『最初の命題:「つまり鑑賞とは、感傷である」』
テクスト(テクストというのは描かれたものであり、それは最も広義なエクリチュールだと考えてよい)が読まれるとき(読むとは、受容することである)、それは二種類の曖昧にではあるがしかし大きく異なった方法で為されている。
その内の一つは自身に還すものであり、もう一方はテクストそのものの背景に還すものである。
前者は感傷する(鑑賞する)主体に特別な彼自身の印象であり、後者には鑑賞する(こちらもいくらかの感傷を含んでいる)主体による読み方の差異はほとんどなく、仮に存在したとしてもそれはそのテクストの水源(それをコード化したであろう生産者(コード化とはここで、何らかのメッセージをメディアという形態にパッキングすることである))に帰され、還元される。
感傷とは共感であり、それを個人的な体験の集積に積み重ねるのか、それとも鑑賞することで創り出される解釈をそのテクストの背景に積み重ねそれについて何らかの感慨に耽るのか、という心の作用であり現象である。
想いを馳せるその先に、誰がいるのか。と、その違いが存在している。
『最後の命題:「自分の外に、世界は存在するか」』
もしかすると、あるのかもしれない。
これこそ新世界・新世紀の最初の命題である。
2010年8月24日火曜日
2010年8月19日木曜日
あるはずもない"スペシャル"についての楽観的かつ悲観的な希望。
見られたことのない「見方」を。
それは何にも則していないものであってもかまわないが、
意味のあるものだと主張する勢いを放つものでなければならないだろう。
つまり暴力的な新時代的な暴力を、この際に叩き付ける恣意的な意志で。
それは何にも則していないものであってもかまわないが、
意味のあるものだと主張する勢いを放つものでなければならないだろう。
つまり暴力的な新時代的な暴力を、この際に叩き付ける恣意的な意志で。
2010年8月5日木曜日
ワンダーランドの退屈。
いわゆる「3D映画」では、今日の黎明期にあって、
その技術的効果を作品中で顕示しようとするあまり、
映画の物語自体の叙情やテンポが殺されているようだ。
私たちに向かって巨大なクリーチャーの顔面が迫り、踏み散らされた障害物が飛来するその度に、その瞬間が意図的に強調され、一瞬一瞬が引き延ばされる。
その度に私は、私自身がこの瞬間に「映画を見ているのだ」と改めて認識させられる。
スクリーンが強引に私にその存在を迫ってくるその度に、私はその存在の押し売りによって、何度も何度も現実に引き戻されるのだ。
つまり3D映画技術は、好意的に捉えるならば、映画鑑賞において新しい視点を生み出したことになる。
それは映画を鑑賞するものに、改めて彼らが「映画を鑑賞しているもの」であると意識させる視点である。
映画の中に取り入れられ、その世界に同調し共感するのではなく、その世界の外から、いわば二つの世界を自由に重ね合わせて物語を楽しむ。そのような新しい享受の作法が生み出されたのである。
3D映画黎明期の構成はまだ稚拙である。その未熟から、ティム・バートンの独創性は失われてしまった。
ジェームズ・キャメロンはさすがに"Mr.ハリウッド"としての文法の、テクノロジーとの親和性から、優秀な映画を作っている。
新しい技術がその技術がもたらす均質性を失うのは、いつになるのだろうか。
それが楽しみだ。
その技術的効果を作品中で顕示しようとするあまり、
映画の物語自体の叙情やテンポが殺されているようだ。
私たちに向かって巨大なクリーチャーの顔面が迫り、踏み散らされた障害物が飛来するその度に、その瞬間が意図的に強調され、一瞬一瞬が引き延ばされる。
その度に私は、私自身がこの瞬間に「映画を見ているのだ」と改めて認識させられる。
スクリーンが強引に私にその存在を迫ってくるその度に、私はその存在の押し売りによって、何度も何度も現実に引き戻されるのだ。
つまり3D映画技術は、好意的に捉えるならば、映画鑑賞において新しい視点を生み出したことになる。
それは映画を鑑賞するものに、改めて彼らが「映画を鑑賞しているもの」であると意識させる視点である。
映画の中に取り入れられ、その世界に同調し共感するのではなく、その世界の外から、いわば二つの世界を自由に重ね合わせて物語を楽しむ。そのような新しい享受の作法が生み出されたのである。
3D映画黎明期の構成はまだ稚拙である。その未熟から、ティム・バートンの独創性は失われてしまった。
ジェームズ・キャメロンはさすがに"Mr.ハリウッド"としての文法の、テクノロジーとの親和性から、優秀な映画を作っている。
新しい技術がその技術がもたらす均質性を失うのは、いつになるのだろうか。
それが楽しみだ。
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