2007年6月20日水曜日

目を見開く、驚き。

僕は、デリダのデリダ自身のテクストを読む立場では、まだない。

デリダのテクストは、誰かのテクストの読解についてのテクストであることが多いから、

僕がデリダを「読む」ことは、読解の読解、それもハイデガーやフッサールの一次読解の、二次読解を読まなければいけないことになる。

それは、もはや絶望をともなう。

その打破のために、デリダについて書かれたものたち(こういうのを読むのはもう嫌だし、飽きているのだけれど)を読んでいるのだけれど。

その一つに、すごいことが書かれていた。

『「脱構築的読解は」、決して読解を拒むものではない。それどころか、それは徹底的な読解を要求する。読解に読解を重ねたすえに、結局読解が「決定不可能なもの」にしかたどりつかないこと、テクストとは差出人も宛先もない手紙だということを明らかにするのだ。』

って言われてもね。

もう死んじゃうよね。

じゃあ、一つの結論は、思考の「諦め」でしかなくなっちゃうじゃん。

永遠の自己内省、というか思索を繰り返すこと以外に、知的誠実はあり得ないことになるよね。

出口なし。

それでも、人間は、いつ何時も「決断しなくてはいけない」存在だから、

その決断の織り成すものが、その人であり、その人の人生なんだけどさ。

だから、決して「語ること」は無駄ではないんだよ。

むしろ語らないことは、最低だから。

語り得ないものを語り続けることが、絶対的に正義なんです。

その正義も乗り越えられるけど。

いつか死ぬからね、その死がどれだけ偉大かっていうのは、どれだけ「考えたか」になっちゃうんだよね。

つらいね。

だって、考えることをやめる、っていうことが出来ないじゃない。

ゴールなし、って言われたらさ。

脱構築こそが、正義っていわれたら、もうただただ思考の海を、しかも果てのない海を泳ぎ続けることしか出来ないわけでしょ。

「知」に誠実であろうとすれば、賢くあろうとすれば、絶対そこから逃げられないわけじゃない。

あぁ、お酒とか飲んじゃったから、さっき僕はロラン・バルトの、バルト自身のエクリチュールを諦めたけどさ、失礼だから。

苦しいな〜。    

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