人間だけが、歴史の記憶に触れられる。
交差点でふと立ち止まり、東から西へ南から北へ延びていく幅の広い道路を眺めて、そう感じたことはないか。
地球というなんとなく知っているだけの巨大な球体のイメージに、人間の交路はぐるぐると巻き付けられ、検討のつかないほどの建物が隙間なく突き刺さっている。
相対的にはちっぽけで、絶対的には気の遠くなるような時間がかけられ、今日自分が買い物をしたスーパーマーケットは出来たのであり、今日ここにいる無数の人々の、それら人々の無数の行き着く先々が用意されたのだ。
人間だけが、任意の現在に立ちながら、任意の過去に触れられる。
「先進国の傲慢。人間の傲慢」
生物にとって記憶とは、"なくなったもの"と同義だ。
現在の喪失感は過去を照らし、記憶は影のように蘇り
過去からの記憶の光によって、私たちは現在の影を意識する
実体のないもの、触れられないもの。
それが記憶だ。
ただ人間だけが、記憶を記録し始めた。
なくなったものを、"あったもの"として保存することを可能にした。
だから、だろうか。
なくなったものが、本当になくなってしまったことを
それが本当に"あったもの"としてはっきりと見せられたとき
抵抗できない悲しみが、こみあがる。
ある医者がある人の手術をした。
手術は開始から6時間で成功し、局部麻酔のため意識のあったその人と医師は、二人で成功を確かめ喜びあった。
しかしすぐに合併症が引き起こされ、11時間の手術の後、患者は亡くなった。
テレビの中で。
最初の30分の間に本当に生きていた人が、次の30分では本当にいなくなってしまった。
その1時間は、すべてもうその人がいなくなった後の時間だった。
生きているものが、ある、ないということが、その長い時間の背景が、
様々に時空間をずらされて、立ち現れた。
現実に世界を知覚する、それと全く同じヴィジュアルで。
この驚きは、そのことの驚きなのかもしれない。
偽善かもしれない。
「おばあちゃん」という記号に感傷的になり、
メディアのデマゴーグに扇情された愚かさかもしれない。
よってこれはただの"きっかけ"でしかない。
最初に書かれたことの。
ただ人間だけが記憶に触れられる。
ただ人間だけが過去を現在として扱える。
ただ人間だけが、その特殊さの生み出す未来を経験する。
たとえその暴力に自身が砕かれるとしても。
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