2010年4月26日月曜日

4/26

「リリカルなポイント・オブ・ビュー(ヴュー)」。

たとえばこれは、「詩的な観点」や「装飾されたロマンチックな見方」と日本語表記していい。

更に言えば、「リリカル」と「ポイント〜」の間に挟まれた「な」という助動詞は、文法的も本来に必要ない。

"lyrical"は形容詞であるから直接"point"を修飾出来るし、ましてや日本語である片仮名に変換することも、現代の基礎的な教養に照らし合わせれば不要と言っていいだろう。

つまり何が言いたいかと言うと、と、次の話に展開する場合も、本来的には「つまり何が言いたいかと言うと」と言う必要はない。

「つまり何が言いたいかと言うと」と言うこともなく、事の本旨を述べればいいのである。

それでもつまり、何が言いたいかと言うと、必要最低限の言語活動というのは、何とも趣がないものであるか、と思う。

当然、"point"はその前に”the”が必要であろう。

しかし、それら厳密な文法考察や、言語の文化的考察を行っても、「リリカルなポイント・オブ・ビュー(ヴュー)」という言葉の語感やその表象性は変わらない。

言語表現の美しさは、言語を連ねることの量、そのバランスにあると思う。

そして長く語ることを目指せば目指すほど、その美しさは維持し難く、かつ、長く語られた美しい言葉ほどに体力のあるものはない。



ある意味があることに、意味はない。

ある意味があることに、意味があるのだ。    

2010年4月20日火曜日

4/20

19世紀欧風のように植物を慈しむのは難しい。

それは色合いや生態についての無知によるものばかりではなく、それが始めから意図的に配置されているという事実も大部分の理由であると思う。

感動しようにも、その初期衝動が去勢されている。
庭を愛でるのは人間性への賛辞を謳うことだが、自然とは自ずから在ることに、我々の感動の価値がある。

そして上記の問題は、始めから問題となり得ない。

なぜなら日本人の修辞技法は、その対象の捉え方がそもそも違う。

花は花であり、草は草である。

心象とその美しさは、始めから私の心にあるのだ。

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無為な時間、それがはたして何たるものか。    

2010年4月19日月曜日

(雑記雑気ブン)4/19

専門家の議論でもまったく無関係な市井の談話であっても大差はないが、道徳だとか道義だとかでは一見判断が難しい知財の分野では、たいてい検討外れな議論と結論が出されることが多い。

ワイドショーのコメンテーターには、それについてコメントする知識も見識もはじめからないからそれはモラルの問題として片手間に処理されて、その手のシンポジウムや政府の有識者懇談会とかの技術的な場所にあっても、大体は老人たちが過去の理論を持ち出して、現状について真剣に考えようという気などはない。

ローマの時代からほとんど変わることのない法律学の中では、知的財産の分野は、その他経済法の分野とも合わせて、唯一現実との関わりの中で変化していくものだと考えていい、と、ボクは考えている。

実際訴訟の段階で、ボクは法廷に立つことはないし、第一そうならないようにするのがボクたちの仕事なので、ボクは少し気分転換が必要なときには、近くの裁判所で、どんな裁判であってもいい、強姦でも不動産でも何でもいいが、そういったものを傍聴席で漠然と眺める。

裁判所というのは外観から何まで適当に整理されていて、あまり汚れたものを見なくていい。そういった具体的に清潔な環境の中で、抽象的で複雑な人間の深い部分、それは美しくも醜くもなくただ複雑だ、を考えるのは、とても精神衛生的にはいいと思える。映画館で映画を見る、それとまったく同じだ。

その日は特におもしろそうな訴訟がなかったので、裁判所の周りを囲む桜がもう見頃を失って葉桜になったその向かいにあるレストランで、香草でグリルしたスズキと白ワインをグラスで飲んだ。

街の中心から少し北にあるこの部分はほとんどの公的な施設が集まっていて、大路をぶらぶらと歩いていると、そういった施設での方向を案内する看板があちらこちらに出ている。

「知的障害者支援施設」

たくさんの施設を案内する看板の中に書かれたその施設の名前は、「知的障害者」の部分が上からテープで貼り変えられてあった。

もともとは何かの施設であって、それが時流や要請に合わせて、それともただ以前にそこにあった言葉だけが問題であったのかもしれないが、新たな名称ともしかしたら新たな役割を与えられていた。

こんなことを考えるのは無意味で、ひょっとしたら傲慢に映るかもしれないが、言葉というのは何とも無意味で不気味で無節操だと、ボクは思った。

知的財産、知的障害、その背後にある世界はずいぶん違う。

ただ違うというだけで、それ以上に何の感慨もない。

ただ言葉というのは、それ自体にはほとんど意味がない、と思うというそれだけだ。

スーパーマーケットに並べられるように、知的財産権も知的障害者もクリームパンも洗濯溶剤も、誰かの手にとられて、棚から出されたり戻されたりしていく。

すべては組み合わせだけの問題で、それについて抽象的な問題は何もない。

ボクの生活に限っていえば、スーパーマーケットとホームセンターとドラッグストアがあれば、その生活は十分生きられるものになる。

それと最大多数の最大公約的な音楽とニュースを話題にしていれば、それが社交の十分であり、むしろ必要な教養となる。

目の前に置いてあるものを、何も考えずに、手に取って、並べて、置く。

それだけで、ボクの人生は無為に過ぎて行く。

無為に自然に十分に。

タバコを吸うのに、マッチはいらない、そういう感じなのかもしれない。

つまらない、とか、おもしろいとか、そういう話でもない気がする。

そういう現実に、どういう姿勢でいるか。

そういう問題だろう。

つまり問題など、、ほとんどないのと同じということだ。    

2010年4月15日木曜日

4/15

人々はみな全員、それほど賢くもなく、そして馬鹿でもない。

人間の行為、その背景の大部分は、直感や感情、感性、本能的な欲情によって占められており、理屈や理論、理性というものは往々にしてその「当て書き」として作られる。


人間には二つの動物の本能がある。

無動機の愛と、残虐の愉快だ。    

2010年4月14日水曜日

4/14

何の現実物もなしに、現実感を生じさせん。

今世紀の現実の課題に、嫌々ながらも取り組まんが現代人の義務。

さは義憤に駆られるも、日々苛まれる苦悩は如何ばかりか。

児戯か大義か、それとも大儀か。

泣き言を言うことも叶わぬ。    

factotum - my selfish theory of my affection.

アパートメントの外灯から、賑やかなネオンの光へ。

乱立する建物群の無数のキラビやかな光が、黒く磨かれたセダンの肌を撫で付けて、名残惜しそうに後ろに流れていく。

そういう一切の景色に無関心に目をやりながら、みほちゃんは後部シートの窓からただその流れていく光の強度を目に受け入れている。

青、黄、赤、レッド、オレンジ、紫、LED。

単純で鋭い閃光が、単調に彼女の角膜を刺激し、脳裏に残像を残していく。

一見すればそれは人間の享楽趣味の歴史、欲望を喚起させるためだけに積み上げられた醜い資本主義の娯楽産業の塊のように思われるが、そのために流された多くの汗や個人のドラマを考えると、またそれは何ともロマンティックな都市の時間を感じさせる。

ただそんな膨大な背景も、時間と切り離された他人から見れば、それはただの環境の一要素、ただの光の刺激がそこにあるという、偶然そこにあるだけの何かでしかない。

みほちゃんはじっと、それを眺めている。


車は細いアパートが密集する道の片側に停まり、運転手は外に出てドアを開けた。

彼女が玄関のブザーを押すと、出てきた男は手をとって階段を上がり、二階の部屋に案内した。

多くの人間がほとんど体の自由を奪われるくらいに溢れていて、その間を何人かのウェイターが酒を運ぼうと、そのトレンチを上に突き上げて器用に間を縫っている。

彼女を案内した男はどこかに消えて、別の男がみほちゃんの姿に気づいた。

「やっと来た。こっちだよ」

みほちゃんは首を少し傾けると、そばのウェイターにウォッカ・マティーニを頼んで、人混みの中を進んだ。

男は彼女を近くにいた人間に順番に紹介して回った。

届いたマティーニに口をつけながら、みほちゃんは軽い頷きと笑顔を続けていく。

「不満かな?」

部屋のはしに空いたソファに座って、男は聞いた。

みほちゃんはまた首を少し傾けて、意外ね、というポーズをとった。

「不満なんて、ないわ。十分、満足。だってこんなにみんなが楽しそうなのに、私が何について<満たされていない>と感じるの?私は何とも衝突していないわ。私には明日なんてないし、今はおいしいお酒がある。そんな私と、楽しんでいるみんな。どこにも問題なんてない、素晴らしい世界よ」    

2010年4月12日月曜日

4/12

ダンディズムとかヒロイズムとかは、享楽趣味の中からしか生まれない。

大衆の群衆主義というのは、いつの時代も衆愚的平等を主張する。

成熟したピューリタン社会では、精神の貴族性は断罪され放逐される。

権威が弱体化した現代にあっても、そうなのだ。


しかし、恐れずに声高に叫ぶこと。

味覚が鈍るからと、タバコを吸わないようではいけない。

より一層の、堕天する快楽と勇気。

それが権威なき時代のダンディズムには、むしろ以前よりも求められているのだ。    

2010年4月10日土曜日

factotum - at the

人混みの間からぐっと突き出された手には、レコーダーのマイクが握られていた。

2杯目のウォッカ・マティーニを飲み終えたあと、それが慣習上のルールだった。

タブロイド紙の質問に、彼女はこう応えた。


「私はすべてを受け入れるんです。だって大事なものはちゃんと私だけのものにしてありますから。」    

2010年4月8日木曜日

factotum - 嘲笑

「春は曙。やうやう白くなりゆく山ぎは 少し明かりて」

寒暖が毎日入れ替わり、三日間ずつ雨と晴れがやってくる。
そのちょうど隙間に、それら一切の天気天候のバランスが静止させられたような夜。
AM4時。
穏やかに暖かい風が、サクラをゆっくりとした雨のように斜めに散らせていく。
花街の舞台セット、淡い緑の柳とサクラが灯籠の白熱球の光で闇に浮かび、川沿いに延びる石畳の路には、桜の葉がゴミのように溢れて散っている。

ダニエル君はゴミのように溢れたサクラの花びらを手ですくい、夜の闇にばらまいた。
化粧用のコットンのような手触りが不気味なくらい心地よく、ほとんど何も感じないほどに軽く体を擦り抜けていく花吹雪は、どれだけ彼がサクラというものに何の愛情も持っていないか、一連の動作や感傷がどれだけただのファッションでしかなかったか、そしてそんなものはお見通しで、どれだけ私たちがサクラをやっていると思っているのか、甘いのよ、という女性的な侮蔑と嘲笑を彼に教えた。

はなで笑うサクラに、ダニエル君は納得して、少しすねた気持ちになった。

質量を持たない、サクラ。物体。
色だけが強い、サクラ。存在。
サクラ色という色だけが存在する存在。サクラ。

バーの仕事が終わり、最後に飲んだ赤ワインが彼の意識を外に外に流し出して、それを抑えようと一気に口にいれたまっすぐのオールド・クロウが、息と目頭を熱くさせた。
瞑想するように目を細めたり見開いたりしながら、ダニエル君はサクラの葉を一掴み握りしめたまま、自室に帰る道、仕事場であるバーと自室のちょうど真ん中にある白い木造の缶詰バーの重いガラス戸を開けた。
北欧的でドイツ的、ストックホルムという言葉の色合いとブリューゲルの描いた冬の森のような土臭い白さがそのまま具現化したような木造のきしむ、バーだ。
ダニエル君は、重いガラスの引き戸に力をかけて開け、中に入り、体を反対にして、また力をかけて引き戸を閉めた。

「ごめんなさい、サクラの花びらなんだけど、ドアを開けようと思ったら捨てるしかなかったんで、外にまいちゃいました」
「全然問題ないよ、どうぞ」
「生ビールください」

ダニエル君は勘定台兼物置台のカウンターの前に付けられた低いカウンターテーブルに、箱馬くらいの高さの低いスツールにお尻をのせて、床にカバンを降ろした。
「はい、どうぞ」
ちょうど彼の目の高さの高い方のカウンターの上に、生ビールと、店に預けてあったカンパリの瓶が置かれた。
「春はカンパリ。白くなりゆく泡立ちは 少しエロくて」
カンパリ・ビア、サクラ色のルビーレッドに染められたビールは、ホップと柑橘のふたつのほのかな苦みと甘さが鼻にぬけて広がる。

サクラ色、苦み。

「で、どうするの」
「まぁ、今はいいよね。若いときだ」
「何かやらないで、どうするの」
「何もないのか」
「何かないのか」
「こんなのもいいんじゃないの」

「まさか、言えるわけないじゃないですかねぇ。書いて、暮らしたいだなんて。子供じゃないんだから」
   

2010年4月5日月曜日

factotum - 談笑

ボクは、以前にダニエル君が話していた、ダニエル君がみほちゃんに宛てたメールの内容を聞いたときのことを、契約書作りの作業の合間、血行不良の眉間を親指と中指で指圧して、目をぐっと開いて、首を回してタバコをくわえ、オフィスの外に、他の事務所との共有スペースに取り付けられた分煙室で一服吸おうとして、思い出した。

Deer Miss Holiday Golightly.
僕の英語は稚拙だから、どうか許して。アフリカはどう?

こっちはやっとまずまずの暮らしが出来るようになってきました。
(僕ももうあれこれ浮遊感を感じることも昔に比べて減ったしね:-) )
僕にはそっちの生活なんて全く想像もつかないけれど、たまに届いていた君の手紙からすると、君にはやっぱりマッチしているんだろうね。

君があの建物と、あの街からいなくなってずいぶんと経つ。
その間も僕は、君とはしゃいだあの橋や、公園(僕はあやうく死にそうになった!)をたまに歩けば、本当にバカらしいんだけど幾度かは実際に君と一緒にいるようにも思ったんだ!本当に、現実のようにね。

こうして手紙を書こうと思っても、君のことだから、またどこか遠いところで楽しんでいるんだろうし、結局見ることもないかもしれない。

それでも、僕は君が大好きだから、やっぱりこれを郵便ポストに入れることにするよ。考えても仕方ないってことに気づいたんだ。君はいつも"traveling"だしね。

また近々、あの場所達(君がお面を盗んだグラッセリーにも行かなくちゃ)を訪れることもあるかもしれない。

その時には、また君の夢を見るんだろうか?

from your "Fred"

「今でも、あのときと気持ちは変わらないね。いや、好きとか嫌いとかの気持ちがじゃなくて、そのとき自分がどういう気持ちで彼女に話したかということを考えると、そのときの自分は今でも自分の中で生きているってことね。よく言うような、若いときの自分はもう別人だ、っていうのが、少なくともこれにはない。ってことは、悪くないんだよね、たとえ別に意味もなくて、よくもなくても。」
「そういうふうな気持ちの伝え方か。嫌みじゃなくて、感心するよ。ボクにはまぁ、できないしね。そういえば、そもそも人に自分の何かを言うっていうことをしないな。」
「そもそも人に何かを思うってことが、ほとんどないんじゃないの。大文字の<ひと>から入るよね。<ひと>全部にざっくり印象をもって、そっからこう個人とかに感情移入していくじゃない。ぼくはチョロQみたいにこう、当たっては捨ててって感じだけど。最初から付き合う人に対して慎重な段取りがあるよね」
「でも姿勢は変わらないよ。お互い、傷つくのは嫌いだよ。小さな円を広げていくか、大きい円をせばめていくかの違いだけじゃない。」
「はい、落ちましたね。見事」

タバコの濃厚な煙とアルコールの上気する芳香で歪められたボクの部屋で、ミュートされた深夜のテレビショッピングだけが乾いた動きを繰り返す。
朝が来るのがなぜ憂鬱かと言えば、無生産なことがわかっているのに、さも意味ありげに生産してますよというロールプレイングの世界に戻らなくてはいけなくなるからだ。特に大学なんていうのは、そういうところだ。本当に何にもならなくても、何もやってないことすらもやってることになるんだから。大学生なんて固有名詞は、社会から抹殺したほうがいい。

ボクは若いときに、思えばそれくらいのことを思ったものだと思い出して、笑ってタバコを灰皿に潰した。
今でもそう思う。少し気を抜いたり緩んだりすると話の進め方がラディカルになってしまうのは、変わらない。
ただ、仕事のいいところは、給料が出るということだ。やらないこととやることの間に、はっきりと線がひかれる、そこが気持ちの落ち着くところだ。そうじゃないなら、何も変わらない。ただ弓なりの体力の推移だけのライフコースがあるだけだ。
ボクははっきりと、<ひと>の生活リズムに、自分に生活のリズムを合わせてしまった、そういう生活と日常を自分に与えてしまった。
これが悪いことなのかどうか、それがわからない。    

factotum - ●

「いいかい!そのイスから少しでもお尻をあげたり、意味なくバカみたいに大げさなリアクションなんてしたら、殺してやる!そのふとももを思いっ切り打ちつけて真っ青にする!とりあえず黙って、くだらないことはしないで、適当な顔をしてればいいから、とにかくボクの話を聞いてるんだ。いい!そう、体育座りでもなんでもいい、ドアの方は見るな!とにかくここにいるということだけを誓う、ボクにくだらない疑いや憤慨をさせないこと、脇道によらなければいけないようなことは一切させないことだ!ボクはとにかくちゃんと話したいんだ、キミはどうでもいい、だからキミをどれだけ痛めつけてもいい、別に痛めつけたくはない、つまり本当にキミはどうでもいいんだ、ボクは落ち着いて自分で話していたい、キミはそれを聞いている、ただそれだけの平和がここにあればいいんだよ、わかった!?」    

2010年4月3日土曜日

get back, cut back.

現在にしても、それとも過去のことを今にまた考え直してみるにしても、

たとえば、「そういうことだ」という文末と、別の言葉で漠然としたイメージを生み出すことによって、そのニュアンスやメッセージを伝えようとする文体があるように、

別の状況や状態、異なった性格や身体によって、物語やその世界を紡ぐということが出来るし、そのことは証明されている。

そして、それら<変換されたものたち>の一つ一つに明確な連続性を一見して感じることが困難な場合にしても、しかしそれをテクストの読み手に了解し、納得してもらう、させることにもし成功する、成功するだろう自信をもってそれに望むことができるならば、

言葉のひとつひとつの外形的な連続というのは、まったく意味のない、そして意味のなくていいものになり、言葉、文章、文体、紡がれたストーリーは、その全体的な統合のために存在させられるのだろう。

男根のように反り返る鋭利で力強い屠殺包丁にぶち切りにされるように、文字と文章は悲鳴をあげる。

それがある種一流の創作の条件であり、必要悪、どうしようもない犠牲なのだ。    

2010年4月2日金曜日

ある発作。

「なんだか急に、その、苦しくなるんです、そう、学校に行く道の途中とか、お風呂でシャワーを浴びている時間とか、あと寝るときもそうです。息ができなくなるんです。どんどん疲れて、どんどん元気がなくなっていってしまうみたいな、そんな感じです。それであと少しでもう力尽きてしまう、そのギリギリのところでやっと自分の命が助かったと思うんです。もう体が汗でびっしょりしていて、心臓も呼吸もぜいぜいしているんです。そのあとは、すごく気分が晴れていく感じがします。どこからともなく爽やかな気持ちのいい風が吹いてきて、ぼくの熱くなったおでこを涼しくしてくれるんです。」


「コールフィールド氏症だね。」


机の上のカルテにメモをとりながらその横顔でダニエル君の話を聞いていた内科医は、患者の話が終わると、自身の低いスツールを回転させて、メガネを外し、ダニエル君を正面に見た。

「コールフィールド氏症、そう名付けてあげよう。いいかい、君はこれからその病気と一生付き合っていくことになる。原因ははっきりとある。君の性格のある種の部分が、君の現実の問題を解決しようとするときに、君にそういう気分をとらせるんだ。でもこれは悪いことじゃない。むしろ、おかげで君は結果的には物事を肯定的に進めていけるだろう。いいね、君はそういう病気だ。これは治さなければいけないものじゃないし、治らないからってまったく恥ずかしがることはないんだ。誰かに悪口や、おかしい、とか言われたら、堂々と言ってやりなさい。そうだよ、そのとおり病気だ、でも君に何の関係があるんだ!ってね」    

2010年4月1日木曜日

我が肝を喰らう朝。

原始的な体内から、その味が受容される高尚な感覚器官に向かって、我が臓器を喰らう。

消化のために分泌された肝臓の液は、ついに対象を失ってしまった胃液の後に、我と我が肉体の愚かさをしっかりと見せつけるために、もともとそれが提出された機関、肝臓の味、それは豚や鳥のレバーを思い出せば足りる、肝臓の中でもとびきり苦い緑色の部分を、その立体的なテクスチャー、肝臓を、口の中に再構成する。

私は今、私の肝臓を喰っている。

腹中のあらゆる臓器、胃袋、膵臓、肝臓、腎臓のすべてが食道めがけて結集し、逆流し、下水に向かって吐き出され、そうして自身を構成している諸機関の実体を、頭脳が逐一認識させられる。

吐瀉は肉体の防衛であり、我が身可愛さによる生命連鎖の冒涜である。

私は、私全部の未来のために、我が子、我が肝臓を喰らう。

すべては私の精神の非生産だ。