僕にとっての僕は、僕を物語る、というその連続である。
忘却、脚色、事実(と思われるもの)、鏡、期待、その他もろもろの諸観念の統合として、僕は僕を認識し、物語る。
その物語は往々にして物理の世界に支えられている。
物理世界のカテゴライズ、相対化なしには、どうやら自分という個人を見つめることは難しい。
無数の「誰か対自分」というのは何とも生きづらい。
よって僕は物理世界の、どうやらあるらしいカテゴリーの階層を、上に上につなげていくことで世界を認識し、その中で自分を認識する。
これは少しインテリな物言いかもしれない。(という物言いが逆説的に「そうではない人」を想定しているところを暴露し、ここに批判が生まれそうだ)
そして物理世界は、恣意的に作られる。
ここでの物理とは自然法則ではなく、法や制度のことだ。
そうした物理世界の中での、その諸物理の連関の自己帰結化がアイデンティティーであるならば、それこそがナショナリズムである。
よってナショナリズムとは、ただの当然である。
自己の物語に組み込んだものを、誰も積極的に否定しない。
消極的な肯定が絶対に存在するところに、少なくとも僕のナショナリズムはある。
これが近代、脱近代に特徴な現象かどうかはわからない。
全員が基本的には、どんな人にもなれる。
しかし物理――多くの偶然によって積み上げられた制度世界――がそれを制限し、その限界を規定する。
可能性と不可能性の境界が、ネーションであり、
それを規定するのは、また物理である。
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