我々にとって美とは何かという問いについてのこの個人的な論考の出発は、まず現代において様々な諸価値がどのように扱われるべきかという前提をしっかりと踏まえたところから始まる。
それは社会的な装置としての宗教とは異なる絶対的な神話上の神が死に、そして人類によって人間性というまたもう一つの神話が殺された現代には、価値観の序列というものはないということである。
あらゆる価値は相対的であり、全ての価値観は並列的に取り扱われる。
ヒトはただこの世界に不意に産み落とされ、自身の考える人として自分の人生を生き、めいめいがそれぞれの人間性の物語を紡いでいくのだ。
そして先天的に与えられる確定した人間性などないならば、やはりそこには先天的に確定された美しさというものもない。
美しくない芸術という宣言は、全ての芸術は美しいということの換言であった。
つまり今日の美学の問題は、美しいという言葉自体にあるのではない。
美しい技術としての芸術の時代が去り、趣味の世紀を経て、もはや趣味の優劣を論じることも困難な時代にあって、芸術とはそもそも何であるのかという原始的課題が現代ではまさに問題となっているのだ。
私はこの問題の解決を考えていくにあたって、本稿では結論を記しておきたい。
すべての意志的な行為は、芸術である。
それでは、意志的でない行為とは、何なのか。そんなものが存在するのか。
意志の境界とはどこにあるのか。それは心理学なのか。
私はこの命題を、もちろん旧来の美学論の問題、趣味の優劣の社会学的な形成過程、伝統的な批評判断の手法とともに考えたいのだ。
なぜ、美が問題なのか。
それはすべての意志的な行為が芸術であるならば、世の中の一切は美しいかどうかということ以外にその存在理由を失うからだ。
哲学として唯美主義、それが私の関心である。
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