2009年9月30日水曜日

I love MY.-sunk cost.

「昨日に付き合ってる時間なんて、ないわ。」


彼女は電話を片手に、片手でその肘を支えて、はっきりそう言った。

ボクはアールグレイに少しだけミルクを入れて、熱いのを一口、すする。


彼女はケータイを閉じて、カバンに放り込み、ボクを睨んだ。


「言っておきますけどね、これは何でもない人で、何でもない話です。」

「いいよ、何でも。ボクは君とさっき知り合って、そしてここにいるだけ。ボクもそれだけの、何でもない男なんだから。明日にはボクが同じ電話、そのカバンの中の電話の向こうにいるよ。ボクは、かけないけどさ」


「冷静ぶる人って、嫌いだけど、まぁ、可愛らしいね」


――――――


人はなかなか、手がけたものや手に入れたものを手放そうとしない。

そうしてずぶずぶと手の中でそれを腐らせてしまう。

あげくには、ずぶずぶと腐っていく物体を、

「これはいいものなんだ!」

なんて、自分を適宜正当化する。


動産の所有なんて概念は、早く捨ててしまったほうがいい。

不動産なんてもっての他だ。


漂泊者の脳みそがあればいい。

高邁な流浪の精神に頼ればいい。


そうしてのたれ死ぬのがいい。


そうした崇高な思想を、現代に正当化してみよう。

それこそが、消費だ。

現代人によるニーチェの最も手前味噌な正当化の理論こそが。    

2009年9月29日火曜日

I love MY.-no.

すべて一切は、強度の問題だ、というのは、酒場で知り合う哲学である。

酒宴、饗宴の世界では、ただ二言三言の論理の――そう、まさに二言三言でいいのだ!――強さが、ものをいう。

これは批判ではなく、尊敬である。

つまり、曖昧さなどは、インテリの美学であって、畢竟、間口の狭い概念である。

だからこそ!

ワタシは、それを愛したいのだ。


――――――――――


「つまり何もしたくないわけね」

良き理解者である隣人は、こう言う。

「選択出来ないことは悪いことじゃない。迷う時期も、そういうときもあるのよ」

あまりに心地よい諦念に、ボクは安住を感じることに必死に抗いながら、

「そうだねー」

と、歯ぎしりする。

歯ぎしりする?

誰に?

自分にだ!


―――――――――


ボクは、現在の人々は多分に物語好きであり、同時に物語への無興味である、と思っている。

ボクらは、都合良く物語りを消費している。

あるときはただ感情の変化をえようとして――「泣けましたー」みたいな

あるときはただの時間つぶしとして――「とりあえずー」として

ボクらは本当にその物語の特別性に無関心だ。

で、あるならば、

何も特定しない、

そんな物語が、

ダメな理由が、

どこにあるだろう。


「anti 安易な一般化」

これ抵抗してきたボクだ。

敵は、なおもここにいるのだ。

しかし、これこそがフィールドだ。


このような散文が経済的価値を持てば。

それこそが、現代文筆家諸君の夢想的な理想である。


―――――――――


自己言及。

この無価値で有害な美徳よ!!    

2009年9月26日土曜日

I love MY.-deception.

恋人ごっこがしたかったの。


つまりそれは、お互いの背景なんてどうでもいいっていうこと。

人格と人格とによる生活の向上なんて、ハナから考えてもいないこと。

男と女の遊戯を、ただプレイすること。

ウデマクラをされてみたり、モグリコンダリ、テヲツナイダリ。

そんな記号を消費してみる。

ただそれだけのこと。

お洒落や買い物、ドレスを着てディナーにいくのと同じ。

ただの記号の消費。


女にも筋肉質な思想があるんです。

女もタンパク質で出来ています。

男性にも涙腺があるみたいに。


—————


すれっからしの、文学。    

2009年9月25日金曜日

I love MY.-literature.

現代の文学はすべて、あの藤子F不二夫的SF、つまり「少し不思議」という世界観の魔術に呪われているようである。

もはや我々の日常には、いかなる発見をも期待することができなくなってしまったようだ。

いや、それはあまりに悲観である。

現実に、我々と等身大の日常世界を小説の中に出現させ、その中で我々人間存在の精神の機微を発露させようとする作品もあるのだ。

しかし、一見してそれら作品のすべてが、その小説世界の小説人間たちの小説精神の殆どが、卑小であり、煩雑である。

その程度のリアリズムが、現代の素描だとは!

ここでまたもう一度さきの問題が提出される。

もはや、我々現代の日常には、人間性の偉大な発見は期待できないのか、と。


ーーーーーーーーーー


この3ヶ月ほどで、いわゆる「ボケ」ですね、短期記憶といいましょうか、そういうものの能力を失っていくおばあちゃんを見ながら、ワタシは何だかとても清々しい気分に浸っているのです。

それは残酷とかそういうことではなくて、もちろん人からそう言われても仕方ないかもしれませんが、おばあちゃんはどんどんと純粋に、感情的な感動に忠実になっていく、つまり子供のような笑顔を浮かべるのですね。

世間の一切の面倒なことがらを、おばあちゃんから取り除いてあげたい、そうしておばあちゃんが出会う、たとえば食べたことの無いようなご飯、それは鶏肉のトマト煮であったかもしれません、そういうものに出会ったときのあの笑顔、おいしいという笑顔の素直さ、純粋さ、そういったものがワタシの心を強く打ちます。

もうこの人はそうやってつまらないことを忘れていくのだ、この世界から不必要で汚いものを払い落としていくのだ、そうしてキレイな姿になって、光の中に消えるように、ワタシにさようならを告げるのだ。

そんなヴィジョンがワタシの中にはあって、そういった幸福感が空間を照らし、満たします。


世の中に悲観にくれるようなことはあるのでしょうか。

すべての今日は、すべて明日のための階段なのではないでしょうか。

階段は、その本来の機能として降りるためのものではないとワタシは思っています。

階段は上るものなのです。

息をつきながら階段を上る、その少しの苦労と向上の汗をかく爽快感。

世の中の一切は、そのように前進しているとワタシは思っていますし、思いたいのです。

そうであるなら、なんて世界はいつも素晴らしく、これからも素晴らしいのかと。

そんな幸福感で、また、ワタシの世界は満たされます。


世の中の一切の不合理をワタシは憎みます。

世の中はキレイであるべきです。

不合理な自分を認容して、純粋に、キレイにあろうとするおばあちゃんが、

ワタシは、大好きです。    

2009年9月23日水曜日

I love MY.-wine

ワインを飲もう。

それもじっくりと、自分の全精力をかけて、全身の感覚を集中させて、精神をふんだんに働かせて。

ワインというのは、とっても未完成で、不安定なお酒です。

日本酒やウイスキー、その他のお酒と比べても、こんなに天気や場所に左右されて変化するお酒はない。

だからこそ、とてもおもしろいわけです。

ワインのおもしろさは、その味の背景を探ることの無数のヴァリエーションと可能性にあります。

つまり最も口数の多くなるお酒、言及される飲み物、それがワインです。


ワインは、とても安いものから、とても高いものまであります。

たとえばここに、ルモワスネという人が作った――正確にいえば作ってはいません――ルノメという場所の1987年のワイン、8200円のワインがあります。

飲んでみましょう。

あぁ、なんて素晴らしいんでしょうか――こういう文句が鼻につく人には嫌がられるんでしょう

余分なタンニンがすべてそぎ落とされていて、しかしタンニンによって支えられた味わいのバランスの良さ。

華麗で繊細な果実の甘みと、年月を経て生まれたその枯れたニュアンスとの、アルコールのヴォリュームによって広がるその世界が、実に官能的です。


このようにボクはワインを楽しみ、愛しているのですが、

これが何になるのでしょう。

程度のいい日常、アルバイトで得た月収13万円。

しかし、家賃も食費もかからない生活。

その13万円が、向こう見ずな消費に流れていく。

その中でボクは、こんなにも楽しく優雅な体験に酔える。

この事実の前に、ボクは何を望むのでしょう。

もっと、いいワインを飲めるようになりなさい?

そうです、それしかない。

では、どうやって?


答えはあります。

つまり提出したかった問題は、

日常というものがいかに問題のないものかということ。

そしてお酒というものが、人間にとって何なのか。

酒のために生きるということができるのか、

酒は文学のテーマになりうるのか、

そういうことでした。

この問題の解決は、まだ未完成であり、

続きます。    

I love MY.-1

ボクにとって iPod は、ただのwalkman以上のものだった。

液晶のバックライトをつけて、そして消すときの、あの呼吸のような明滅、それは生き物だった。

iPod は誰もしらない宝物のであったし、ポケットに入れて、そして時折それを取り出しては触る、それだけで、ボクの毎日は何か特別なもの、他の誰かとは違う特別な日常をボクは生きている、大げさにいえばそれくらいの興奮と爽快感を感じれた。

大人たちにとってのwalkmanも、そうだったのだろうか。

やっぱりすべてのガジェットは、そうした何か特別のスペシャリティーを誰かに与えてくれるのか。

新しいものを消費していくことは、平凡な人間が平凡な日常に施す、キラビやかな演出なのかもしれない。

消費、消費、消費。


ボクが思うには、大人たちの時代は消費社会とかではなかった。

大人たちは、「ただそれを消費する」という自分の日常の行為に、まったく無自覚だった。

なぜなら彼らは時代の成長の片棒を担いでいたし、彼らのすべての行動がその神話に結びついていたから。

大人たちは、どんな人間であっても認められ、どんな行動も、時代の名の下に認められた。


ボクは、ボクたちは、自分たちがいかに非生産的かを知っている。

ボクは、ものすごくよくできた時代に生きていて、それ以上はあまり望むべくもない時代に生きている。

ボクたちの時代の問題といえば、全部大人たちの時代にできたもののことであり、ボクたちの見る希望は、グローバルすぎて、少なくともボクには見えないし、見えたとしても、飛び込めない。

つまり、十分で充足した時代にボクは生きている。

だからボクは、ボクの消費がいかに「ただの消費」かを知っている。

ボクの消費は、明日を生むけど、明後日にはただの日常になっているだろう。

そんな消費も認められる、そんな満ち足りた環境がボクにはあるだろう。

何となく、生きていける。

そんな特別な時代を、ボクは心から愛して、そんな自分を、ボクは憎み嫌い、そしてやはり愛している。    

2009年9月17日木曜日

factotum ~ espana.

Taja gran reserve 1998 Jumilla Espana


スペインワインというのは、

ヴァニリンがよく効いていて、骨格はしっかりしているが渋さはなく、程よいアルコールの高さがあって、美味い。

というつまらない偏見で、処理されている。

たまに違うのを飲めば、黒すぎて、趣がエキセントリックだ。


まこと明確に、挽回してくれた。

これはムールヴェードル(モナストレル)から始まって、カベルネS、メルローの上でテンプラニーリョというセパージュ。

テンプラの乾きとメルローの湿り気のニュアンスの葛藤と、カベルネの青さ、メルローからのローリエに、ムールヴェードルやテンプラの軽快な果実味。

そしてそれらバランスがまとまりすぎず、それぞれの個性を主張している。

おもしろく、美味い。


さて、「飽きた」「飽きた」とつまらない小文字を叫ぶのに飽きている。

沈思黙考。

これもつまらない言葉だが、悪くない言葉だ。

つまらない言葉に甘んじないままに、

たったとやることは、やりだそうと、

てめえの色々で、がんばるのだ。    

2009年9月10日木曜日

factotum ~ last 2 days

一週間の、待ち人。

なんて、ずいぶん古いタイトルね、多分、あったと思うけど、ないわね。

一週間、待ち人を、待ってます。

ずいぶん、しおらしいこと。本当、乙女チックにいまさら恋するなんて、恋に恋することを甘受するなんて、インテリ女のすることじゃありません。

いいえ、インテリ女はいつだってこうしてきたの。ドラマを作る、それが人生。

決して派手じゃないけど、雰囲気のあるストーリー。メロドラマじゃない、男女の映画。

それも後ちょっと、今日と明日、少しだけ、ちょっとだけ一人でお酒を飲んでいればいいだけ。

それだけ。


終わることが寂しいんじゃないの。

寂しいのは、その後。

もう会えないじゃない。

顔とか合わせられないじゃない。

いや、それもいいんだわ。

寂しいのは、やっぱり自分の問題ね。

あーあ、恋が終わっちゃった、って。

結局、可愛いのはワタシだけなのね。

はい、それだけです。


そう、えーと、報告ね。

1997年のニコラ・ポテル、サントネの1er。

ポテルは本当に土臭いのよね、ビオビオなの。

でもそれだけじゃないところが、すごいの。

サントネ特有の酸味と芯の堅さのテロワールを表現しながら、ワイン単体としての完成度、タンニンの下支えと華やかな果実の風味の調和、そういったバランスを、抜群のプロポーションを作り上げちゃう。

それが、他の下手なビオディナミと違うところ。

まぁ、ネゴシアンのくせにやりすぎだとも思うんだけどねー。


さ、そろそろ出かけてきます。

あんまり飲むものもないし、静かに家にいたいんだけどねー。

じゃ。    

2009年9月3日木曜日

factotum"ed" ~ for pinot noir.

carmen reserva pinot noir 2007


模範的なピノ・ノワールを、まさに「作り出した」感がある。

最小限のピノらしい花やかなニュアンスの甘い香り。

それを下支えするほどよいタンニン。

1400円という値段でこれなら十分美味しい。タンニンの粗さと、南米特有の清涼な風味がむしろ高級感を感じさせる。



さて、そこから話は、ピノ・ノワールの趣向の深さに転じようと思うのだけれど。

ピノ・ノワールはステキに美味い。

それは、まさに、いやまさにボクの趣味趣向でしかないが、まさに、その単一品種の「構造の透明感」と「だからこその味わいのストラクチャーの明瞭感」と「その認識の喜び」である。

歓喜の歌が鳴り響くのだ、今宵の夜に。



酔っている、それは間違いない。

ただ、ピノ・ノワールを久々に飲んだ喜びをしるしたかった。

明日はプルミエ・クリュのニコラ・ポテルが待っている。

想像するだけで最高だ。


しかしまぁ、ピノにこのバリック感というのはすごい。

酸味とあいまって、もはや酸化香のニュアンス、「枯れた」感じすらする。


おもしろい。