2008年12月6日土曜日

試論のための試論

タイトル:「グローバリゼーションの時代にあって、なぜなおも我々はナショナリストならざるを得ないのか?」

ナショナリストでない人など、いない。
これはどれだけ否定してもその根源潜在の意識において拒否のできない宿命である。
ここにおいては思想的な意味などない。なぜなら前述したようにそれは宿命であるし、ただのパッケージである。
空っぽな容器、それがナショナリズムである。

しかしナショナルな意識というのは、たとえばマクドナルドを食べたときにそれを感じることなどない。
アメリカを感じる、というのは帝国の言い換えであり、そういった帝国主義がグローバリゼーションである。
それを拒否したいという情動はあり得るが、それはアメリカが嫌いということでしかないのであり、例えば他の民主主義などの普遍主義を拒否するということとは無関係である。
いかなるグローバリズムを否定しても、何らかの真理を信じる限り普遍主義の価値を免れることは不可能である(アンガジェする)。

特殊の自意識は、普遍の波に瀕して初めて現れる。
普遍は同化を意味するものではない。
普遍主義はまず始めに対等を要求する。
その対等の獲得こそがすなわち民族的自立であり、シオニズム社会主義の理想はまさに、世界中の対等な民族自立の世界であった。

ここに普遍主義と特殊主義の不可分性が存在する。しかし、それは何故か?

ネーション(国民国家)とは、権力を得た者たちの暴力によって決定される。
「フランスは危機である!」という号令に同調した者たちによって生まれたフランス政府が、フランスの境界を物理的に策定し、フランスというネーションの萌芽が生まれる。
ネーションは偶然生まれるものでしかない。
なぜなら歴史とは常に、現在者がその現在を構築するために現在的に作るものであるからだ。
ネーション以前にも以降にも、全ての個人のそれぞれ思い描くネーションは一致せず、それは、権威と類似によって純粋さのヒエラルキーを形成する。
境界の民は漸次的に教化される。
ネーションはグラデーションであり、そこを分つのは権力や制度でしかない。

前述したように、人はナショナリズムを逃れられない。
それは生まれた瞬間からのアイデンティティーの獲得は、世界中の人間が繰り返し構築していく中で不可避なものであるからだ。
世界市民を想定し、世界市民権を考えたとしても、それがいくつかのコミュニティーに分化されることは想像するに難しくない。
共同体が生まれる限り、その共同体はアイデンティティーであり、その共同体はネーションとなり得る。

ではナショナリズムはいつ消えるのか?

私は世界市民を否定しない。可能であるだろう。ただ意味があるのかという実証が必要である。

中世において個人は、他者を意識しない存在であった。
中世とは神とそれ以外の静的な世界であり、格差が存在してもそれは問題にならない。
神と自分との世界、それが近代以前である。

しかし近代は理性を頂点とした、ハイエラルキカルな世界である。
No.1のある世界は当然競争を生み、競争の中で他者が意識される。
近代になって、初めて他者が生まれるのだ。
そして競争のための共同体が生まれる。
それが競争としてのナショナリズムである。
その究極が帝国であり、近代は冷戦とともに終結した。

現実の帝国、実体ある国家としての帝国は生まれなかったが、アメリカを中心とするグローバリズムがそれにとって代わった。
あらゆるスタンダードの総体としてのグローバリズムが、帝国的普遍主義の世界を創出した。

ポストモダンとは、全ての価値が相対化された世界である。
その相対主義は、グローバリゼーションの中で、他者とは違う私としてやはり存在する。
始めに紹介した、シオニズム社会主義の夢とは、まさにこのような現状である。
普遍主義という海の、海生生物としての共同体。
どのようなネーション、共同体を想定しても、我々はアイデンティティーという形でそれに参与せざるえないのだ。

さてmixiは、ネーションを打ち破ることが出来るだろうか?

mixiのコミュニティー、もしくは「docomo」なのか「au」なのか、という帰属は、ナショナリズムを解体できるだろうか?

インタネーットは物理的な共同体の呪縛を解体し、世界を勘定不可能なまでにバラバラに、そして一つに統合することを果たすのだろうか。

完璧なコスモポリタニズムはあり得るか?

私は、その結論はわからない。

「完璧な流浪者」というのが存在すれば可能であろう。

しかし流浪者が流浪者であり得るのは、しっかりとした大地(集団)が存在するからである。

すればそれは、、、ぷsy−    

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