écrivain qui ne peut pas écrire.
ある人生は、無数の人生のパッチワークとして、またはそのように存在する。その人生がまた、別の多くの人生のまた一つの小品であるように。
知らない暗闇の中を必死で駆けている。走る足の足下の先、先だけに丸い、輪郭のはっきりとした光が当たる、照明は前へ、犬のように駆けていく、進む、前へ前へ、進む光、それに追いつこうとまた犬のように必死で駆けている、駆ける。あと一歩、あと手を前に一振りすれば、空気をひとつ握るように伸ばせば、あと少しで摑めそうなそのイメージ、指先に触れたと思えた瞬間に指の間をすり抜けていく影、それを摑みたくて、捕らえたくて、世界いっぱいを満たす暗闇、それとどこまでも同化し続けていく影の裾を、必死で走り、追いかけては手を伸ばし、摑もうとし、腕を伸ばし、損ね、力は方向は乱れ、軌道を外れ、両手は振りほどかれて、疾走したスピードの中で、足はバランスを失い、重なり、倒錯し、上半身は前へ投げ出され、体の前後が反転し、知覚がひっくり返って、天と地、影、光、影、闇、背中が地面にしたたか打ち付けられるまで、あらゆる衝撃と披露で心臓が爆ぜるまで、彼は影を追いかける。それは崇高なメッセージなのか、それとも純粋な美しさの結晶なのか、つまらない愛なのか、場末の暴力なのか、それらに見いだせる一編の詩、イメージのコラージュ、なのか、彼はまだ、その影を摑めないでいる。見ることさえできない。
空間はしだいにその照度を落としていく。それは現実のライト、ライトの明るさ暗さとは関係なしに、その場にいる人間たちの意識、その泥濘の次第によって落ちていく。グラスは歪み、液面はうねり、ソファやテーブルがそのまま横に流れ、空気に酒が漂い、口から口へ、体から体へ、熱気、狂騒、音楽、空間に押し込められたエネルギーが空間の中を濃密に流体的に移動し凝縮し膨張して、全員を圧迫し限界まで押さえつけ、その重力の中で彼らの理性と狂気は解放される。明滅、ハイコントラストのモノクローム、銀塩のざらつき、様々な色のついた靄、分厚い音の壁、それはどんな言葉にも似合わない、形の描けない現象として、人間を束縛し、酔わせ、自由にし、彼らを彼らの中へ送り込んでいく。それは「理性に非ず」ではなく、理性というものとはまったく別の体系にある状態、原初的な潜在的な力、眠り、強さ、現実と夢の同化によって可能な、呪術。
飲み過ぎたウイスキーのせいで、額が汗ばんでいる。このまま昼前まで騒ぎ続けるだろう地下の小屋を抜け出て、入り口すぐの壁に体をぶつけ、彼は地上への狭い階段をふらふらと上がる。朝まだきの、といってもその青白い景色、光は、漠然と目を射す。ぼんやりした目に、彼はジャケットの胸ポケットからサングラスを取り出し、かけ、タバコに火をつけ、この狭い路地から表通りに出る。
猫の多い朝、猫とカラスの支配する時間の中にまだ人間はいない。人間の夜が、その人間たちを彼らの通常の時間に帰すまで、その夜の死と人間の朝の誕生の間、街、不確かに認められたその境界内は、猫とカラスに生きられている。それは彼らが構築した世界で、人工の街は所与の自然である。電柱/建築/電線/信号の密林に彼らは棲み、隠れ、闘争し、生きる、清掃車がその自然を破壊していくまで。まだ朝には夜の残滓がたっぷりと残されている。
たどり着いたビル、また狭い階段を上がり、二階、ガラスの重たいドアを体当たりして押し、中に入る、受付の前を左へ、受付の声は無視して、誰もいないときには開け放してある応接室に、ソファに、体を放り投げて、天井を見、サングラスをテーブルに投げ、手の甲を顔にのせる。受付に呼ばれて、別の部屋の奥から本屋が出てくる。
「会社は48時間あいてますけど、先生、そんな酒の臭いばかり持ってこられても困るの、わかっててやってるんだろうけど」
「ボクが酒以外に、何かを持ってきたことなんてあるんだろうか」
「そうですね、いつか、そう、何でもいいから何か、原稿みたいなものでも持ってきてくれません?」
「ボクは書かないんじゃない、書けないんだ、何も、一切、書けない作家なんだよ、ご承知の通り」
「いつか飽きられるわ」
「書かないんじゃない、書けないんだ。ボクは十分誠実にやっているさ、その限り、酒ぐらい飲めるよ」
「世の中いろんな人がいるし、妙な名前の職業もたくさんある、あなた一人ぐらいの席はあると思うわ、それでも、本当に、何か読ませてくれない、頭の中の何か少しでも文字に起こせばそれで済むんだけど」
「小説を書いてこそだ、そうじゃなければ、作家に発言権など生まれないよ」
「あなたが作家なんだとすればね。まぁいいです、今日はアポイントメントも何もないから、何かが起きてこの部屋が必要になるまでは、そうしてて。必要になったら窓から突き落として出します」
「めふすぃーボクぅ」
「ねぇ」
彼は去りかけた彼女の背中に声をかける、彼女は振り向き「はい?」
「コーヒー、それとタバコ、ピースを」
「あきれた」
「ください」、彼は眠る。
ファッションでこんなポーズをとっているわけではなかった。
ファッションならいつか終わりもくる、流行もピークとジ・エンドがある、それならとても楽で、こうして彼が思い悩むこともない。時間の偶然に任せて、人と人の間を縫って、一言二言の挨拶をしながら、笑っていれば、何も考えなくても、生きていける。しかしそのダンスが永遠には踊り続けられない、踊り続けられないとわかっている、それができないというところに彼の本質があって、それが本当の悩みであり、だからこそ彼はまた生かされている、意味を見いだされてるという今の現状が生まれている。
「書けない作家の誕生の話をしよう」
彼は誰かに何かを聞かれたときに、何度かそう答えている。
書けない作家は、ある日突然に生まれる。
書けない作家は、それまでにいくつもの物語を語ろうとし、いくつもの紙にいくつもの文字を書き記して、そうして出来上がるはずのいくつもの小説を、あるときは友達に、あるときは恋人に、聞かせ、そのたびに「へぇ」とか「そうなんだ」とかいう返事を受け取って、また自分の机に向かってきた。
しかし作家の書くものはどれもぜんぶ途中でその筆を止めてしまい、走るペンの先はぎこちなくぎりぎりと音を立て始め、物語は最後に向かい進むにつれ、いつのまにか消尽する。彼は真っ白な空間の中、辺りを見回し手をあげる。リムーバを染みこませたコットンで唇や目蓋の化粧を落とすように、文字は、言葉はどんどんその濃度を奪い取られ、そしてべっとりと色の染みのついた真綿、何がなんだかわからなくなったその色彩の滲みは知らぬ間にどこかに捨てられ、最後にはまるで、まるでその顔には「最初から何もなかったよ」というようにすべてが消え去っている。顔は輪郭だけを残して、消えている。コットンは部屋の隅で乾き、埃に汚れ、色褪せ、止まる。
作家はその度に悩み、泣き、悲しみの国に帰りたいと叫ぶ、なぜならそこには「はじめから悲しみがないからだ!」とわめき、彼はしかし悲しみの国への戻り道を忘れてしまっているため、そしてやはりそこには帰りたくないと思っているためか、枕から顔を離し、ベッドからゆっくりと起き出て、ズボンをはき、上着にタバコを押し込んで、昼と夜がある世界、悲しみも喜びも忘れた世界、そのためにいっそう悲しみと喜びと躁鬱とに溢れた世界に飛び込んでいく。切り立った崖の先から、空色一色の空に向かって、そのまま海の白い波が岩と砕けるその隙間に落ちていくように。
だからやはり書けない作家はある日突然生まれた、というわけではなかった。
彼はいくつかの涙の国を渡り、冷たい風に逆らい、またたどりついた新しい国で、恋をし、冒険に出かけ、深く悩み考え、言葉を語り、途中で何も言えなくなり、下を向いて首を振り、自分を責め、ときには誰かの頬を叩き、自分の足を殴り、天を仰ぎ、太陽の眩しさに迷い、国を去り、また新しい土地に向けて歩を進めてきたのだった。そしてその旅はまだ続くだろう。
「書かないことは、決して書くこととは違う。そう、君はそれを当然だと思うだろう?確かにその通りだ、書かないことは、書くことじゃない。でもね、結局どっちだって同じだという瞬間がある、ぼくはその瞬間を頂点にして、振り子のように揺れているんだ。書いても書かなくても、こうして僕が君に話すときに話す内容は、あまり変わらないだろう、わかるかい、僕はとても諦めやすい、諦めやす過ぎるんだ。誰かが人を愛しすぎたり、誰かがすぐに疲れやすいのと同じように」
「そう、もうひとつ付け足しておきたいのは、誰かが、自分があまりに疲れやすいことや、何かをすぐに愛し希求してしまうことから、そこからようやく何かを話すことが出来たように、僕も自分がとても諦めやすいことから何かを話すことが出来ないかと思っている。それが今の僕です、ありがとう」
彼はそのまま眠らず、テーブルに置かれたタバコの、銀紙をちぎり、一本取り出す、中指で先を軽くたたく、とんとんとたたき続ける、とんとんと、近視のぼやけた目で模様の有無もわからないままの天井を、とんとん、しばらく天井をぼんやり眺め、葉が詰まった、気がする、タバコに、火をつける、添えられたマッチをこすり、寝ながら、火を。
起き上がりコーヒーに口をつけ、また彼は受付の前を通り、今度はありがとうと言い、細い階段を下り、朝の街に出る。どこに行くわけでもなく、街に射し始めた微かな日差しは背中に、黒いジャケットに吸い込まれていく。まだこの時間をどこで過ごすかは決まらない。彼は友達に会いに行く。
彼は大学の建物が好きだ、それはどういった大学でもよかった。そこには意図的に演出された自由な空気、過剰に用意された見晴らしのよさ、吹き抜け、といった開放的な雰囲気があった、どんなところであっても。そして、まるでそれが絶対に必要だとでもいうように、そしてそういった清々しさの逆の位相として、狭く暗く窮屈な部屋も存在する。彼は大学の建物が好きだ、建物というもの以外の一切とは無関係に。
「君はそうやって"渡る"のが好きなのか」
友達はデスクトップの作業を続けながら、彼に言った。
「いつ君は君の時間を生きている?」
「僕はいつも話しながら考え、考えながら聞き、聞きながら話して考えてる。だからこうしているのが一番生産的なつもりなんだよ、精神衛生的にもいい、と思ってるんだけどね、どうかな、先生」
「俺はそういったことについて何の専門性も持ち合わせていない、よく知ってると思うが。ただ君の道化っぷりには感動する、本当に酒と金を抜きにすれば、君ほど周りに微笑みを振りまく人間はいない」
「人間失格以前だけれど、ね」
「女を泣かせるほどの甲斐性はないんだろ」
「そんなに剛毅な人間じゃないよ、泣くのは勝手だけど」
「まぁそれだけ口が回るならいい、その調子で騒いでくれ。ここ以外で」
「みんな僕を追い出すんだ」
「でもみんな受け入れてるさ、つまり君は全員を相手に一気に暴れた方がいいんだよ、それをみんな楽しみにしてる」
「それができないんだ」
「俺は君に何か具体的なことを言ってるわけじゃない、パーティーでもなんでも、抽象的な雰囲気、得意だろう」
「大嫌いだよ。大嫌いだから、叫いて暴れるんじゃないか」
「ご高説は堪能したよ、僕は授業がある、どうする」
「聴講するよ」
友達は研究室を出ていく。
友達は部屋を出て行くときにもう一度彼を振り返り言う。
「そういえば、生産って、何だ」そう呟いて出ていった。
彼は彼を包むその大きなイスに体を任せて、沈み、また別の国や島を思い浮かべる。思い浮かぶまで。
このウラブレタ世界にも、政治の季節というものはやってくるらしい。
粗雑なタペストリー、瑕や継ぎ接ぎだらけの文法は、システムのリセットという処置でしかもうその健康を回復できないところにあった。過去に蓄えた財産、それが尽きようとしているとき、幸福なぬかるみがその温かさを失って冷たい汚泥に変わり始めるとき、最初に飢えて死にゆく者たちは、自分たちの支配者を引きずり降ろそうとしてうごめく。彼らのか細い手は何万もの束になり、青白い腕は集団的狂気の中で暴走し凶暴に振る舞う。
老人たちは彼らを抑圧するだろう。彼らはあらゆる権威と権力、それの根拠としての暴力のすべてを持っているのだから。しかし弱き者たちは、彼ら老人たちが思うよりも、やはりずっと体力を持っていた。若さという唯一の資本が、文明以前の純粋な力が、歴史を壊す、それは一定の周期で繰り返されてきた、それもまた歴史の過程の一つだ。
しかしそれはもう少し先の話だ、今はまだ、そう、政治の季節が始まろうとしている、その冬の前、秋の話だ。
彼女は街を歩く。建物、ファッション、公共芸術、人間、目に入るものの美醜を確かめて、その色彩の多様性に満足する。なんて幸せな世界だ。いくつかの悲しみなんて、この豊かさの前には隠されている。あぁ温かい泥舟、私たちは寝たきりの生を充実させている。ロボトミーの幸福、すばらしい天国じゃない。
彼女はこの幸福を、その破壊の源流にしたい。この幸せには未来がないこと、この幸せは実は老人たちによって搾取されてしまっていること、彼女たちは本来自分たちが得るべきものを得ていないということ、それを彼女は語ろうとしている。
牢獄に閉じ込められている幸福な囚人たちに、あの監視塔を破壊させること。それがなされなければならないという理想に彼女は身を投じようとしている。
なぜなら彼女には愛おしいものなどなにもないから、いや、その不在は自分自身の問題、つまり自分というものがあまりにただのフィギュアァ、形相としての存在だとしか思っていないことに由来する。それゆえに彼女は、他のすべてを愛おしく思えた、世界はもっと美しくなっていいと思えた、当然の権利は当然となされるべきだと、そう思うのだった。
彼女は別の家へ帰る。暗いオレンジ色の明かりが鈍く点く、床に寝ている男や女たちの隙間に体を埋めて、少し眠る。
地獄の季節の始まりを、その子宮に抱えて。
今日は少し寒いが暖房はつけていない部屋、彼女は毛布にくるまりベッドに寝ている、ボクは大きめのウールの上着を羽織り、靴下をはいて、机の前に座る。
彼女の隣でボクは毎日、その言葉を書き留めていた。彼女の手振り、何を飲み何を食べ、誰と会い何を話し、ボクに何を言い、寝て、起きて、また生きる彼女を、ボクは黒いモレスキンに記し続けた。
毎夜ボクが手帳を横にラップトップに向かっていると、彼女は、そう本当に毎夜ボクに聞く、同じことを。「一度書いたものをまた書き直して、何の意味があるの」ボクはいつも同じように、ときには少し変えて、答える「同じものはふたつとしてない、ボクは昼間に毎日を書き、夜にそのすべてを新しく書いているんだ。夜、ボクの頭の中で映し出されるもの、それが書かれるということ、それがボクにとってのキミの真実なんだよ」
そうすると彼女は笑って、ベッドの上で背中を向ける。ボクはいつも同じ調子、同じタイミングで「おやすみ」と言い、彼女は、そして眠る。
ボクは彼女の声に囚われていた。
「すべての問題、問題のすべては、老人たちが席をどかないことにある。彼らが席を譲らないこと、譲る気のないこと、それが現在の私たちの壁になっているのよ。私たちが常に低い温度の生に止め置かれて、身動きも出来ず、生きていこうとする前に殺されてしまうのは、彼らが彼らの生活、彼らの暖炉のことしか考えないから。彼らは全員の資源をまず取り上げて、そのあまりを私たちに与える。これが、今月分のこづかいだ、と言わないばかりにね。私たちは生かされているのよ、優しい老人たちに。彼らは死なないといけない。私たちはそこからやっと生きていけるの、責任をもってね」
「英雄のいらない世界。何を語るかよりも、如何に語るかが大事な世界。その世界を壊してしまいたいの。私はもう一度、社会が科学と神話の間にあった時代を蘇らせたいのよ。風刺に悪魔を登場させるの、その必要があるのね」
「男根に消費されてもいいの。だって結局、女が何かしてあげないと、たたないんでしょ、男って人たちはさ」
芝生に寝転ぶ彼は、渡り鳥に想い耽る。
日常生活において、渡り鳥というのはまず存在しない、少なくとも彼の日常にワタリドリは現れない。
彼の空想のワタリドリは影のような黒いシルエットで、夕焼けや曙の空、雲の上の月明かりの闇を飛ぶ、優雅な隊列だった。ワタリドリは世界を巡り、地上に降りると思い出したように光を浴びて、躯を白く染め抜き、水に足をつけ、緑を食み、種を摘み、種を蒔き、また空に向かって飛び立ち、また黒い影となり世界を巡る。彼らは死ぬこともなく、個体が入れ替わりながらも全体としてはいつも均質に存在しているようだ、だから彼らには永続する世界の流れを感じる。
彼の空想するワタリドリは、理想的な姿で世界に存在していた、彼の世界に。
起き上がり、キャンパスを出て、街路を歩く。
彼はまた空を見上げる、赤や茶色や灰色の建物の間に線を引く空の隙間に目をやる。
まれに影が横切る。何かの影、それらはどこまでも自由で創造力に溢れており、彼らの優雅な努力はそういった美しい世界の秩序に向けて集中されているように見える。
影たちはその存在の理由を与えられている。
だから影は自由なのだと、彼は太陽を見て思う。
影の隊列は、躯を傾けて、優雅に空を流れていく。
大学を出て、道を歩く、街路の緑が並ぶ道を、歩く。
道の向こうから、黄色い犬が歩いてくる。
彼は犬に向かって、犬は彼に向かって、二つの平均台の上を互いに歩むように、近づいていく、距離が縮まる。犬は彼の少し手前で止まり、座り、それでも進む彼、自分の横を流れていく彼に併せて顔を動かす、犬の顔だけが彼を見ている、彼の目には犬の顔が強く映る、視界の中の認識、彼の認められる世界は誇張された犬の顔でいっぱいになる。
その瞬間、
彼の視界は真っ暗に遮られ、暗闇の奥からは生温かい臭気のこもった空気が流れてくる。犬は彼の頭を飲み込んだ。彼はあごの下にぬるっとしたぶよぶよの唾液を感じ、頭蓋の後ろに牙の軽い圧力と刺激を感じる。彼はそのまま歩き続ける、そこにある「ある程度の」疑問を保留したまま。
犬によって彼は別の世界に移動させられた。
犬の中は、たとえば彼が酒を飲む場所、酒と話す場所と並行して以前からおそらく8年ほど前からは存在した世界であり、それは同じ場所で別の位相をもって進行していた時間だった。彼はひとつの時間から別の時間へと同じ世界内で移動した。
彼の体、胸や腕や脚はさっきまで彼のいた時間の中で通常の視線に晒されているだろう。
そして彼の視界や認識はまだ暗闇の中で、犬の温度と湿度の中で動いている。
首にかけられた分断は、だんだんと微妙な心地よさを帯びてくる。
並行して存在する(だろう)分裂した時間たちを同時に生きること。
彼はいつもそんな夢ばかりを見ている。
彼の犬はそのためにいま逆立ちをして彼の頭に取りついている。
彼によって。
犬を乗せて彼はカフェに入った。通りに開かれた席に座り、ハイネケンを頼む、犬のせいでタバコが吸えない。ジャケットの内ポケットから小さいモレスキンと万年筆を出す、キャップを外す、犬の中で。
丘の上に金色の陽が射し、少し乾いた色をした木々が風に揺れ、なだらかなアーチを描く空、伸びた雲、空気が、輝く。
日差しは暖かく、それでも透明な冷気の中を、ボクは丘の上に向かって歩いた。
彼女は白いワンピースの上から丈の短いローブをかぶり、茜色のフードの隙間から栗色の髪を出している。
彼女は耕地に向かって、種を蒔く。腕にかけた籠に手をいれて、空に向かって種を散らす。その蒔き方は如何にも絵に描いたような、架空のものだったけれど、その種はきっと芽を吹くだろう。
陽光に照らされた彼女の笑顔は、その未来を何よりも期待させるものだった。
ボクは口まで巻いたマフラー、けばだったマフラーをずらして、顔を、保温した呼吸を空気の中に出す。
「精がでますね」
彼女はすっと、振り返り、こちらに応えた。
「そうなんです。きっと、彼らはよく育ちます。だって、こんなに美しい景色の中なんですから」
彼女はそして、また、続ける。
それは永遠とも思える時間、動かない、永久のヴィジョン。
遠くの紅茶畑の霧の中を渡り鳥が飛んでいく。紅茶工場からは雲のように湯気が出ている。黄色い犬が、鼻先を飛ぶ蝶と弾んでいる。
彼女がどうやって生きていたかということを説明するのは、それほど難しいことではない。彼女はいつも「病い」に全身を蝕まれていた。彼女はそのために死ぬだろう。それは名前のない病、彼女が空想しそのために死のうと決めた装置だった。それによって彼女は生きることを可能にしたのだった。もしかしたら、彼女は自分が死ぬことを、それが何の結果も残さないということを最初から考えていたのかもしれない。
ボクは大学の入学者パーティーで彼女を知った。ボクは、何度も言うようだが彼女の声にそのすべてを見て、囚われてしまったのだった。彼女の声は語っていた、いや何も語らなかった、彼女の会話は「えぇ」「ありがとう」「同じです」というだけのものだった。ボクは自分の飲み物を取りにいって、ジンジャエールをひとつもらうと、背中にその声を聞いた。彼女の姿を見る前に、ボクは彼女に話しかけた。「あの」「えぇ」「飲み物、どうですか」「ありがとう、でも、あります」「そうですね」「ありがとう」「えぇ」「あの」「はい」「学部は」「○○です」「あなたは」「××」「でも同じキャンパスだ」「えぇ」「ここはお酒が飲めないみたい」「えぇ」「よければ外に出ませんか」「えぇ」「どこか」
ボクと彼女は建物を出て、少し歩いて、どこかのカフェに入った。ソファの席も空いていたけれど、彼女は店員にタバコの吸えるところを聞いて、ボクたちは隅のほうの小さなテーブルに座った。
彼女はハートランドを選んだので、ボクはグラスを二つ頼んだ。
「タバコは吸うの」「いや」「吸わない」「もらってもいいかな」「どうぞ」
ボクは彼女のピースにマッチで火をつけて、ゆっくり煙を吸って、壁にふっと吐いた。彼女はグラスに口をつける「何かを信じたことがないの、これまで、そんなものが現れなかった、ずっと願っていたけれど。そういったものって、みんなどうしているの?強く思わないと生まれないものなの、それともそれは欠乏や実際に困窮するほどの飢餓がそうさせるの、それとも向こうからやってきてくれるのかしら」
「ボクもわからないけれど、そのどれでもないと思う。そういうものはもうはじめから決められてしまっているのだと思う。ボクやキミとは無関係なときに。ボクやキミが僕らの中で生まれる前に、回避できない時間に、すでに。もちろんアポステリオリにも起きうることだとも思うけれど」
犬を首に巻いて彼はビールを飲みタバコを吸う。まだ6時間ほど前、彼がいた地下室。その2時間前、彼がその地下に降りていく。重い扉を押すと、隙間からはこもった別の空気、別の世界の窒素が、そこを支配する異次元の音に押されて彼の顔に浴びせられる。彼はその気流の中を進み扉を閉め、入り口に立つ人間に挨拶をして、すぐ手前にあるカウンターにより、酒を頼み、それからまた他の人間たちに挨拶をして、手と手におどけている。ある時点で、女が彼のタイを強く引いて言う。
「いつでも同じ格好をするのがスタイルだなんて、どうかしてるわ、マッチョよ。ファッションを無視することと強いスタイルを維持することは矛盾しないわ」
彼は一瞬間、女の目を見る、そして目を、言葉を、何もない空に漂わすように、ゆっくりと
「とても哲学的で示唆に富む意見だし、僕は君を尊重する。だけどね、僕が僕について与えているこの習慣がマチズモなら、僕は世の中のすべてが男のように構成されればいいと思うよ。こんなふうにね!」彼はそう答えると、女の尻を思い切り蹴り上げた。悲鳴をあげて転げる女をつかみ、低いテーブルにあったシャンパンの瓶をつかみ栓を飛ばして瓶を逆さに女の口に突き立てる、彼は女の口からごぼごぼとこぼれるそれを吸う。観客は驚きざわめき彼と彼女を囃し立て自分たちも同じようにシャンパンを口移しに飲み出した。彼はほどよく賑やかになったのを確認し、朦朧とした女をソファに座らせて、別の場所に移動した。いくらか落ち着いた客たちの席に来ると、彼はタバコを出して火をつける。彼がタバコに火をつけようとするとスーツを着た男がシガリロを持ってきた。向かいの少し離れたところに座っていた年配の男が彼に持ってこさせた。彼はシガリロを受け取りマッチで火をつけると、立ち上がって男の前に行った。
「今日は少し遅いな」「書き物をしていたんです」「頭の中で」「頭の中で、です、明日は紙に書きますよ」「さっきは賑やかだった」「ここから見えましたか」「いや知り合いが見ていた、面白がってたよ」「生活のためですから」「うちのアドバタイズを全部任せたいな、形而下の世界に降りてきたらどうだい」「形而下の世界なんてありません、物事はなんでも観念に向かって為されるべきです、が、僕はまだ言葉の自由性に縛られていたいんです」「そうだろう。今が華だ、花が散るまでは踊り続ける、それが青春の潔癖さだ。その残酷さの殉教者になる努力をしている君が、僕らは好きなんだよ」「褒められてないことはわかっていますが、理解してもらえるのは嬉しいです」「嘲弄の中を生きる、それは立派なスタイルだ」「この赤のボトル借りてもいいですか、ちょっとあそこのやつ、シャツを染めてきますよ」「風情があるかどうか見てるよ」
ケータイが鳴る。本屋からだ。
「こっちに戻ってこれる?」
「まだ近くにいるよ」
「お昼の予定は」
「牛が食べたい」
「車で迎えにいくわ、どこ」
本屋の赤い車は彼を拾って、大通りを抜け、静かな住宅街の小さなビストロの前に停まった。植物は店の外壁をつたい、店の外壁の木材を植物はカーテンのように覆っている。真上に昇った太陽は白く、強く眩しい。
店に入ると店員は人数を確認し、店の奥のテーブルを案内した。渡されたメニューの中から彼は牛肩のグリエにフリットを頼み、本屋はサラダと魚を頼んだ。
「車で魚か、何の風景だったかな、書かれたものみたい」
「そう、その話をするの。書きなさい。これは指図している」
「そうだね」
「書かないこと、書けないこと?、そのどちらも否定しないけど、書いた方がいいわ。なんのためかって、その方が面白いから。書かないあなたより、書くあなた、書いているあなた、書いたあなた、その方が面白いの。同じ、嘲弄の中でも、道化の華でも、新しい芸が定期的に出てくれないとつまらない、飽きるわけじゃなくても、貧しい手札はいつまでも切れない。これくらいでちゃんと移動するべきよ」
「本当に大人たちは優しい、老人を殺すのはやめようかな」
「老人を殺すのもいい、ブルジョアの少女が幼い夢を抱くのもいい、それがどれだけ子供っぽくてメルヘンだって、人の目を気にしすぎることはないのよ。大時代的だなんてクソっくらえの話だわ」
「女史にしてはきつい口調ですね。でも僕の過剰な自尊心を崩してくれる、もう優しさなんて言葉は使わないけど、それは感動する、そのために僕は何かをしなくちゃいけないんだ」
「そう、じゃあワインはやめておく?」
「そうだね、集中の酒はワインじゃない。すみません、アブサンをふたつ、ストレートで」
一息に飲む、アブサント。
彼女は大時代的に時間を生き、その虚構の投影の中に生きようとしていた、そして事実、彼女は僕に死ぬことの話ばかりした。
「言ったでしょう、私はこの物語があって初めて生きていられるの。物語の終わりは、私自身の終わりと同じなの」
「君は体で描くわけだ」
彼女はうなずくと、ワインを僕に注いだ。
「ねぇこのワインの赤色に、何があると思う」
「何もない」
「そう、そうなの、私はそれが嫌なの。色に酔って象徴を見てもいいじゃない。全部がばらばらに切り離されて、相対的で、全部が平面に打ち捨てられて、散りばめられて、それでおしまい。お話にもならない。与えられた舞台の上で、シナリオのないままに踊らされて、踊り疲れたら、給食が出るの。そんなの私は我慢できない」
ボクは彼女を批判できない。給食が出ることの幸福なんていう物言いがもう遠い昔の遺跡として埋葬されたことを知っているから。それは重要な前提だけれど、彼女の思想の世界では不必要で些末な現実だった。
冬の寒さはその猛威の中心に迫ろうとしていた。風が吹き、木々がうねり、空間は歪む。
彼女は老人を殺すために何をすればいいのかを考えていた。組み替えようのない世界をすべて壊してしまう方法を。それは不可能なようにも思え、しかし生命を賭してやれば、むしろ現代だからこそ「人命の神話」の名のもとにそれが可能なような気もした。
風が吹き、木々がうねり、歪んだ空間の中を、彼女は街に出て、ミルク色した幻想を探しに出た。
彼女は彼女の夢の中をさまよう、はっきりとした意図と世界の地図をもって。彼女は彼女の探し求めるものをその中から正確に探しつづけ、見つける。彼女の世界が彼女の敵対世界を破壊する方法、それは彼女の想像力以外の何でもない。彼女の妄執にあらゆる人間が賛意を示した、曰く「それは間違いない」「そうだ、その通りだ」「やっちまえやっちまおう、やらなきゃダメだ」、彼女は彼らに意見を語り、その道程をひとつひとつ開始し進行させた。ボクはその姿を別の場所から眺めている、「ある程度」の疑問を保留して。彼らのうちのどれだけが彼女の中にいるのだろう、彼らのうちの果たしてどれだけの人間の中に彼女が正確に存在しているのだろう。彼らは彼女によって作られた場所や行動や時間を、何か別のことのために利用しているのではないだろうか。彼女の夢の中で、一回きりの登場を務めるだけではないだろうか。彼女の夢は何度も繰り返される、その紡がれていく夢の連なりに、彼らはどのように存在していくのだろうか。彼女はどう思っているのだろうか、もう彼女の夢は他の存在とは無関係に膨らみ始めているのだろうか。
そうボクはここから気づき始める、ボクの書く『彼女』は、はじめからボクの中にいたことを、ずっと前からボクはこの人を求め続けてきたことを、『彼女』は彼女ではなく、ボクが夜に描き直す『彼女』は、ボクの見ている実在と段々と剥離し始めていることを、ボクは理解する。それでいい。
デザートのアイスクリームとタルト、エスプレッソを済ませて、彼と本屋は店を出た。彼は車には乗らず、一人で行くと言った。
「帰る方向わかる?」
「どこかに行く当てがあるわけじゃない、ちゃんと戻るよ」
彼は赤い車を見送って、白からは少し黄色みの増した日差しと暑気の中を歩く。角を曲がったり、坂を下ったりしていると、バス停が見えた。彼がバス停のベンチに座ってタバコを吸っていると、一台のバスが停まった。彼はタバコを靴で揉み消して、バスに乗る。
バスは一息ついてゆっくり排気し、ドアを開けた。彼がステップを上り車内の通路に立つと、バスは出発の声をあげてドアを閉め、一瞬小刻みに躯を揺らし、タイヤを回す。前方への加速とその慣性、動力から響くその振動の中で、彼は周囲を見渡し、一番後ろの長い座席に座る。車内の誰もが何も話さず、ぼうっと前を見たり、目をとじたり、肘をついたりしている。バスはその身体に外からの日差しをたっぷり取り込んで、通過させ、器官を温めて、信号のない住宅街を規則正しく息を吐きながら進んでいく。
彼女はももに大きな切れ目のついた薄いドレスを着て、薄暗く艶やかに輝く照明の中を踊る。ボクらは舞台を取り囲むように座り、それを眺めている。寒さの中に光る外の明るい日差しのその中にこの小屋は、この小屋の中は暗く淫靡に湿って、一人一人の呼吸が彼女の肢体を包んでいた。彼女はその呼気の中で身をくねらせ、上気し、動き、視線を投げて、脚を開き、酔い、酔わせ、一言も発せず、激しく息を吸い、衣を、皮膚を、その臓腑を晒し、なびかせ、舞い、踊った。見るものはその誘惑に浸り、その臭気に発情し、彼女を好奇の目で我が物顔に見つめていた。円い舞台を囲む注視は、その中心に収束し、彼女はその幾千の矢を一身に浴びて、虚ろに目を開き、口を開く。
バスは落ちていく日差しの中、バスは、黄色とオレンジの中間の間を、進み、住宅街を抜け出て、そのまま長い坂を上り、また下り、舗装のない田舎道を走り、畑を曲がり小川を渡り、また街に入った。そこからはただまっすぐに進んでいく。外を流れる建物や風景、人間は、強い夕日を浴びて影のように暗く、その暗い影があまりに強く、黒い重力に吸い込まれ、本来あったあるはずの場所から切り抜かれ、そこには建物や人間の黒いシルエットだけが残されている、それは確かな暖かみと実在の手触りをもっている。
空がオレンジ色に染まり抜き、世界はどんどん切り抜かれて、黒く、影は確かな輪郭と生命力で力強くそびえ、動き、活動する。乗客たちの切り抜き、それら切り抜きたちは、外の世界が充足していくにつれその中に降りていき、彼は一人車内の後ろに残された。
彼はバスの前面に、そのガラスの真ん中に一本の線を見る。上半分はオレンジ色に、下半分は黒く、その間は緊密に密接して、緊張しており、真空のように接合され、混じり合うことのない二つの世界の間には他のいかなる余分もあり得ないようだ。走るバスはそのままその境界に侵入していく。どこまでも続く二つの世界の間を、透過していく。バスはもう動力を止め、呼吸することもやめて、最初に入ったときのその速度のまま、何にも遮られずに、その惰性の中を滑っていく。バスはゆるやかにその進行を止めて、身体は平衡を失い、はじめはゆっくりと、そして加速して落ちていく、奥深い闇の中に。
彼はバスを降り、また街に戻った。夕方の街になった街。夕方。
春、彼女は窓外を走る田園に、無関心な視線を投げかけている。ボクは、彼女の向かいの席で、ボクは、手帳を見ながらその文章の前後を考えていた。ペンを押しつけ、離し、紙をたたき、書き、順序をいれかえる。彼女はコンパートメントを出て、食堂車に向かい、バゲットのサンドイッチと分厚いガラスで出来た安い白ワインのボトル、簡単なグラスを二つ持って、戻ってきた。ボクはナイフでそれを4つに切り分け、彼女はグラスにワインを注いだ。列車は途中の駅で少し待つ。その間彼女は窓を開けて、タバコを吸い、その煙を見知らぬ田舎に吹きかける。煙草は風景の重要な一部だとでも言うように。列車が動き出す。彼女は膝にのせた鞄からマニキュアを取り出し、爪を赤く塗り始めた。それは彼女の嫌いな色で、彼女の父親の嫌いな色だ、と彼女は言った。ボクは爪を赤く塗る彼女の写真を撮る。彼女は下を向いて、赤くなった自分の爪先を眺めながら、無感動な顔を帽子の下に納めている。爪が他に当たらないように彼女は指を開き、親指と中指でグラスを持ち、口をつけた。ボクは彼女の写真を撮る。彼女はバゲットの中を開き、フォークで中身を取り出して、パンを細かく切り、それらを交互に食べた。
ボクは彼女の写真をこれまでにも、そしてこの先にも撮り続けている。
ここに数葉の写真があり、ボクはそれを眺める。
彼女の笑顔、彼女の汗、彼女の倦怠、絶望、それらの表情をボクは認める。
彼女の表情、それはボクがそうだと認識する彼女の感情を湛えた表情、形相。
数葉の写真、それよりももっと多くの彼女の写真たち、それらはある道筋の上で、ボクに微笑んでいる。
列車は終着駅に停まる。
ホームへ降り、改札で駅員に切符を渡してしまうと、彼女は駅前に一台の車を見つけた。予約しておいたタクシーに乗り、行き先を告げる。タクシーは駅を離れ、ところどころに家のある、何もない景色、どこにでもあるような田舎の風景を抜けて、山道に入った。舗装された山道のゆるやかなカーブを眺めていると、車は最後に少し直進して、停まった。彼女は代金を払い、車を降りて、門に鍵をさして、玄関までの道を歩く。呼び鈴をならすと、中から家の人間が扉を開けた。彼女は中央ロビーの階段を上がり、踊り場を右に上がって、二階の廊下を奥まで進み、行き止まりの窓の左につけられた部屋に入る。ボクは中に入り、ドアのすぐ横、部屋の端に荷物とともに立っていた。彼女はベッドの横のサイドテーブルの椅子を引き、座って、言った。
「おじいちゃん、ただいま」
老人は寝ている。
彼女は老人の腕に手を置き、その静かに眠る死んだような顔を見る。そして椅子から立ち上がり、窓際の机、鞄から取り出した鍵でその引き出しを開けた。彼女は中から何枚かの署名済みの小切手を取り出し、引き出しを閉め、鍵をかけ、鍵とともにそれらを鞄にしまった。
彼女とボクは部屋を出て、また中央の階段に戻り、今度は建物の左翼を進んで、部屋に入った。彼女は窓をあけ、部屋の空気を入れ換えると、また窓をしめ、部屋を満たした冷たい夕方の空気を、暖房をいれて暖めた。日差しの弱まる中、彼女はカーディガンを羽織る。
彼女は一階の食堂を抜けて、キッチンで夕食の準備を始めた。夕食に、彼女の父親は降りてこなかった。ダイニングの長いテーブルの端に彼女は座り、ボクは離れて向かいに座り、彼女の横にはテーブルに被さるようにして老婆がスープを飲もうとしていた。彼女はそれを手伝いながら、飲み物のグラスをとってやり、食べ終えた皿を下げて、自分の食事を済ませた。
彼女は眠る前に、上階に上がり、父親を殺した。
朝、ボクと彼女は家にタクシーを呼んで、駅に戻り、列車に乗って、戻った。
彼女は駅から銀行に行き、小切手を換金して、ボクは地下鉄に乗った。
「私は父を少しも嫌っていない。父はとてもいい人で、私は嫌な思いを一度もしたことなんてない。父は私のために死んだの。私の決意のために。彼は死ぬ必要なんてなかった。彼は死ななければいけないどんな特性も持っていなかった。彼が死んだのは私のため。私が彼らを殺してしまいたいために、そのきっかけになるために彼は死んだの。結局彼は最後まで優しかった。じゃあなんで私は彼らを殺さなければならないの。なぜ彼らは『彼ら』になると急に私たちの障害になるの。わからなくなってくる。でも、私は決めた、その方向で考えることにした。彼らを決めつけて、他の一切を無視することにした。そう思わなければ、妥協と諦めの優しさの中からいつまでたっても出られない。ぬるま湯を出るために、私はその温度を意図的に操作して高める。私自身のことには目をつぶって」
彼は家に戻った。彼は塀に足をかけ庭に入り、裏の戸を開けて部屋に入った。妹と家の人間が夕食の用意をしていた。その音を聞きながら彼は2階で一眠りする。
銃声のような雷が轟いた。彼はそれによって目が覚めた。それは隣の部屋から聞こえてきたようでもあったし、また別のまったく違うどこかから彼に届いた音かもしれなかった。脳を裂くようなその鋭く響く轟音は、屋敷の中に溶けていった。
彼は玄関を出て庭を通り門を開け、タクシーをつかまえて街に戻った。彼は狭いマンションの前で車を降り、3階のドアを開ける。誰もいない。彼は椅子を引き、ラップトップの前に座った。目を閉じたり、ハードディスクからスピーカーを通して流れる音楽に揺れたり、その勢いに任せたりしながら指を動かして、彼は文字をタイプしていく。指で早いリズムをとりながら、それはキーを上をただ撫でるだけであったり、実際に叩いて文章を作ったりして。ドアが開いて女が帰ってくる。彼はそのままラップトップを打ち続ける、女はキッチンに入り冷蔵庫に買い物をしまう。さっきから窓を打ち始めた雨は、だんだんとそのタイプを強めている。女は、「あなたも食べる?」「たべ、少しもらう」彼はキッチンと彼を隔てる白い壁を少し見て答えた。鍋を火にかけながら女は仕事の資料を読んでいる。企業の法務部というのは熾烈な戦争の世界だと、前に彼は聞いた。
向かい合わせに夕飯を食べて、彼はタバコを吸う。女はタバコを無視して食事を済ませ、寝室に入った。彼はまたラップトップに戻り、タイプを続けた。
それだけのこと。男と女、が、ある空間の中に、いて、交差し、離脱し。
それだけのこと。特別なことはなにもない。
男と女の間には、ほとんど何もないと彼は思う。それは特定のパートナーの間に限った話ではなく、おおよそ特筆すべきものなど、それは歓談の場に出される歓談の種として以外に、特別に価値を持つものなどないということだ。彼はこれまでにも多くの話を聞いたし、彼自身も話した、これからもおそらくあらゆる種類の話を聞くだろう。結局彼が特筆しなければいけない話などは、彼の日常にはない、なかった。男と女の間のそれは、沼に沈む舟に似ている。緩やかな減殺と、最終的な沈黙。何かを維持するためには、常に何らかの意図的であれ偶発的なものであれ事件が必要だった。それは物語が無理にでも詩的な言葉によって作られたり、事件性にあまりに富んでいるのと同じだ。何らかの結末、価値だと仮定された価値に向かって、ボクらは多少ともの無理をしなければならない。価値のために価値の盲にならなければならない。
彼は女と部屋を出て、電車に乗った。数駅離れたところで降り、煩雑な飲食街にある半分ほどが屋台のように外に出た中華に入る。オレンジ色と紫がかわるがわるに漂う薄暮の下、テーブルと身体、湿度と温度、白い皿、鮮やかな食事、緑のテント、それらが一体となって食事となって彼の口、女の口に入り、抜け出て、ある。そういった振れ幅のことを彼は日常と呼んでいた。無限の選択肢とそれが奏でる無限色の世界を、彼は終わらない日常と呼ぶのだった。
地下鉄を出て地上に上がる。ボクは特に気にしていなかったのだけれど、そこがどこなのか知らない場所だった。「ここは」「ここから私、歩きたいの」「いま」「いいえ最後のときに」「公園」「そう公園、何の変哲もない小さな公園。錆びた遊具と真っ黒な砂場、小さな公園。でも私の小さいころには大きかった、もしここにいたら大きいと思っただろうな、そんな公園」そのベンチに座って彼女は話した。彼女はどれだけ自分が子供で、幼稚じみた思いの中を生きようとしているかを十分認めていると言った。彼女はしかし大人の夢を打ち砕くのが子供の現実だと言った。子供の現実、子供の眼、その正しさを大人が十分に理解するために、子供は死にもすれば微笑みもする。彼女の提出は、そういった理想趣味的な愚かさ、老人たちの言うそれだった。それが彼女の、子供の現実だったのだ。
早く終わらせてしまいたい。言ってしまえればいい。この少女は、ただ革命などという現代的に不可能なぼやけた思想に自らを投げ込み、そしてそのために殉教しようというなんとも甘美な幻想に囚われている。それだけのことだ、それが、そういうものもあってはいいのではないかということだ、とボクは書きたくなってしまう。そのあまりに不完全な文章で彼女を終わらせ、またどこかに流れようとしている。流れる先になにがあるかなどということは知らない。流れる過程に意味があるなんて思わない。流れることが楽しいわけでもない。ただ、流れの中には予想のできないものがたくさん生まれてくるということ。一時の快楽、快感、愉悦が、ただあるということ。それが十分によいということ。しかし何だろうこの渇望は。ボクは何を求めているのか、ボク、ボクとは、ボクか?
「諦めやすいところから始めた小説なわけですね」
対話の相手はそう言った。
「はい、そうです」
「なるほど、でもこれは本当に小説なのですか。つまり、これは小説の形で書かれるべきものであったのでしょうか」
「それは、わかりません。ただ、ぼくには、こうするしかなかったし、これ以外のことは僕の手に余ることだったのです」
「僕の手に余る」
彼(対話の相手)はカレの言葉の最後の部分を繰り返した。ボクノテニアマル。
「この文章の中であなたは、僕について言及しているという人たちがいますが、実際にそういう声があることでこのような場が設けられたわけですが、それは本当のことなのですか」
「はい、それは実際のことだと受け取られて仕方ないと考えています、現にだからこそ僕は今あなたとこうして話すことになっているのですから」
「そう、私はあなたの話の中に登場させられてしまっている、これは私にはどうしようもないことです、私にはそのことについて、それを受理する権利も拒否する自由も最初から与えられていません。剥奪以前に、権利と自由を与えられるべき主体もない、実体的な存在すら許されていないのですから」
「でも、あなたはここに存在しています。これはある意図をもって書かれているのであり、それは何かの染みとなって存在し、その染みは何かの模様として理解される、もしくは何も認められない、どちらにしても何ものかとして見られるのです」
「それはいいでしょう、それはそういうことだとして話を続けましょう。そしてここであなたは僕に何を話させ、あなたは僕を相手に何をしたいのですか?」
「まず、こうしてあなたにばかり質問をさせて、僕が答える、という形式になっていることを謝りたいと思います。これは本質的なことではありません、僕の能力が、あなたとのもっと有機的な交わりを達成させるには十分ではない、そのために起こっていることです」
「かまいません、僕はすべてを諦めてしまってますし、受け入れているつもりです」
「ありがとうございます。まず最初に、ここに出てくるあなたは、決してあなたじゃないといけなかったわけではありません、これは最初の前提ですが、そこにおいてはそうなのです。まず、僕には相手が必要だった。それはひとつの装置であり、僕はその装置によって、この中の言葉たちの想像力を飛躍させる必要がありました。言葉たちが死ぬ前に、彼らに新しい空気を送り込む必要があったのです。だから僕は誰かと話さなければならなかった、僕として。そして次に、ここであなたでなくてはいけなかったわけですが、あなたの瑞々しい文章、今の僕たちを絡め取り、また自由にし、同時に束縛している、そのようなあなたの言葉と対峙したかったのです。それは何か大義のようなものかもしれません、僕が勝手に感じている。これも僕にとっては、言葉たちのためです。あなたの世界と枠組みにぶつかることで、ぼくは目から星が出るようなことはないか期待しているのです。僕の体がばらばらになってしまっても、何かワープできる世界が現れないものかと。まったく違う次元というのが、別の世界に存在しないのかということを。」
「そんなに素直に語って大丈夫なのですか。あなたが今語ったことは、僕の世界に対してというよりも前に、あなた自身を殺す行為のように見えます。何事もある程度取り繕わなければ、それはただの塵になってしまう。少しの風の前に消えてしまう、弱いものになってしまう。その怖さはないのですか」
「そんなふうにあなたに言わせてしまっていることが申し訳なくなります。そうです、これではまた何かしらけてしまう。だからまた何か考えます。そのときはまた協力してください、ぼくの身勝手のすべてに」
そうして対話は終えられた。言葉がまたもう一度死にかけたから。