2009年4月16日木曜日

factotum.36

人間だけが、歴史の記憶に触れられる。


交差点でふと立ち止まり、東から西へ南から北へ延びていく幅の広い道路を眺めて、そう感じたことはないか。


地球というなんとなく知っているだけの巨大な球体のイメージに、人間の交路はぐるぐると巻き付けられ、検討のつかないほどの建物が隙間なく突き刺さっている。


相対的にはちっぽけで、絶対的には気の遠くなるような時間がかけられ、今日自分が買い物をしたスーパーマーケットは出来たのであり、今日ここにいる無数の人々の、それら人々の無数の行き着く先々が用意されたのだ。


人間だけが、任意の現在に立ちながら、任意の過去に触れられる。


「先進国の傲慢。人間の傲慢」


生物にとって記憶とは、"なくなったもの"と同義だ。


現在の喪失感は過去を照らし、記憶は影のように蘇り

過去からの記憶の光によって、私たちは現在の影を意識する


実体のないもの、触れられないもの。


それが記憶だ。


ただ人間だけが、記憶を記録し始めた。


なくなったものを、"あったもの"として保存することを可能にした。


だから、だろうか。


なくなったものが、本当になくなってしまったことを

それが本当に"あったもの"としてはっきりと見せられたとき


抵抗できない悲しみが、こみあがる。


ある医者がある人の手術をした。

手術は開始から6時間で成功し、局部麻酔のため意識のあったその人と医師は、二人で成功を確かめ喜びあった。

しかしすぐに合併症が引き起こされ、11時間の手術の後、患者は亡くなった。



テレビの中で。


最初の30分の間に本当に生きていた人が、次の30分では本当にいなくなってしまった。


その1時間は、すべてもうその人がいなくなった後の時間だった。


生きているものが、ある、ないということが、その長い時間の背景が、

様々に時空間をずらされて、立ち現れた。

現実に世界を知覚する、それと全く同じヴィジュアルで。


この驚きは、そのことの驚きなのかもしれない。


偽善かもしれない。


「おばあちゃん」という記号に感傷的になり、

メディアのデマゴーグに扇情された愚かさかもしれない。


よってこれはただの"きっかけ"でしかない。

最初に書かれたことの。


ただ人間だけが記憶に触れられる。

ただ人間だけが過去を現在として扱える。


ただ人間だけが、その特殊さの生み出す未来を経験する。


たとえその暴力に自身が砕かれるとしても。    

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