2010年4月19日月曜日

(雑記雑気ブン)4/19

専門家の議論でもまったく無関係な市井の談話であっても大差はないが、道徳だとか道義だとかでは一見判断が難しい知財の分野では、たいてい検討外れな議論と結論が出されることが多い。

ワイドショーのコメンテーターには、それについてコメントする知識も見識もはじめからないからそれはモラルの問題として片手間に処理されて、その手のシンポジウムや政府の有識者懇談会とかの技術的な場所にあっても、大体は老人たちが過去の理論を持ち出して、現状について真剣に考えようという気などはない。

ローマの時代からほとんど変わることのない法律学の中では、知的財産の分野は、その他経済法の分野とも合わせて、唯一現実との関わりの中で変化していくものだと考えていい、と、ボクは考えている。

実際訴訟の段階で、ボクは法廷に立つことはないし、第一そうならないようにするのがボクたちの仕事なので、ボクは少し気分転換が必要なときには、近くの裁判所で、どんな裁判であってもいい、強姦でも不動産でも何でもいいが、そういったものを傍聴席で漠然と眺める。

裁判所というのは外観から何まで適当に整理されていて、あまり汚れたものを見なくていい。そういった具体的に清潔な環境の中で、抽象的で複雑な人間の深い部分、それは美しくも醜くもなくただ複雑だ、を考えるのは、とても精神衛生的にはいいと思える。映画館で映画を見る、それとまったく同じだ。

その日は特におもしろそうな訴訟がなかったので、裁判所の周りを囲む桜がもう見頃を失って葉桜になったその向かいにあるレストランで、香草でグリルしたスズキと白ワインをグラスで飲んだ。

街の中心から少し北にあるこの部分はほとんどの公的な施設が集まっていて、大路をぶらぶらと歩いていると、そういった施設での方向を案内する看板があちらこちらに出ている。

「知的障害者支援施設」

たくさんの施設を案内する看板の中に書かれたその施設の名前は、「知的障害者」の部分が上からテープで貼り変えられてあった。

もともとは何かの施設であって、それが時流や要請に合わせて、それともただ以前にそこにあった言葉だけが問題であったのかもしれないが、新たな名称ともしかしたら新たな役割を与えられていた。

こんなことを考えるのは無意味で、ひょっとしたら傲慢に映るかもしれないが、言葉というのは何とも無意味で不気味で無節操だと、ボクは思った。

知的財産、知的障害、その背後にある世界はずいぶん違う。

ただ違うというだけで、それ以上に何の感慨もない。

ただ言葉というのは、それ自体にはほとんど意味がない、と思うというそれだけだ。

スーパーマーケットに並べられるように、知的財産権も知的障害者もクリームパンも洗濯溶剤も、誰かの手にとられて、棚から出されたり戻されたりしていく。

すべては組み合わせだけの問題で、それについて抽象的な問題は何もない。

ボクの生活に限っていえば、スーパーマーケットとホームセンターとドラッグストアがあれば、その生活は十分生きられるものになる。

それと最大多数の最大公約的な音楽とニュースを話題にしていれば、それが社交の十分であり、むしろ必要な教養となる。

目の前に置いてあるものを、何も考えずに、手に取って、並べて、置く。

それだけで、ボクの人生は無為に過ぎて行く。

無為に自然に十分に。

タバコを吸うのに、マッチはいらない、そういう感じなのかもしれない。

つまらない、とか、おもしろいとか、そういう話でもない気がする。

そういう現実に、どういう姿勢でいるか。

そういう問題だろう。

つまり問題など、、ほとんどないのと同じということだ。    

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