「芸術家という劇薬を、全員がしっかりとした方法で服用できるようになじませていく。それが批評家の仕事ですね。劇薬というのがエキセントリックな表現に過ぎるのであれば、それはサプリメントでも何でもかまいません。つまり未だ発見されていなかった、または新たな技術によって新しく生み出された、良薬かそれとも毒物なのかもわからない何か、しかしどちらにせよ人間や社会に新しい何かをもたらすであろう何か。突然現われたその何かを、何であるのか、何でありうるのかを提示してみることが、批評家の創造性であり、唯一の仕事です。芸術家が、自身の芸術が他人にとって何となりうるかを必ずしも意識したり理解したりしているわけではありません。しかしせっかくの素晴らしい創造が、誰にも理解されないままにされることは、あまりに悲しい。そこにメディアとしての批評家の存在の意義が出てくる。それは特に写真芸術において顕著でしょう。写真による現実世界のクローズアップまたは異化効果は、一見ただの撮影でしかありません。その撮影がどういう意味を持ちうるのか。写真には往々にしてタブローとテクストが不可分なものとして設定される。だから誰かが語らなければいけなくなる。それはもちろん誰でもいいが、しかし誰かがなくてはいけません。そういった芸術の状況は現在すべてにおいて必要になっています。そしてその言葉はもっと社会全体をまきこんだものでなくてはいけません。だってそうでしょう。素晴らしい新薬は誰しもを幸福にできるはずなのですから。永遠に高度な医療センターでしか可能とならないものなんて、そんなエリート趣味は誰も幸せにしません。喩えが散漫になってしまいましたが、私はそんな風に思うのです。」
「スナップショットの重要なのは、『暴き』という『再認識』です」
2010年9月14日火曜日
2010年9月11日土曜日
たとえば言葉が消えていく、みたいな場合に。
多義的なあいまいさのない、世界。
それは清潔でシンプルかもしれないけれど、
そういう世界を想像すると、
ボクは随分とさみしくなる。
感動や情動みたいな、という非論理的で無根拠なもの。
しかし、そういうところに最後の喜びがあることを、もっとずっと信じたい。
馬鹿馬鹿しくても、馬鹿馬鹿しいと思えても。
そういった簡単に信じることができないものにほど、未来の希望が見えるかもしれない。
それは清潔でシンプルかもしれないけれど、
そういう世界を想像すると、
ボクは随分とさみしくなる。
感動や情動みたいな、という非論理的で無根拠なもの。
しかし、そういうところに最後の喜びがあることを、もっとずっと信じたい。
馬鹿馬鹿しくても、馬鹿馬鹿しいと思えても。
そういった簡単に信じることができないものにほど、未来の希望が見えるかもしれない。
ラベル:
esthetica.,
poetry.
2010年9月5日日曜日
フィードラーをかじる、において。
美とは、真理の半影であり、故に最終的には理性に属するものであり、そこには唯一絶対の評価があるとする芸術観は、美術史においては前近代的であるとされる。
美術のモダニズムは芸術自身が芸術というもの自体の存在を再帰的に揺るがすことであり、そうして紡がれる歴史的なコンテクストの紡がれかたである。
その二つの時代の間に、一つの芸術論があった。
それは「神と人間」の世界から出発したものではあるけれど、そうであるからこそ美を神のものに、芸術を人間だけの問題にして、人間の芸術というものがどのようにしてなされるかを理論立てたものである。
神が想像した自然の美しさや万物に宿る一切の美は、そのまま神のものであり、人間にはそれを模倣することなど不可能である。
そして芸術はそれら美を受動的に模倣して、また鑑賞はその模倣をまた受動的に受け入れることではない。
人間の芸術、それは、彼が世界をどのように捉えたかという感性の能動的な具現化である。
『精神的なものが、感覚的な形となって表れる』
ヘーゲルの定義を、フィードラーはよりいっそう意義ある形で未来に渡したのだ。
セザンヌが自身の視覚への忠誠を誓ったとき、眼前のヴィクトワール山はその輪郭を失った。
しかしそのセザンヌのタブローに中にこそ、彼の真実の風景が存在し、彼の芸術は現実を真実的なものにならしめた。
このとき人類史はようやく模倣技術としての美術から、芸術性による創造としての芸術という概念とその時代を迎えたのだった。
美術のモダニズムは芸術自身が芸術というもの自体の存在を再帰的に揺るがすことであり、そうして紡がれる歴史的なコンテクストの紡がれかたである。
その二つの時代の間に、一つの芸術論があった。
それは「神と人間」の世界から出発したものではあるけれど、そうであるからこそ美を神のものに、芸術を人間だけの問題にして、人間の芸術というものがどのようにしてなされるかを理論立てたものである。
神が想像した自然の美しさや万物に宿る一切の美は、そのまま神のものであり、人間にはそれを模倣することなど不可能である。
そして芸術はそれら美を受動的に模倣して、また鑑賞はその模倣をまた受動的に受け入れることではない。
人間の芸術、それは、彼が世界をどのように捉えたかという感性の能動的な具現化である。
『精神的なものが、感覚的な形となって表れる』
ヘーゲルの定義を、フィードラーはよりいっそう意義ある形で未来に渡したのだ。
セザンヌが自身の視覚への忠誠を誓ったとき、眼前のヴィクトワール山はその輪郭を失った。
しかしそのセザンヌのタブローに中にこそ、彼の真実の風景が存在し、彼の芸術は現実を真実的なものにならしめた。
このとき人類史はようやく模倣技術としての美術から、芸術性による創造としての芸術という概念とその時代を迎えたのだった。
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