神はサイコロを振らない
しかし
神は、いるともいないとも言えないのだ。
2008年12月27日土曜日
ロマンチックの止まり方
ロマンチックなのかもしれない。
恋は、彼を冗舌にする。
彼と彼女の全ての交流は、プレイになる。
あらゆることへの熱狂とは
そう
彼/彼女が、ロマンチックになっているということ
なのかもしれない
ロマンの持つ理想の響き
熱狂に見る革命の色彩
そういった間を揺らぐ
魚は刺身で食べるものであるように
新鮮な死、にこそ
人は向かうのだろう
死んでいるのだ、第二の彼にとっては
しかしその形骸ほどに旨いものは、ない
他人において、彼は彼自身をすり抜けていかざるを得ないように
彼においてもなお、彼は彼自身と闘わなければならない
ロマンの残酷さよ
なぜにロマンは残酷と不可分で、
なぜにかくも輝いているのか
血みどろは
なぜにあんなに美しくみえるのかということが
少し、わかるではないか
恋は、彼を冗舌にする。
彼と彼女の全ての交流は、プレイになる。
あらゆることへの熱狂とは
そう
彼/彼女が、ロマンチックになっているということ
なのかもしれない
ロマンの持つ理想の響き
熱狂に見る革命の色彩
そういった間を揺らぐ
魚は刺身で食べるものであるように
新鮮な死、にこそ
人は向かうのだろう
死んでいるのだ、第二の彼にとっては
しかしその形骸ほどに旨いものは、ない
他人において、彼は彼自身をすり抜けていかざるを得ないように
彼においてもなお、彼は彼自身と闘わなければならない
ロマンの残酷さよ
なぜにロマンは残酷と不可分で、
なぜにかくも輝いているのか
血みどろは
なぜにあんなに美しくみえるのかということが
少し、わかるではないか
クリスマスを巡る、複数の電気コミュニケーション
私の演繹的な法則では、
二つの状態が、全く等価にそして同時に存在するということは不可能なのですが、
しかし私の経験則は、
そういうことをやってのける、またそれに呪われている、そしてそれを愛している、
そういうことが出来ることを、僕に教えます。
シュレーディンガーの猫において、猫の生存は全くどうでもいいことですが、
その状態が成立することは実証されていて、
しかし彼女はその未決定を、何らかの決定がなされた状態に観測されうるように、振る舞うのです。
しかしそれもある種の振る舞いですから、
「本当の」というところには永遠に届きません。
そういえば別のある人は私に、
「決定が好きなところが、恐い」
と言いました。
決定を愛する、信じる、私。
決定を振る舞う、誰か。
今日はあまりにも散文であり、
何も客観性についての高尚な形而上学的討論ではありません。
ただ私は、
熱狂という記述でもって、人間の未決定な状態を観測できるのだと、
背理する彼の彼自身から、目の前に現前する彼まで
記述可能かもしれないと、信じます。
熱情では、足りません。
なぜなら、そのことに対するその人は、もっとそのことに囚われているからです。
その彼女と違う彼女の中の彼女は、冷静かもしれませんが、
その熱を帯びた彼は、完全に"crazy about"ですから。
あらゆる人々の信念は、
それ以外の他人から見れば、それは狂気でしかありません。
どうやってそれを肯定的に考えるのかという命題に、
私は熱狂を設定し、その熱狂には十分に冷静な彼を認めることで、
応えようと思います。
非常に散漫で冗長な、文章です。
僕の誠実命題は、本来こういったものを退けますが、
慎み命題の思案と、その二つの命題のパラドックスが成立する世界の記述の仕方として、
「熱狂に向かう存在」としての人間を、そういった人間記述のヒューマニズムを、
模索しているところです。
二つの状態が、全く等価にそして同時に存在するということは不可能なのですが、
しかし私の経験則は、
そういうことをやってのける、またそれに呪われている、そしてそれを愛している、
そういうことが出来ることを、僕に教えます。
シュレーディンガーの猫において、猫の生存は全くどうでもいいことですが、
その状態が成立することは実証されていて、
しかし彼女はその未決定を、何らかの決定がなされた状態に観測されうるように、振る舞うのです。
しかしそれもある種の振る舞いですから、
「本当の」というところには永遠に届きません。
そういえば別のある人は私に、
「決定が好きなところが、恐い」
と言いました。
決定を愛する、信じる、私。
決定を振る舞う、誰か。
今日はあまりにも散文であり、
何も客観性についての高尚な形而上学的討論ではありません。
ただ私は、
熱狂という記述でもって、人間の未決定な状態を観測できるのだと、
背理する彼の彼自身から、目の前に現前する彼まで
記述可能かもしれないと、信じます。
熱情では、足りません。
なぜなら、そのことに対するその人は、もっとそのことに囚われているからです。
その彼女と違う彼女の中の彼女は、冷静かもしれませんが、
その熱を帯びた彼は、完全に"crazy about"ですから。
あらゆる人々の信念は、
それ以外の他人から見れば、それは狂気でしかありません。
どうやってそれを肯定的に考えるのかという命題に、
私は熱狂を設定し、その熱狂には十分に冷静な彼を認めることで、
応えようと思います。
非常に散漫で冗長な、文章です。
僕の誠実命題は、本来こういったものを退けますが、
慎み命題の思案と、その二つの命題のパラドックスが成立する世界の記述の仕方として、
「熱狂に向かう存在」としての人間を、そういった人間記述のヒューマニズムを、
模索しているところです。
2008年12月22日月曜日
factotum.16〜素晴らしきこの、世界
2008年12月20日土曜日
factotum.15
セザンヌや岸田劉生を見て、
「あぁ。きれいだ」と思える僕は、
新鮮だ
現代芸術の意義を、解釈からの表現であり、またその全体の解釈だと思ってきたけれど、
いや、やはり美しくあること自体を喜ばなければならない。
「美しいこと」という問題はそのままに残して、
美しさという強度をもっともっと、歌いあげたい。
美術は、貧しくなってはいけない。
貧しい美術は、美しいのだ。
しかし芸術自体が、貧しくなってはいけない。
根本規範はないということを知ったときに初めて人は、
文学的になれる。
フィクションを愛することができる。
ありうべきヒューマニティや価値を信じることができる。
仮にファナトスという本性が人間にあるならば、
人は熱狂に向かう存在であり、
それが一時のことであることは知りつつ、
楽しくいれる。
という仮定ができる。
フィクションの中でフィクションを、フィクショナルに。
これが僕の党是であります。
「あぁ。きれいだ」と思える僕は、
新鮮だ
現代芸術の意義を、解釈からの表現であり、またその全体の解釈だと思ってきたけれど、
いや、やはり美しくあること自体を喜ばなければならない。
「美しいこと」という問題はそのままに残して、
美しさという強度をもっともっと、歌いあげたい。
美術は、貧しくなってはいけない。
貧しい美術は、美しいのだ。
しかし芸術自体が、貧しくなってはいけない。
根本規範はないということを知ったときに初めて人は、
文学的になれる。
フィクションを愛することができる。
ありうべきヒューマニティや価値を信じることができる。
仮にファナトスという本性が人間にあるならば、
人は熱狂に向かう存在であり、
それが一時のことであることは知りつつ、
楽しくいれる。
という仮定ができる。
フィクションの中でフィクションを、フィクショナルに。
これが僕の党是であります。
2008年12月18日木曜日
悲しきかな、想うこととは。
大正3年の講演会にて。
「こういうところに上がって、何かを話すというのは大変気遣いのいることで、私はその度に胃がチクチクとなるので、何やらかやらとこういうお話やご依頼はお断りしているのですが、どうにもこの○○さんのお話は袖にすることも適いませんでしたので、少しばかりのお話と、最近思案していることを述べさせていただきます」
「思う」とはこれすなわち、現在形の動詞であり、なかなか未来に開かれた、そういう能動的な所作であります。
これに対し「想う」とは、えぇそうです、相手に下心がつくやつですね、この組み合わせがいけません。どうしてもイヤらしいものであります。
大抵こういうものは、各々の過去でありますとか、誰か佳人でありますとか、ただぼんやりと何か外の対象を、ただぼんやりと頭に想い描くだけというものなのです。
いえいえ確かに、そうですねおっしゃる通り、大方の芸術や文学はそういうところから生まれます。えぇ、恋ですね。美を思い、時間を慕うことで、そういった物語を夢想すること、それが芸術家の本質であり、それを自己の美を求める欲求ただそれのみから表現すること、それが芸術家の本分であります。
お前は何を言いたいのかと糾弾されますと、それまでのことなのです。
つまり、想うことは、馬鹿げたことであるのです。
本当に何かを想いたければ、別のことを思わなければなりません。
能動的で、未来に開かれた、行動可能なことを考えなければ、
それは人間活力の停止であり、自身の現在の否定にも似た振る舞いであります。
これはいささかの誇張であり、これもまたこの話の本領ではありません。
問題は、こういった想うことしかできない状況に自らが在るとき、我々はどのようにそれを生きるのかということです。
叫ぶこともむなしく、立ち向かうことも侘しい。
故にやはりそれは、どうにかしてでも自己の問題として、自分をどうにかすることに向かわなければなりません。
想うことの大体の由来は、自分の不在です。
強迫観念のように自分を思うこと。
それが人間存在の圧力であります。
ご清聴、ありがとう。
「 。。。。。。。。。ぱちぱち」
「こういうところに上がって、何かを話すというのは大変気遣いのいることで、私はその度に胃がチクチクとなるので、何やらかやらとこういうお話やご依頼はお断りしているのですが、どうにもこの○○さんのお話は袖にすることも適いませんでしたので、少しばかりのお話と、最近思案していることを述べさせていただきます」
「思う」とはこれすなわち、現在形の動詞であり、なかなか未来に開かれた、そういう能動的な所作であります。
これに対し「想う」とは、えぇそうです、相手に下心がつくやつですね、この組み合わせがいけません。どうしてもイヤらしいものであります。
大抵こういうものは、各々の過去でありますとか、誰か佳人でありますとか、ただぼんやりと何か外の対象を、ただぼんやりと頭に想い描くだけというものなのです。
いえいえ確かに、そうですねおっしゃる通り、大方の芸術や文学はそういうところから生まれます。えぇ、恋ですね。美を思い、時間を慕うことで、そういった物語を夢想すること、それが芸術家の本質であり、それを自己の美を求める欲求ただそれのみから表現すること、それが芸術家の本分であります。
お前は何を言いたいのかと糾弾されますと、それまでのことなのです。
つまり、想うことは、馬鹿げたことであるのです。
本当に何かを想いたければ、別のことを思わなければなりません。
能動的で、未来に開かれた、行動可能なことを考えなければ、
それは人間活力の停止であり、自身の現在の否定にも似た振る舞いであります。
これはいささかの誇張であり、これもまたこの話の本領ではありません。
問題は、こういった想うことしかできない状況に自らが在るとき、我々はどのようにそれを生きるのかということです。
叫ぶこともむなしく、立ち向かうことも侘しい。
故にやはりそれは、どうにかしてでも自己の問題として、自分をどうにかすることに向かわなければなりません。
想うことの大体の由来は、自分の不在です。
強迫観念のように自分を思うこと。
それが人間存在の圧力であります。
ご清聴、ありがとう。
「 。。。。。。。。。ぱちぱち」
2008年12月13日土曜日
factotum.14
「コチラハ、廃品回収車デス。
御家庭内デ 御不要ニナリマシタ
大きなモノや 重たいモノなど
ドンナモノデモ 回収イタシマス
コワレテイテモ カマイマセン
マタ ワカラナイコトガアリマシタラ お気軽にオタズネクダサイ」
精度の高い言葉は、往々にして多義的だ。
それは多分、言葉が本来持つはずの、僕たちがわからないほど深淵なところにある、全能性というかな、そういったTotipotencyに由来しているんだろう。
海の底から沸き上がってくる無数のあぶくが、一番深いところから一番遠いところにいる僕たちに、それぞれ当たって、
僕らは、ぶわんと、揺れたり、溺れたり、死んだり、目を覚ましたりする。
嘘をついていても、それは嘘ではなくって。
「ホントウニ」なんて台詞も相手には、虚ろなものにしか聞こえない。
連れて行かれた モノ たちは どこにいくんだろうか。
多分、すぐに彼らは 彼らでなくなる。
僕もそこに行けばちょうど 僕でなくなってしまうように。
それは全然、大丈夫なこと。
でもその前に、ただ一つ僕が聞きたかったのは、
そう、わからなかったことを、お気軽に尋ねたかったってこと。
「何がわからないのか、教えてくれませんか?」ってこと。
もしそれが聞けたら、僕はすぐにでも、僕を僕でナクしてくれるところに、連れて行って欲しかったろう。
だから僕は外に出なかった。家を出て、あの車に走っていかなかった。
しっかりと僕をつかみかけたその言葉が、カラッポだとも、やっぱり知っていたから。
僕から生まれた疑問にコタエルのは、僕でしかないことにも、気づいていたから。
御家庭内デ 御不要ニナリマシタ
大きなモノや 重たいモノなど
ドンナモノデモ 回収イタシマス
コワレテイテモ カマイマセン
マタ ワカラナイコトガアリマシタラ お気軽にオタズネクダサイ」
精度の高い言葉は、往々にして多義的だ。
それは多分、言葉が本来持つはずの、僕たちがわからないほど深淵なところにある、全能性というかな、そういったTotipotencyに由来しているんだろう。
海の底から沸き上がってくる無数のあぶくが、一番深いところから一番遠いところにいる僕たちに、それぞれ当たって、
僕らは、ぶわんと、揺れたり、溺れたり、死んだり、目を覚ましたりする。
嘘をついていても、それは嘘ではなくって。
「ホントウニ」なんて台詞も相手には、虚ろなものにしか聞こえない。
連れて行かれた モノ たちは どこにいくんだろうか。
多分、すぐに彼らは 彼らでなくなる。
僕もそこに行けばちょうど 僕でなくなってしまうように。
それは全然、大丈夫なこと。
でもその前に、ただ一つ僕が聞きたかったのは、
そう、わからなかったことを、お気軽に尋ねたかったってこと。
「何がわからないのか、教えてくれませんか?」ってこと。
もしそれが聞けたら、僕はすぐにでも、僕を僕でナクしてくれるところに、連れて行って欲しかったろう。
だから僕は外に出なかった。家を出て、あの車に走っていかなかった。
しっかりと僕をつかみかけたその言葉が、カラッポだとも、やっぱり知っていたから。
僕から生まれた疑問にコタエルのは、僕でしかないことにも、気づいていたから。
2008年12月10日水曜日
factotum.13
誰かに何かを送るのは、難しいことです。
つまり、自分には意味のあることですが、相手にとっては何の意味もない、というのがあります。
もっとタチが悪いのは、もう、自己満足のためにプレゼントしてるということですね。
そして大抵のプレゼントは、独善的で狂気です。
キリストやヒトラーのように価値を信じることは、
他人には不幸しか与えませんね。
それを凡人がしてしまうことは、もっと恐怖です。
そういった恐怖が、もしどこかでクッションされれば、
僕たちの悩みは全て消えていくのに。
プレゼント、恐怖、クッション。
そんな比喩の行き着いた先が、これもまた偶像という比喩だったことを、許してください。
to
konna mail wo okuroutositandesu
つまり、自分には意味のあることですが、相手にとっては何の意味もない、というのがあります。
もっとタチが悪いのは、もう、自己満足のためにプレゼントしてるということですね。
そして大抵のプレゼントは、独善的で狂気です。
キリストやヒトラーのように価値を信じることは、
他人には不幸しか与えませんね。
それを凡人がしてしまうことは、もっと恐怖です。
そういった恐怖が、もしどこかでクッションされれば、
僕たちの悩みは全て消えていくのに。
プレゼント、恐怖、クッション。
そんな比喩の行き着いた先が、これもまた偶像という比喩だったことを、許してください。
to
konna mail wo okuroutositandesu
factotum.12
発言したいとき
僕は何かを失っている
喪失こそが、隙間をつくる
空間に収束していく圧力、つまり内圧がマイナスだということ
空いてしまった穴が、空腹で
食欲に駆られて、僕はここに来る。
そういった心理/真理を、あなたは認めるだろうか。
つまり、喪失こそが獲得だということ。
喪失しないものは、獲得しないということ。
獲得したものは、失わなければならないということ。
でなければ、死んでしまうということ。
獲得しないということは、諦めたということ。
諦めたということは、死んだということ。
有益な諦めもあるということと、諦めたという事実は逃亡を意味すること。
離脱こそが賢明というのは、もはや人間的ではないこと。
人間でないことの有益もあるということは、もはや無言にならざるを得ないこと。
無言こそ、幸せだということ。
無言の時間を過ごす、ということ。
そんなときに、このまま死ねれば幸せなのにと思うこと。
死を想ったとき、人は死ぬということ。
そして、僕は生きたいと思うこと。
そう願い
また生きること
そしてまた発言していくこと
そうやって時間が積み重なっていくこと
そんなことが、1/10000秒の間に10000回、僕を過ぎて逝くということ。
僕は何かを失っている
喪失こそが、隙間をつくる
空間に収束していく圧力、つまり内圧がマイナスだということ
空いてしまった穴が、空腹で
食欲に駆られて、僕はここに来る。
そういった心理/真理を、あなたは認めるだろうか。
つまり、喪失こそが獲得だということ。
喪失しないものは、獲得しないということ。
獲得したものは、失わなければならないということ。
でなければ、死んでしまうということ。
獲得しないということは、諦めたということ。
諦めたということは、死んだということ。
有益な諦めもあるということと、諦めたという事実は逃亡を意味すること。
離脱こそが賢明というのは、もはや人間的ではないこと。
人間でないことの有益もあるということは、もはや無言にならざるを得ないこと。
無言こそ、幸せだということ。
無言の時間を過ごす、ということ。
そんなときに、このまま死ねれば幸せなのにと思うこと。
死を想ったとき、人は死ぬということ。
そして、僕は生きたいと思うこと。
そう願い
また生きること
そしてまた発言していくこと
そうやって時間が積み重なっていくこと
そんなことが、1/10000秒の間に10000回、僕を過ぎて逝くということ。
経済学の幻想に惹かれて。
最大限の利益を思考し、志向する合理的主体、人間。
そんな世界観の出発から、もうこの学問は終わってしまっています。
それが何らかの妥当性を証明しているとしたら、それこそ神の見えざる手の一例に偶然触れたというそれだけです。
でも、だからこそ、経済学は気持ちいい。
ええ、エクスタシーを感じます。
法学が、最後の最後で歯切れが悪いのに対し、
経済学は、最初の戸惑いにさえ目をつむれば、最後まで酔わせてくれます。
人文学の中で、もっとも科学的なもの、経済学。
社会学は、そうですね、確かにセックス・アピールは強いけれど、学説が多すぎます。
経済学はスーパー理論です。
何でも説明出来る。
ま、文学的には破綻してますからね。
当然だわな。
そんな世界観の出発から、もうこの学問は終わってしまっています。
それが何らかの妥当性を証明しているとしたら、それこそ神の見えざる手の一例に偶然触れたというそれだけです。
でも、だからこそ、経済学は気持ちいい。
ええ、エクスタシーを感じます。
法学が、最後の最後で歯切れが悪いのに対し、
経済学は、最初の戸惑いにさえ目をつむれば、最後まで酔わせてくれます。
人文学の中で、もっとも科学的なもの、経済学。
社会学は、そうですね、確かにセックス・アピールは強いけれど、学説が多すぎます。
経済学はスーパー理論です。
何でも説明出来る。
ま、文学的には破綻してますからね。
当然だわな。
詩編 他4編
恋愛関係の審査基準を、経済合理性で考えては何故いけないのでしょうか?
全ての物事は、「いくら払えるか」という問題、つまりコストとリターンのバランスシートですね。
心理的なものは、現象の世界に還元して、それからフィードバックすれば、精神の現象的解決が図れるものです。
むしゃくしゃしてたら、買い物したいでしょう? え、それも結局解決にはならないって? それは、あなたが馬鹿だからですよ、下手なんですよ。それは可能性の問題です、不可能性の話ではありませんね。
そうすると恋愛は、もちろん所得とのバランスはあるでしょうが、そうですね一般的には、往復の移動手段の代金に、各人の能力と「雰囲気」に見合った食事の代金、これをAとしましょう。それを、誰か他の異性への一回のデートの代金(これがBです)と比較して、その5倍を下回れば、それが最低温度でしょうね。
つまり、A×1/5=B。
これが恋愛の最低温度、でしょう。
仮説の検証は、統計を待ちましょう。急いではいけません。
何?「恋人」といるのは、他の誰かといるのとは絶対的に違う、別の価値があるって?
だからそれはラベリングの問題でしょう。個人の話じゃない。恋人っていう存在のことでしょう。そんなの、もっと失礼じゃないか。
その彼/彼女は、恋人なんだから、お金をかけなきゃダメですよ、他より。
その彼/彼女にそれが出来ないなら、別の彼/彼女を探さないと。
それ以外は、言い訳ですよ。
恋の賞味期限テストは、ようは値崩れの問題ですよ。
0 はないんです。
下がるところまで下がったら、廃棄なんです。
ほら、わかりやすい。みんな、よかったね、賢くなった。
泣いてるのは、君だけだよ。
全ての物事は、「いくら払えるか」という問題、つまりコストとリターンのバランスシートですね。
心理的なものは、現象の世界に還元して、それからフィードバックすれば、精神の現象的解決が図れるものです。
むしゃくしゃしてたら、買い物したいでしょう? え、それも結局解決にはならないって? それは、あなたが馬鹿だからですよ、下手なんですよ。それは可能性の問題です、不可能性の話ではありませんね。
そうすると恋愛は、もちろん所得とのバランスはあるでしょうが、そうですね一般的には、往復の移動手段の代金に、各人の能力と「雰囲気」に見合った食事の代金、これをAとしましょう。それを、誰か他の異性への一回のデートの代金(これがBです)と比較して、その5倍を下回れば、それが最低温度でしょうね。
つまり、A×1/5=B。
これが恋愛の最低温度、でしょう。
仮説の検証は、統計を待ちましょう。急いではいけません。
何?「恋人」といるのは、他の誰かといるのとは絶対的に違う、別の価値があるって?
だからそれはラベリングの問題でしょう。個人の話じゃない。恋人っていう存在のことでしょう。そんなの、もっと失礼じゃないか。
その彼/彼女は、恋人なんだから、お金をかけなきゃダメですよ、他より。
その彼/彼女にそれが出来ないなら、別の彼/彼女を探さないと。
それ以外は、言い訳ですよ。
恋の賞味期限テストは、ようは値崩れの問題ですよ。
0 はないんです。
下がるところまで下がったら、廃棄なんです。
ほら、わかりやすい。みんな、よかったね、賢くなった。
泣いてるのは、君だけだよ。
2008年12月9日火曜日
factotum.11
「明日は今日と違うだろうか、昨日と今日が違うかったように。」
冬の気怠い日差しの中、この後の時間をふらふらと過ごすであろう場所に自分を運ぶバスを待つ間、ノブユキはそんなジョークを呟いた。
「ジョーク、ジョーク」
列は長くなかったが、それと並行に延びている広い車道の向こう、彼の背中の向こうから、ゆっくりとバスが来た。
彼は顔だけを振り向けた。バスが、向かって来た。
今みたいな間、つまりある日のある時間の5分ほどの場面を、何かとてもメランコリックで、それでいて洒脱で、虚空に放つ大声なメッセージ、空虚感/満足感、そんなもので切り取ってしまうことが彼にはままあった。
窓の外を、世界が流れていく。後ろへ。ちょっと高いところからそれを見ている。じっと、ぼんやりと。
そして上の4つの読点のパッケージを、もうちょっと高いところにあるカメラから彼は見ている。
「斜め上から見た、斜め下を眺める自分」
彼はいちいちそういうことに目くじらを立てなくなった。
おそらく飽きたのだろう。
「明日は今日と違うだろうか、昨日と今日が違うかったように。」
気に入っていた。
可笑しかった。
だって、主語が変だ。
「僕の今日って、何だ?」
声を出して、笑ってしまった。ケホケホ、ムセタ。
そして彼がそれを自分の前に据え付けられたカメラで見ていたのは、もちろん言うまでもない。
冬の気怠い日差しの中、この後の時間をふらふらと過ごすであろう場所に自分を運ぶバスを待つ間、ノブユキはそんなジョークを呟いた。
「ジョーク、ジョーク」
列は長くなかったが、それと並行に延びている広い車道の向こう、彼の背中の向こうから、ゆっくりとバスが来た。
彼は顔だけを振り向けた。バスが、向かって来た。
今みたいな間、つまりある日のある時間の5分ほどの場面を、何かとてもメランコリックで、それでいて洒脱で、虚空に放つ大声なメッセージ、空虚感/満足感、そんなもので切り取ってしまうことが彼にはままあった。
窓の外を、世界が流れていく。後ろへ。ちょっと高いところからそれを見ている。じっと、ぼんやりと。
そして上の4つの読点のパッケージを、もうちょっと高いところにあるカメラから彼は見ている。
「斜め上から見た、斜め下を眺める自分」
彼はいちいちそういうことに目くじらを立てなくなった。
おそらく飽きたのだろう。
「明日は今日と違うだろうか、昨日と今日が違うかったように。」
気に入っていた。
可笑しかった。
だって、主語が変だ。
「僕の今日って、何だ?」
声を出して、笑ってしまった。ケホケホ、ムセタ。
そして彼がそれを自分の前に据え付けられたカメラで見ていたのは、もちろん言うまでもない。
2008年12月8日月曜日
factotum.10
他人の肌触り。
粘質な空気、胃が荒れている僕。
今日限りと集められたみんな。
僕は必死で読書しながら、一方でその全員を「チェック」する。
これは詩だろうか、いやいや、それは嘘。
ただの日常。
ただ胃が荒れているだけ。
イレギュラーは、特別なことと同じじゃない。
異物としての僕、ロマンチックな侮蔑。
嘘と欺瞞の優しさ、愛のある風景。
それこそ他人の肌触り。
好きでも嫌いでもない、好きな世界。
気持ちの悪い、天国。
粘質な空気、胃が荒れている僕。
今日限りと集められたみんな。
僕は必死で読書しながら、一方でその全員を「チェック」する。
これは詩だろうか、いやいや、それは嘘。
ただの日常。
ただ胃が荒れているだけ。
イレギュラーは、特別なことと同じじゃない。
異物としての僕、ロマンチックな侮蔑。
嘘と欺瞞の優しさ、愛のある風景。
それこそ他人の肌触り。
好きでも嫌いでもない、好きな世界。
気持ちの悪い、天国。
2008年12月7日日曜日
試論のための草稿
僕にとっての僕は、僕を物語る、というその連続である。
忘却、脚色、事実(と思われるもの)、鏡、期待、その他もろもろの諸観念の統合として、僕は僕を認識し、物語る。
その物語は往々にして物理の世界に支えられている。
物理世界のカテゴライズ、相対化なしには、どうやら自分という個人を見つめることは難しい。
無数の「誰か対自分」というのは何とも生きづらい。
よって僕は物理世界の、どうやらあるらしいカテゴリーの階層を、上に上につなげていくことで世界を認識し、その中で自分を認識する。
これは少しインテリな物言いかもしれない。(という物言いが逆説的に「そうではない人」を想定しているところを暴露し、ここに批判が生まれそうだ)
そして物理世界は、恣意的に作られる。
ここでの物理とは自然法則ではなく、法や制度のことだ。
そうした物理世界の中での、その諸物理の連関の自己帰結化がアイデンティティーであるならば、それこそがナショナリズムである。
よってナショナリズムとは、ただの当然である。
自己の物語に組み込んだものを、誰も積極的に否定しない。
消極的な肯定が絶対に存在するところに、少なくとも僕のナショナリズムはある。
これが近代、脱近代に特徴な現象かどうかはわからない。
全員が基本的には、どんな人にもなれる。
しかし物理――多くの偶然によって積み上げられた制度世界――がそれを制限し、その限界を規定する。
可能性と不可能性の境界が、ネーションであり、
それを規定するのは、また物理である。
忘却、脚色、事実(と思われるもの)、鏡、期待、その他もろもろの諸観念の統合として、僕は僕を認識し、物語る。
その物語は往々にして物理の世界に支えられている。
物理世界のカテゴライズ、相対化なしには、どうやら自分という個人を見つめることは難しい。
無数の「誰か対自分」というのは何とも生きづらい。
よって僕は物理世界の、どうやらあるらしいカテゴリーの階層を、上に上につなげていくことで世界を認識し、その中で自分を認識する。
これは少しインテリな物言いかもしれない。(という物言いが逆説的に「そうではない人」を想定しているところを暴露し、ここに批判が生まれそうだ)
そして物理世界は、恣意的に作られる。
ここでの物理とは自然法則ではなく、法や制度のことだ。
そうした物理世界の中での、その諸物理の連関の自己帰結化がアイデンティティーであるならば、それこそがナショナリズムである。
よってナショナリズムとは、ただの当然である。
自己の物語に組み込んだものを、誰も積極的に否定しない。
消極的な肯定が絶対に存在するところに、少なくとも僕のナショナリズムはある。
これが近代、脱近代に特徴な現象かどうかはわからない。
全員が基本的には、どんな人にもなれる。
しかし物理――多くの偶然によって積み上げられた制度世界――がそれを制限し、その限界を規定する。
可能性と不可能性の境界が、ネーションであり、
それを規定するのは、また物理である。
2008年12月6日土曜日
試論のための試論
タイトル:「グローバリゼーションの時代にあって、なぜなおも我々はナショナリストならざるを得ないのか?」
ナショナリストでない人など、いない。
これはどれだけ否定してもその根源潜在の意識において拒否のできない宿命である。
ここにおいては思想的な意味などない。なぜなら前述したようにそれは宿命であるし、ただのパッケージである。
空っぽな容器、それがナショナリズムである。
しかしナショナルな意識というのは、たとえばマクドナルドを食べたときにそれを感じることなどない。
アメリカを感じる、というのは帝国の言い換えであり、そういった帝国主義がグローバリゼーションである。
それを拒否したいという情動はあり得るが、それはアメリカが嫌いということでしかないのであり、例えば他の民主主義などの普遍主義を拒否するということとは無関係である。
いかなるグローバリズムを否定しても、何らかの真理を信じる限り普遍主義の価値を免れることは不可能である(アンガジェする)。
特殊の自意識は、普遍の波に瀕して初めて現れる。
普遍は同化を意味するものではない。
普遍主義はまず始めに対等を要求する。
その対等の獲得こそがすなわち民族的自立であり、シオニズム社会主義の理想はまさに、世界中の対等な民族自立の世界であった。
ここに普遍主義と特殊主義の不可分性が存在する。しかし、それは何故か?
ネーション(国民国家)とは、権力を得た者たちの暴力によって決定される。
「フランスは危機である!」という号令に同調した者たちによって生まれたフランス政府が、フランスの境界を物理的に策定し、フランスというネーションの萌芽が生まれる。
ネーションは偶然生まれるものでしかない。
なぜなら歴史とは常に、現在者がその現在を構築するために現在的に作るものであるからだ。
ネーション以前にも以降にも、全ての個人のそれぞれ思い描くネーションは一致せず、それは、権威と類似によって純粋さのヒエラルキーを形成する。
境界の民は漸次的に教化される。
ネーションはグラデーションであり、そこを分つのは権力や制度でしかない。
前述したように、人はナショナリズムを逃れられない。
それは生まれた瞬間からのアイデンティティーの獲得は、世界中の人間が繰り返し構築していく中で不可避なものであるからだ。
世界市民を想定し、世界市民権を考えたとしても、それがいくつかのコミュニティーに分化されることは想像するに難しくない。
共同体が生まれる限り、その共同体はアイデンティティーであり、その共同体はネーションとなり得る。
ではナショナリズムはいつ消えるのか?
私は世界市民を否定しない。可能であるだろう。ただ意味があるのかという実証が必要である。
中世において個人は、他者を意識しない存在であった。
中世とは神とそれ以外の静的な世界であり、格差が存在してもそれは問題にならない。
神と自分との世界、それが近代以前である。
しかし近代は理性を頂点とした、ハイエラルキカルな世界である。
No.1のある世界は当然競争を生み、競争の中で他者が意識される。
近代になって、初めて他者が生まれるのだ。
そして競争のための共同体が生まれる。
それが競争としてのナショナリズムである。
その究極が帝国であり、近代は冷戦とともに終結した。
現実の帝国、実体ある国家としての帝国は生まれなかったが、アメリカを中心とするグローバリズムがそれにとって代わった。
あらゆるスタンダードの総体としてのグローバリズムが、帝国的普遍主義の世界を創出した。
ポストモダンとは、全ての価値が相対化された世界である。
その相対主義は、グローバリゼーションの中で、他者とは違う私としてやはり存在する。
始めに紹介した、シオニズム社会主義の夢とは、まさにこのような現状である。
普遍主義という海の、海生生物としての共同体。
どのようなネーション、共同体を想定しても、我々はアイデンティティーという形でそれに参与せざるえないのだ。
さてmixiは、ネーションを打ち破ることが出来るだろうか?
mixiのコミュニティー、もしくは「docomo」なのか「au」なのか、という帰属は、ナショナリズムを解体できるだろうか?
インタネーットは物理的な共同体の呪縛を解体し、世界を勘定不可能なまでにバラバラに、そして一つに統合することを果たすのだろうか。
完璧なコスモポリタニズムはあり得るか?
私は、その結論はわからない。
「完璧な流浪者」というのが存在すれば可能であろう。
しかし流浪者が流浪者であり得るのは、しっかりとした大地(集団)が存在するからである。
すればそれは、、、ぷsy−
ナショナリストでない人など、いない。
これはどれだけ否定してもその根源潜在の意識において拒否のできない宿命である。
ここにおいては思想的な意味などない。なぜなら前述したようにそれは宿命であるし、ただのパッケージである。
空っぽな容器、それがナショナリズムである。
しかしナショナルな意識というのは、たとえばマクドナルドを食べたときにそれを感じることなどない。
アメリカを感じる、というのは帝国の言い換えであり、そういった帝国主義がグローバリゼーションである。
それを拒否したいという情動はあり得るが、それはアメリカが嫌いということでしかないのであり、例えば他の民主主義などの普遍主義を拒否するということとは無関係である。
いかなるグローバリズムを否定しても、何らかの真理を信じる限り普遍主義の価値を免れることは不可能である(アンガジェする)。
特殊の自意識は、普遍の波に瀕して初めて現れる。
普遍は同化を意味するものではない。
普遍主義はまず始めに対等を要求する。
その対等の獲得こそがすなわち民族的自立であり、シオニズム社会主義の理想はまさに、世界中の対等な民族自立の世界であった。
ここに普遍主義と特殊主義の不可分性が存在する。しかし、それは何故か?
ネーション(国民国家)とは、権力を得た者たちの暴力によって決定される。
「フランスは危機である!」という号令に同調した者たちによって生まれたフランス政府が、フランスの境界を物理的に策定し、フランスというネーションの萌芽が生まれる。
ネーションは偶然生まれるものでしかない。
なぜなら歴史とは常に、現在者がその現在を構築するために現在的に作るものであるからだ。
ネーション以前にも以降にも、全ての個人のそれぞれ思い描くネーションは一致せず、それは、権威と類似によって純粋さのヒエラルキーを形成する。
境界の民は漸次的に教化される。
ネーションはグラデーションであり、そこを分つのは権力や制度でしかない。
前述したように、人はナショナリズムを逃れられない。
それは生まれた瞬間からのアイデンティティーの獲得は、世界中の人間が繰り返し構築していく中で不可避なものであるからだ。
世界市民を想定し、世界市民権を考えたとしても、それがいくつかのコミュニティーに分化されることは想像するに難しくない。
共同体が生まれる限り、その共同体はアイデンティティーであり、その共同体はネーションとなり得る。
ではナショナリズムはいつ消えるのか?
私は世界市民を否定しない。可能であるだろう。ただ意味があるのかという実証が必要である。
中世において個人は、他者を意識しない存在であった。
中世とは神とそれ以外の静的な世界であり、格差が存在してもそれは問題にならない。
神と自分との世界、それが近代以前である。
しかし近代は理性を頂点とした、ハイエラルキカルな世界である。
No.1のある世界は当然競争を生み、競争の中で他者が意識される。
近代になって、初めて他者が生まれるのだ。
そして競争のための共同体が生まれる。
それが競争としてのナショナリズムである。
その究極が帝国であり、近代は冷戦とともに終結した。
現実の帝国、実体ある国家としての帝国は生まれなかったが、アメリカを中心とするグローバリズムがそれにとって代わった。
あらゆるスタンダードの総体としてのグローバリズムが、帝国的普遍主義の世界を創出した。
ポストモダンとは、全ての価値が相対化された世界である。
その相対主義は、グローバリゼーションの中で、他者とは違う私としてやはり存在する。
始めに紹介した、シオニズム社会主義の夢とは、まさにこのような現状である。
普遍主義という海の、海生生物としての共同体。
どのようなネーション、共同体を想定しても、我々はアイデンティティーという形でそれに参与せざるえないのだ。
さてmixiは、ネーションを打ち破ることが出来るだろうか?
mixiのコミュニティー、もしくは「docomo」なのか「au」なのか、という帰属は、ナショナリズムを解体できるだろうか?
インタネーットは物理的な共同体の呪縛を解体し、世界を勘定不可能なまでにバラバラに、そして一つに統合することを果たすのだろうか。
完璧なコスモポリタニズムはあり得るか?
私は、その結論はわからない。
「完璧な流浪者」というのが存在すれば可能であろう。
しかし流浪者が流浪者であり得るのは、しっかりとした大地(集団)が存在するからである。
すればそれは、、、ぷsy−
2008年12月2日火曜日
factotum.9
ドラマ とタイプしたつもりが、何故か 空間 と打たれていた。
ここに何か世界の条理を感じ 物語ること出来れば 僕はあの作家のようになれるかもしれない
ドラマ です
無類のドラマ好きである僕は 同時に ドラマへの没入をことごとく憎みます。
ドラマは、人を停止させます。
でも何故か自身が止揚していると思われる不思議ですが、それは世間一般と同じ、つまり人が人として成長するというただそれと同じ歩幅、速度の成長であり、決して自分の努力ではないのです。
しかし今言ったように、どうあれ人はドラマを生きます。
そうでなければやってられません。
ドラマとはすなわち自意識であります。
自意識とは全ての豊穣の原因であり、彼が自身を更なるところへジャンプさせようとする原動力です。
では何故 ドラマはいけない のでしょうか?
つまりはですね、
ドラマとは他人に見せてはいけないのです。
ひたすら自分で自分のドラマを生きるのです。
ドラマはあしが早く、人の目に触れるほど、その輝きと価値を失ってしまいます。
ドラマへの過剰な自意識は彼に芸術を与えますが、その芸術がひけらかされた、しかも無意識な内にですね、つまらない、小出しな状態で、未完成に露出されたとき、それは醜い自慰となります。
自慰色の強いドラマ。
それは多いに結構です、むしろ健康であります。
ただやはり、人に見せてはいけないのです。
そんなことをしている限り、あなたは一生イケません。
いけてないやつによる いけてないやつの いけてないやつのための ドラマ語りは
憎むべきであり憤慨すべきでありぶち殺したくなるものであり
そういった狂気をここでひけらかせている自分もやはりぶち殺したいのです。
ではいかに人は生きるのでしょうか。
私は結果論であると今でも信じていますが、
その結果はつまりはこうした背景に裏付けられて然るべきものでしょう。
誠実 を この世への最終的な担保として宣言した僕は
慎み を 一切の裏打ちとして今 思案しているところであります
ここに何か世界の条理を感じ 物語ること出来れば 僕はあの作家のようになれるかもしれない
ドラマ です
無類のドラマ好きである僕は 同時に ドラマへの没入をことごとく憎みます。
ドラマは、人を停止させます。
でも何故か自身が止揚していると思われる不思議ですが、それは世間一般と同じ、つまり人が人として成長するというただそれと同じ歩幅、速度の成長であり、決して自分の努力ではないのです。
しかし今言ったように、どうあれ人はドラマを生きます。
そうでなければやってられません。
ドラマとはすなわち自意識であります。
自意識とは全ての豊穣の原因であり、彼が自身を更なるところへジャンプさせようとする原動力です。
では何故 ドラマはいけない のでしょうか?
つまりはですね、
ドラマとは他人に見せてはいけないのです。
ひたすら自分で自分のドラマを生きるのです。
ドラマはあしが早く、人の目に触れるほど、その輝きと価値を失ってしまいます。
ドラマへの過剰な自意識は彼に芸術を与えますが、その芸術がひけらかされた、しかも無意識な内にですね、つまらない、小出しな状態で、未完成に露出されたとき、それは醜い自慰となります。
自慰色の強いドラマ。
それは多いに結構です、むしろ健康であります。
ただやはり、人に見せてはいけないのです。
そんなことをしている限り、あなたは一生イケません。
いけてないやつによる いけてないやつの いけてないやつのための ドラマ語りは
憎むべきであり憤慨すべきでありぶち殺したくなるものであり
そういった狂気をここでひけらかせている自分もやはりぶち殺したいのです。
ではいかに人は生きるのでしょうか。
私は結果論であると今でも信じていますが、
その結果はつまりはこうした背景に裏付けられて然るべきものでしょう。
誠実 を この世への最終的な担保として宣言した僕は
慎み を 一切の裏打ちとして今 思案しているところであります
登録:
投稿 (Atom)

