フーコーという人が、言いました。
「そのときどきの時代には、その時代の思考を支配する玉座がある」
その時代時代の、クーン的に言えば「パラダイム」ですね、考え方の大前提になる思考の台座。
それを、エピステーメーというのです。
これはとてもマクロな話ですから、ここはひとつ僕らの言葉に落とし込んでみましょう。
国会で、どっかの議員が、安倍首相に、
「アンシャン・レジームとは何ですか?日本語で言ってもらいたい」
といいました。
アンシャン・レジームという言葉自体を知らなかった、とは思わないんですが、
(そんな人間が政治の世界で生きてるなんて、考えただけでも恐ろしいですよね)
いくら攻撃のためとはいえ、くだらないなぁと思いました。
それは、それ、ですが。
僕もよく外来語、英語、フランス語の単語を借用する方なのですね。
「ニュアンスが〜」とか、「アグレッシブに〜」とか、「ドラスティックだ〜」とか、「ペシミスティックだな〜」とか。
ペシミスティック=悲観主義、なんていうのは翻訳可能だと思うんですが、
そういった言葉が口に出てくる背景には、やっぱりそれは「翻訳不可能性」にあると思うんですね。
日本語の「かわいい」とか「萌え」、「わび」「さび」なんて、他の文化の言葉では表現不可能でしょう?
その逆もしかりで、ドラスティック=徹底的な、思い切った、深刻な、ではそれってやっぱり違うと思うんです。
言語っていうのが、その絶対性、根底性のために、人間の思考様式まで規定する、っていうのは半信半疑ですが、やっぱり一方ではあり得るし正しいとも思うわけです。
英語に育った人間は、英語が規定する思考の枠組みから逃げることはできない。
その言語の、「音」であるとか「ヴィジュアル」であるとか、すいったことの全てが思考に対してアプローチすると思うのですね。
それはやはりエピステーメーであると思うのです。
そこから生まれるコミュニケーションの問題とかは、今別に話さないし、僕なりの回答がありますからいいんですが。
一番言いたかったのは、
言葉に対してセンセィティブになろうよ、ってことです。
安易に外国語使うのも反対ですが、表現の手段として、それしか取り得なかったのであれば、僕はおおいに結構だと思います。
だって、「エピステーメー」と「台座」。
違うでしょ?
前者は背景に多くの説明を持ってますから、フェアじゃないけど、
違うでしょ?
だから、この手の問題は、
批難する方も、適当なこと言ったらアカンよ、って思うんです。
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最近、各方面で、僕と恋愛するのは、「しんどそう」と言われます。
まぁ、上みたいな話って、モテませんわな(笑)
これを、ひねくれてると言われたら、
僕はただただ萎縮するばかりで、部屋の隅で怯えるしかありません。
にゃ〜。
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