運転はもちろんしてないんですが、(できませんしね)
友達とのドライブ中に、あまりの睡魔に、コトコトとなってしまいました。
この場を借りて陳謝。「ごめんね」
眠たいのに、それと戦って、
意識が落ちる→「おっと」、落ちる→「うわっと」を繰り返すときは、
僕はそれが夢の中なのか現実なのか、その境界がわからなくなります。
しゃべっているつもりでも、only心の中だけ、みたいなこともあります。
(あれ、今、僕、口に出してたか?)みたいな。
最近は以前のように言語だの現象だの、とblogで書くことも少ないですね。
みなさんのアクセスの数にひやひやしながら、
「あぁ、こんな話してもダメかなぁ」
「あ、でも以外にこの回に、急増してるぞ」
みたいな一喜一憂に、小躍りし続けておりますのです。
いや、でも考えてませんよ。思ったことを書きますし、書きたいことを書かせていただいています。
少し、落ち着いたのかもしれません。
何かに悩んでいるときって、根源的な知を求めるんですよね、僕は。
宇宙とか、言葉とか、身近な人間関係とか、そういう全ての「悩み」。
「なんでこの世界なんて、あるの?」
「僕の目に触れるこの机は、なぜ「机」として僕に映るの?」
「なんで僕の言葉を、そんな風に理解するの!?」
そんな有象無象の「考え」たちが頭にあるときは、何かその思索の出発、ヒント、あわよくば解答、絶対的な拠り所を求めて、先人達の知に触れようとするのでしょうね。
今は少し落ち着いてますから、そういう「from 内省」の取り込みではなく、「外向き」な取り込み、どんどん新しいものに触れたいという姿勢の取り込みを求めてるようで、哲学よりは文学ですね。
別に、二つの取り込みの姿勢は表裏一体というか、不可分で、あえて分けて記述しなくてもいいと思ってますが、
まぁ便宜的に。
だから小説を読むことが多いのですね。
たくさんのシチュエーションがあり、たくさんのキャラクターがあり、様々な事件が起こり、種々多様な感情がめぐる。
そういうたくさんの「妙」に、心躍り、感動し、納得し、疑問をおぼえ、考え、また新たな妙に触れ、心躍り、感動し・・・。
そういう「外部意外性の渦」に自分を巻き込んでいっているという感じです。
そしてまた内省に戻る。
なるほど、僕の中の哲学と文学は、ばっさりやっちゃえばこういう関係で、僕を作ってたのね。
今、同居人(これからはtossyと書きます)を、
「ライターの掃除をしてるなぁ」と横目でとらえていたのですが、
その手元からいきなり何か「燃えたもの!=布+炎!」が飛び出ました。
彼は机の上のそれを慌てて鎮火させようとしていました。
お互いビックリしながら、
「どうしたん!?」
「いや、何かティッシュに火をつけたらどうなるのかなぁ・・って」
「・・・・」
外部からの意外性というのは、自分でも引き起こせるのですね。
ただ、
「火傷しないくらいにしないといけないなぁ」
と、ひょんなことから学びました。
感謝感謝。(ばーか)
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