2010年8月24日火曜日

感傷の段階説。の嘘

『最初の命題:「つまり鑑賞とは、感傷である」』


テクスト(テクストというのは描かれたものであり、それは最も広義なエクリチュールだと考えてよい)が読まれるとき(読むとは、受容することである)、それは二種類の曖昧にではあるがしかし大きく異なった方法で為されている。

その内の一つは自身に還すものであり、もう一方はテクストそのものの背景に還すものである。
前者は感傷する(鑑賞する)主体に特別な彼自身の印象であり、後者には鑑賞する(こちらもいくらかの感傷を含んでいる)主体による読み方の差異はほとんどなく、仮に存在したとしてもそれはそのテクストの水源(それをコード化したであろう生産者(コード化とはここで、何らかのメッセージをメディアという形態にパッキングすることである))に帰され、還元される。

感傷とは共感であり、それを個人的な体験の集積に積み重ねるのか、それとも鑑賞することで創り出される解釈をそのテクストの背景に積み重ねそれについて何らかの感慨に耽るのか、という心の作用であり現象である。

想いを馳せるその先に、誰がいるのか。と、その違いが存在している。



『最後の命題:「自分の外に、世界は存在するか」』

もしかすると、あるのかもしれない。

これこそ新世界・新世紀の最初の命題である。    

0 件のコメント: