19世紀欧風のように植物を慈しむのは難しい。
それは色合いや生態についての無知によるものばかりではなく、それが始めから意図的に配置されているという事実も大部分の理由であると思う。
感動しようにも、その初期衝動が去勢されている。
庭を愛でるのは人間性への賛辞を謳うことだが、自然とは自ずから在ることに、我々の感動の価値がある。
そして上記の問題は、始めから問題となり得ない。
なぜなら日本人の修辞技法は、その対象の捉え方がそもそも違う。
花は花であり、草は草である。
心象とその美しさは、始めから私の心にあるのだ。
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無為な時間、それがはたして何たるものか。
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