も神話もない社会に3年生は、結局「自分のそのまま」を迫られる。
しかし自分は何でもそれなりにやるし、出来る。または、そんな無根拠な自信がある。指標がないんですからね。
curiosityなど何にでもあるし、interestなど何にもない。

大きな物語がない中で彼らは、昔のつまらない知識人よりもよほど実存にさまようんですな、ハッハッハ。

就職活動が、しゅうしょくかつどうに、拡散していく。

相対的な無数の価値座標を漂わなければならない。

だから私たちはすり減り、しかもその報酬といえばあまりにチープな解放という安堵、というわけです。

ま、関係ない人には関係ない話ですな。全体社会に還元されない人はいるもんです。ハッハッハ。」


竹中博士は教授では非れない。

それもよくわかる話である。

oops、失礼。    

警句、私。

大きな物語、近代、消費社会、それらのポストとしての現在。


ちょっと、使いすぎているかな。自分が。


いや、全部、マジなんだけれど。


バイアスになりかけてきている。


あくまでクールに冷静に。


まま、こういうときは突っ走るものさ。


無闇矢鱈は減ったしね。


じゃじゃーん。    

2008年10月15日水曜日

想像 Z

「20世紀少年」を、浦沢直樹をおもしろいと持ち上げてきた。

それに対して、漫然と、漠然と考えてきた。

そして想像するのだが、

20世紀少年とはまさしく近代とその夢の崩壊、そして再生の物語である。
物語はリセットとあり得たはずの新たな歴史の開始で終わる。

主人公、その他のキャラクターたちも同じ構図で書かれている。
成長し、挫折し、順応したが、過去の責任のもとに闘い、敗れ、復活し、勝利する。

もしかすると、これは日本近代、ともだち、ケンジ、という大きな物語たちの変遷と混淆、闘いなのかもしれない。

20世紀少年とは、近代的な大きな物語論のうえで作られた、まさしく近代小説的なマンガなのだ。


一方僕は「もやしもん」というマンガに、別の夢を見ている。

これは、キャラクターが作者の意図を無視して(そのように見えるようにして)動く。

紡がれるストーリーは細かい水流の、延々に平衡状態としてのストーリーであり、何か大きなものに回収されるわけではない。

もちろん夢かもしれないが。


「崖の上のポニョ」はちょっと違うけれど、この議論の延長に可能だ。



自意識の語り、と、大きな物語。

それを昇華させて、脱構築する表現とは何だろうか。


そんな想像を、少しの思いつきとともに、書いてみたのだった。    

2008年10月7日火曜日

思うこと、のあれこれ。

自分の中から生まれて、自分で育ててきたものでないと、


何かしらの「考え」みたいなものは、長続きしない。


考え続けてたり、とかいう持久力も大事だろうけれどね。


でも同時に、僕らは常に何かに触発されて、生きている。


その中で、これもよく言われることだけれど、僕らの自由な発想なんてあるのか。


常に何かを参照し、引用し、混ぜ合わせたりしたもの、それをもう少し可愛くしたもの、そんなものが今僕が思う「僕の中から生まれたもの」なのかもしれない。


強い説明が出来ることが、その絶対度の無限の前では、そして全てのoriginalなものの存在についての懐疑の前では、「僕なるもの」の証明の、何の根拠にもならないときに、


僕は走り続けるのか?べきなのか?何なのか。


あらゆる実存を引き受ける、っていう態度は、以外と生産的ではないのかもしれない。


もしかしたら、もう少し違う角度での接し方が可能かもしれない。


こういうことは、すぐにはわからない(もちろん、わかりたい)


だから僕は、Blogを書くんだ。


それが、僕の理由だ。    

2008年10月1日水曜日

Hey DJ.

僕を連れて行ってよ。


誰も僕なんか知らない場所に。


そこは、何の、あれも、なくて。


ただみんながDOPEなだけで。


吹っ飛んで、ブットんでるんだ。


いろんな固定概念が、今の僕には苦しいんだ。


Hey DJ


僕を壊してよ。


泣き濡れてんだ。


こんな一つのcheepな世界に、


何かshoutしたかったんだ。


メタメタメタメタ。