大正3年の講演会にて。
「こういうところに上がって、何かを話すというのは大変気遣いのいることで、私はその度に胃がチクチクとなるので、何やらかやらとこういうお話やご依頼はお断りしているのですが、どうにもこの○○さんのお話は袖にすることも適いませんでしたので、少しばかりのお話と、最近思案していることを述べさせていただきます」
「思う」とはこれすなわち、現在形の動詞であり、なかなか未来に開かれた、そういう能動的な所作であります。
これに対し「想う」とは、えぇそうです、相手に下心がつくやつですね、この組み合わせがいけません。どうしてもイヤらしいものであります。
大抵こういうものは、各々の過去でありますとか、誰か佳人でありますとか、ただぼんやりと何か外の対象を、ただぼんやりと頭に想い描くだけというものなのです。
いえいえ確かに、そうですねおっしゃる通り、大方の芸術や文学はそういうところから生まれます。えぇ、恋ですね。美を思い、時間を慕うことで、そういった物語を夢想すること、それが芸術家の本質であり、それを自己の美を求める欲求ただそれのみから表現すること、それが芸術家の本分であります。
お前は何を言いたいのかと糾弾されますと、それまでのことなのです。
つまり、想うことは、馬鹿げたことであるのです。
本当に何かを想いたければ、別のことを思わなければなりません。
能動的で、未来に開かれた、行動可能なことを考えなければ、
それは人間活力の停止であり、自身の現在の否定にも似た振る舞いであります。
これはいささかの誇張であり、これもまたこの話の本領ではありません。
問題は、こういった想うことしかできない状況に自らが在るとき、我々はどのようにそれを生きるのかということです。
叫ぶこともむなしく、立ち向かうことも侘しい。
故にやはりそれは、どうにかしてでも自己の問題として、自分をどうにかすることに向かわなければなりません。
想うことの大体の由来は、自分の不在です。
強迫観念のように自分を思うこと。
それが人間存在の圧力であります。
ご清聴、ありがとう。
「 。。。。。。。。。ぱちぱち」
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