2010年2月26日金曜日

悲しいミカタ。

氷上を踊る少女たちの美しさを、見ている。

純粋な美しさの鑑賞は、しかしあらゆる先入観によって拡散される。

多くの人間が見ていたのは、その順位であり競争であり、ドラマであった。
多くの人間は彼女たちと直接には結びつかずに、彼女らの評価者のペン先、競技者たちの人生を見つめながら、彼女たちをドラマのヒロインとして賞賛し、そのドラマに感動する。

彼女は競技者であり少女であり国家であり、何より私たちであった。
彼女はすべての人々によって分析され解析され、バラバラにされたのだった。
バラバラにされた彼女はあらゆるものと関係づけられ、あらゆる消費を可能にされた全能的な象徴となった。

すべてはあらゆるものに貼付けられるテクストとして、強制的にその存在の可能性を広げられる。
存在のあまりに悲しい不可避の悲しさが、その日、彼女をドラマにし、私たちがそこにドラマを見たのだった。

彼女が純粋に美しかった4分間に、すべての感動を捧げたい。    

2010年2月25日木曜日

始まりは一行からの。

透明なプラスチックで出来たピンクブルーグリーンが並ぶ雑貨を前にして、家に帰って、どこかのシャンプーやトリートメントのボトルを少しだけ特別な自分だけのオシャレに換えてみる。

それだけで毎日が爽やかに楽しかったときもあった。

<あった>というのは現在の心の底からネガティビティーが湧きあがって生まれた言葉ではなく、そういうときがある可能性が一つの過去によって証明されているということだ。

このページの主人公は不在であって、そんなこともおそらく世界のどこかには、このような経験が確かにあるだろうという可能性が綴られている。

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世界の全部を、自分に引きつけてしまうのは、自分が可愛いから。

世界の中心から、世界に向かって、自分が関与していたいと、世界は最初から自分のものだとわかっていながら、その不安を懸命に紛らわそうと、自分の苦しみを作り出して、そして泣きたいと、カタルシスしたいと、そういう自分の浄化作用。

そういう人を、ボクは可愛いと、思う。    

2010年2月23日火曜日

文学雑感。

物語を読んでいると、その設定や描写の細かさに驚く。
「読む」という行為の充実が「共感」にあるとすれば、具体性がそれを高めるのだろうか。
もっと抽象的なイメージに、人はみずみずしい想像や爽快感を得ないのだろうか。

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「共感」が文学の重要な内実だとすれば、それと共存する形で、もしくは全く別種のものとして、「発見」の文学が、「驚嘆」の文学があるだろう。    

2010年2月22日月曜日

「犠牲者は自分」の向こうがわ。

「可哀想なワタシ」の向こうがわには、「自分の犠牲者は自分」という悟りが待っている。

誰の言葉も聞かず、守るべきものを作らず、それが強さだと考えて、しかしそれがもしかすると人間的な弱さだと、社会的動物としての弱さだとすると思い出すと、彼は世界を浮遊してしまう。

「だから、選択しなきゃいけないんだよ。メシは食わなきゃいけないんだ。迷ってる時間なんて、ありゃしないんだよ」

現代人(今の若者)の人生の行動は、近代人(年配)の大文字の台詞の前に、ただただ頭が上がらない。

近代人の台詞は、何の嘘もなく、古代からの人類の本質だ。

しかし現代には時間が溢れている。フードもファッションも、ブームもモードも、すべてはバラバラに並べられ並列化されて同時進行し、組み合わされ、有形無形の様々なグニャグニャが極彩色の色彩で目まぐるしく展開していく。

ハイエラルキカルな世界はただ幻想として残り、その内実は、すべてがありナニモナイ、永遠の時間の世界だ。

「紐帯の強さなんてうんざりだ。そんなうんざりに縛られて、自分のエゴを隠して利用して、他人をセルフィッシュに扱う方が、全く非人間的だよ」

ダニエル君の主張はいつも語気が強い。

つまり彼はコムデギャルソンのシャツを来て、居酒屋でハイボール、湯豆腐、串カツ、焼酎お湯割りを並べる。

それを見た近代人に不思議な目で見られること、そこから現代人の近代に対する父親殺しに挑むのだ。    

2010年2月19日金曜日

絶望する人間、という希望。

「疲れた顔をしている。最近は何か悩みごとでもあるのか。」

「弱い人間がボクをあまりに疲れさせるんだ。(あなたみたいなね)。」

徹底的に冷たい人間になることが、ダニエル君の暫定的な希望となった。人間はその人間の環境の変化に適応しながら彼自身を変化させていく、それは実に自然で巧妙に操作され成されていく本能的所作だが、彼が昔にロシアの作家から学んだ唯一のテーマ、初めてそれに出会ったときから彼はいつもこういうことを想う。ある種の現実を見ると想い描く。

ただ彼が恐ろしいのは、それがまさか自分自身に発見されるとは思いもしてなかった、その瞬間の到来だった。

「本当に、冬が寒い。寒いな」    

2010年2月17日水曜日

ロマン主義、雑感。

芸術について、とりわけ絵画や彫刻などの視覚芸術の領域においてのロマン主義なる定義は、その範囲の確定が難しい。

古典主義の代表者であるゲーテの中に多分にロマン主義の嚆矢となる要素が見られるように、またあまりに儀礼的な場面、様式美の粋を凝らした構図にその画力を注いだダヴィドの絵画が、それと同時に彼の政治的な主張、革命に対する夢想を語るように、作家性の発露こそがロマン主義の本質であるように思われる。

「芸術史とは、芸術の歴史であって、芸術家の歴史ではなかった」と語られるように、芸術作品において、作家というものはその技巧の高さ以外を問われることはなかった。作品の中にその作家性を見ることは後代の歴史家や研究家によって初めてなされたことで、ロマン主義以前の主流な芸術の中に、主流な芸術の価値観にと言い換えてもいいが、社会が求めた芸術とはプロパガンダであり社会的紐帯の強化以上のものではなかったと言えるだろう。

もっとも芸術の社会的役割はそれ以降も変わらないが、その役割を演じる中で、芸術家というものが為政者の宣伝家以上に、彼自身が革命家となったその現象が、ロマン主義の意義である。

ロマン主義とは回顧的であり古典的でもあり、またターナーのように後の印象派に連なる未来性も持つような定義の困難な言葉だが、作家が絵画の中で、それまでの時代と比べて格段に彼の言葉を語り始めたというところに、つまりは革命への憧れが、彼自身を革命家に変えたところにその歴史的な定義が下される。

ロマン主義とは革命家のロマンチズムであり、革命の可能性への夢想こそが芸術家をロマン主義者にするのだろう。

ロマン主義とは、作家の誕生であり、近代芸術の過渡期、その出発であった。    

2010年2月13日土曜日

一切の不幸

人間関係の一切の不幸は、彼ら彼女らの善意と無知の交叉にある。

あるいはそれは優しさと愚かさに満ちていると言い換えてもいい。

人は自分自身が驚くほどにエゴイスティックで偽善的であることを、意外と驚くほどに知らない。

そしてそんな自分に気づいたとき、彼彼女はこれもまた驚くほどに功名な言い訳を生むのだ。

人間、このあまりに利己的な存在よ。

この格率を認めない人間ほどに、上述のエゴと偽善のループを際限なく膨らませるのである。

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こういうことが文学の範疇である。

このような私の感覚を、抽象的な思弁で語っても、それはいとも平易な文章に回収されてしまい、論理的であろうとしてもそれは散漫な文章となる。

このような命題の証明は、ある種のフィクションで描かれるべきである。

それはそれを哲学的に語ることが、あまりにくだらないからである。    

2010年2月9日火曜日

個人的美学論試論

我々にとって美とは何かという問いについてのこの個人的な論考の出発は、まず現代において様々な諸価値がどのように扱われるべきかという前提をしっかりと踏まえたところから始まる。

それは社会的な装置としての宗教とは異なる絶対的な神話上の神が死に、そして人類によって人間性というまたもう一つの神話が殺された現代には、価値観の序列というものはないということである。

あらゆる価値は相対的であり、全ての価値観は並列的に取り扱われる。

ヒトはただこの世界に不意に産み落とされ、自身の考える人として自分の人生を生き、めいめいがそれぞれの人間性の物語を紡いでいくのだ。

そして先天的に与えられる確定した人間性などないならば、やはりそこには先天的に確定された美しさというものもない。

美しくない芸術という宣言は、全ての芸術は美しいということの換言であった。

つまり今日の美学の問題は、美しいという言葉自体にあるのではない。

美しい技術としての芸術の時代が去り、趣味の世紀を経て、もはや趣味の優劣を論じることも困難な時代にあって、芸術とはそもそも何であるのかという原始的課題が現代ではまさに問題となっているのだ。

私はこの問題の解決を考えていくにあたって、本稿では結論を記しておきたい。


すべての意志的な行為は、芸術である。
それでは、意志的でない行為とは、何なのか。そんなものが存在するのか。
意志の境界とはどこにあるのか。それは心理学なのか。

私はこの命題を、もちろん旧来の美学論の問題、趣味の優劣の社会学的な形成過程、伝統的な批評判断の手法とともに考えたいのだ。


なぜ、美が問題なのか。

それはすべての意志的な行為が芸術であるならば、世の中の一切は美しいかどうかということ以外にその存在理由を失うからだ。

哲学として唯美主義、それが私の関心である。