2007年6月16日土曜日

ミクロ・エピステーメー

フーコーという人が、言いました。

「そのときどきの時代には、その時代の思考を支配する玉座がある」

その時代時代の、クーン的に言えば「パラダイム」ですね、考え方の大前提になる思考の台座。

それを、エピステーメーというのです。

これはとてもマクロな話ですから、ここはひとつ僕らの言葉に落とし込んでみましょう。

国会で、どっかの議員が、安倍首相に、

「アンシャン・レジームとは何ですか?日本語で言ってもらいたい」

といいました。

アンシャン・レジームという言葉自体を知らなかった、とは思わないんですが、

(そんな人間が政治の世界で生きてるなんて、考えただけでも恐ろしいですよね)

いくら攻撃のためとはいえ、くだらないなぁと思いました。

それは、それ、ですが。


僕もよく外来語、英語、フランス語の単語を借用する方なのですね。

「ニュアンスが〜」とか、「アグレッシブに〜」とか、「ドラスティックだ〜」とか、「ペシミスティックだな〜」とか。

ペシミスティック=悲観主義、なんていうのは翻訳可能だと思うんですが、

そういった言葉が口に出てくる背景には、やっぱりそれは「翻訳不可能性」にあると思うんですね。

日本語の「かわいい」とか「萌え」、「わび」「さび」なんて、他の文化の言葉では表現不可能でしょう?

その逆もしかりで、ドラスティック=徹底的な、思い切った、深刻な、ではそれってやっぱり違うと思うんです。

言語っていうのが、その絶対性、根底性のために、人間の思考様式まで規定する、っていうのは半信半疑ですが、やっぱり一方ではあり得るし正しいとも思うわけです。

英語に育った人間は、英語が規定する思考の枠組みから逃げることはできない。

その言語の、「音」であるとか「ヴィジュアル」であるとか、すいったことの全てが思考に対してアプローチすると思うのですね。

それはやはりエピステーメーであると思うのです。

そこから生まれるコミュニケーションの問題とかは、今別に話さないし、僕なりの回答がありますからいいんですが。

一番言いたかったのは、

言葉に対してセンセィティブになろうよ、ってことです。

安易に外国語使うのも反対ですが、表現の手段として、それしか取り得なかったのであれば、僕はおおいに結構だと思います。

だって、「エピステーメー」と「台座」。

違うでしょ?

前者は背景に多くの説明を持ってますから、フェアじゃないけど、

違うでしょ?

だから、この手の問題は、

批難する方も、適当なこと言ったらアカンよ、って思うんです。

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最近、各方面で、僕と恋愛するのは、「しんどそう」と言われます。

まぁ、上みたいな話って、モテませんわな(笑)

これを、ひねくれてると言われたら、

僕はただただ萎縮するばかりで、部屋の隅で怯えるしかありません。

にゃ〜。    

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