
「国家の品格」
(本文の後記を最初に述べるが、以下に書かれた私の感想は、全く論理性に乏しいものである。最後にはただの直情的で品格のない感想をを述べる、という無様な結果に終わってしまった。これから読まれる方には前もってそれを詫び、読まれた方には改めて謝罪をしておく)
著者の主張によれば、大事なのは論理ではなく情緒や感性であるらしい。
よって、私も自身の情緒と感性と直感にもとづいて、読書開始早々に本書を壁に投げつけた。
投げつけたままなので、読むことができない。残念だが、残念以上にその方が有益だ。
本書を批判する言葉はいくらでもある。
しかし、本書のような愚本相手には、それら種々の批判を自分の言葉で列挙する作業すらやる気が起きない。
Amazonで買う必要など全くないので、タイトルのリンク先を別のものにしたが、本書の書評をもう一例だけ紹介して、本書を巡るパブリックな意見についての言及を終えたい。
著者は、論理至上主義を否定し、そして情緒を大事にすることがなぜ重要かを、わかりやすく論理的に証明してくれる。
そんなに説明してくれなくても、情緒で十分なら一言「情緒が大事」と言ってくれれば十分である。
著者の啓蒙主義的姿勢には頭が下がる。
ただ、やはり著者は論理などに価値を置いていないのか、本書の文章の論理は悉く破綻している。
「市場原理主義の前提は、「まずは公平に戦いましょう」です。公平に戦って、勝ったものが利益を全部とる。....こういう論理です。....しかしこの論理は....「武士道精神」によれば「卑怯」に抵触します。大きい者が小さい者と戦いやっつけることは卑怯である。強い者が弱い者をやっつけることは卑怯である。武士道精神はそう教えています。」
大きい者が小さい者と戦うことも強い者が弱い者を戦うことも、全く公平な戦いではない。まずは公平に戦ってないのだから、それは本当にとても卑怯である。
もしかすると著者は、市場原理主義の言う「市場」というものが全く公平なものとして定義されている、と考えているのかもしれない。
しかし市場というのは公平でも何でもない、ただの場所である。ただ交換が行われる場所であるに過ぎない。
よって、競争する者の出発点が同等でなければ、それはもちろん公平ではない。
市場原理主義を批判したいならば、「まず最初から公平に戦えない」と言うべきだろう。
公平でない市場が、公平でないのは当たり前である。自己言及は論理的に常に正しい。
なるほど、もしかすると著者は、市場で戦った結果が公平でないことを「卑怯」だと評しているのかもしれない。
しかも先の「最初から公平に戦えない」という市場原理の欠陥をちゃんと念頭においているのだ。だからこそ「ケインズは、国家が公共投資などで需要を作り出すことの重要性を指摘したのです」などと紹介するのだろう。
しかし同時に著者は、共産主義を「美しすぎて目眩いをおこしそうな論理」と批判する。
彼は結果の平等を完璧に遂行しようというきわめて道徳的な理想を、美し過ぎると侮蔑する。
著者がどういう国家を理想とするのか、この時点で私には、彼の論理的説明をもってしても全く理解できないが、最後に著者は、品格ある国家の指標を「高い道徳」に求める。
国家は善なるものを知っており、何が経済を復興させるかをよく知っているという前提に立つ論理を賞賛しながら、国家が善なるものを知っており、国家が管理すれば永遠の経済発展が望めるという論理を罵倒する。
そして最後には国家に哲人的な道徳を求める。
もう頭が混乱してあまり考えられないが、どうやら著者が結果の平等などを求めていないということだけはわかる。
では彼はどういう論理で、市場原理主義を批判しているのだろうか。
それは、「アメリカが悪で、日本は善である」という論理である。
もういい加減疲れたので嫌みも止めるが、彼は論理を否定して数学を大事だと言い、アインシュタインを評価しないで、ラマヌジャンを褒めちぎる。
いや、もうやめよう。
論理的に書かれていないものを論理的に批評しようとすれば、それは全て書き直すしかない。
著者は「アメリカが嫌いで、日本が好き」と言いたいだけなのだから、そこには始めから論理などないのだ。
日本は世界で一番素晴らしい国だということは、情緒的に明らかなので、論理では証明できないのだろう。
ここまでの私の批判もおそらく論理的でなく、文章として醜い。なるほど著者が言うように「論理や理性には限界がある」らしい。――それでハイエクを否定するのだからもう訳が分からない。
なので、情緒のみで感想を。
あぁ、なるほど。
品格ある国家とは、ナチスのことを言うのか。
0 件のコメント:
コメントを投稿