私は、アンリ・カルティエ・ブレッソンが好きだ。
彼の写真は、今でこそ普通になったかもしれないが、世界にあふれる最高の一瞬(それは叙情においても、構図においても)を切り取る。(切り取る、といのは暴力的、恣意的すぎるかもしれない。彼はもっと優しいし、穏やかだ。)
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いろいろな芸術論があるでしょうが、それは全て認められるものです。
なので、私が以下に書くお話も、「まぁそんなのもあるよね」という感じでおすましください。
写真について、としてもいいし芸術一般(まぁ絵画とかですよね)もですが、
あなたが、作品と対峙して、どう思おうと、やっぱり自由なんですよね。
「あぁ、また記号テクスト論ですか」と言われるかもしれませんが、
半分あたりで、半分はちょっとニュアンスが違います。
僕は、アンリの写真のあの「薄靄」を、あの感動を言葉にはできないんですね。
それはもう「なんかいい」というだけで。
そして僕は、そういう感想っていうのは、あまり認めたくないんです。
僕は、論理も理屈も突き抜けた感性、センスがあり得ると思うんですが(当たり前のことですね)、安易にナンセンス文学とかを「いいよね」っていうやつが死ぬほど嫌いなんです。
安易に言ってるのか、それとも素晴らしいセンスで捉えてるのか、区別はつきませんし、主観意外の何ものでもないですが。
でも、僕は今、自分の「なんかいい」をそれほど不快だとは思わないんです。
別に自分のセンスを信じてるというわけじゃないんです(嗅覚には自信がありますが)。
ただ、そう思う事実なだけで。
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「私の」アンリ、なんですね。つまりは。
アンリ・カルティエ・ブレッソン論は、写真史的には絶対必要なんです。
何度も「読み直される」べきですが、権威ある論理は一本必要だと。
でも、私は、私の「アンリ」を持ちたいし、持つべきだと思う。
とかく僕は権威に弱いので(あらがってるし、弱点として見つめてるからがんばってますが)、「別に写真なんてしらないけど、私はいいと思うよ。なんか○○な感じがさ」って言いたい。
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今日の話は、種ですね。
いっぱい散りばめられてるし、整理されてない。
でも僕は、この荒唐無稽と文章の混乱に、
とてもウキウキした未来を見るんです。
幸福で、愛すべき自己分裂症です。
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