2008年12月27日土曜日

クリスマスを巡る、複数の電気コミュニケーション

私の演繹的な法則では、

二つの状態が、全く等価にそして同時に存在するということは不可能なのですが、

しかし私の経験則は、

そういうことをやってのける、またそれに呪われている、そしてそれを愛している、

そういうことが出来ることを、僕に教えます。

シュレーディンガーの猫において、猫の生存は全くどうでもいいことですが、

その状態が成立することは実証されていて、

しかし彼女はその未決定を、何らかの決定がなされた状態に観測されうるように、振る舞うのです。

しかしそれもある種の振る舞いですから、

「本当の」というところには永遠に届きません。


そういえば別のある人は私に、

「決定が好きなところが、恐い」

と言いました。

決定を愛する、信じる、私。

決定を振る舞う、誰か。


今日はあまりにも散文であり、

何も客観性についての高尚な形而上学的討論ではありません。

ただ私は、

熱狂という記述でもって、人間の未決定な状態を観測できるのだと、

背理する彼の彼自身から、目の前に現前する彼まで

記述可能かもしれないと、信じます。

熱情では、足りません。

なぜなら、そのことに対するその人は、もっとそのことに囚われているからです。

その彼女と違う彼女の中の彼女は、冷静かもしれませんが、

その熱を帯びた彼は、完全に"crazy about"ですから。

あらゆる人々の信念は、

それ以外の他人から見れば、それは狂気でしかありません。

どうやってそれを肯定的に考えるのかという命題に、

私は熱狂を設定し、その熱狂には十分に冷静な彼を認めることで、

応えようと思います。


非常に散漫で冗長な、文章です。

僕の誠実命題は、本来こういったものを退けますが、

慎み命題の思案と、その二つの命題のパラドックスが成立する世界の記述の仕方として、

「熱狂に向かう存在」としての人間を、そういった人間記述のヒューマニズムを、

模索しているところです。    

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