ボクにとって iPod は、ただのwalkman以上のものだった。
液晶のバックライトをつけて、そして消すときの、あの呼吸のような明滅、それは生き物だった。
iPod は誰もしらない宝物のであったし、ポケットに入れて、そして時折それを取り出しては触る、それだけで、ボクの毎日は何か特別なもの、他の誰かとは違う特別な日常をボクは生きている、大げさにいえばそれくらいの興奮と爽快感を感じれた。
大人たちにとってのwalkmanも、そうだったのだろうか。
やっぱりすべてのガジェットは、そうした何か特別のスペシャリティーを誰かに与えてくれるのか。
新しいものを消費していくことは、平凡な人間が平凡な日常に施す、キラビやかな演出なのかもしれない。
消費、消費、消費。
ボクが思うには、大人たちの時代は消費社会とかではなかった。
大人たちは、「ただそれを消費する」という自分の日常の行為に、まったく無自覚だった。
なぜなら彼らは時代の成長の片棒を担いでいたし、彼らのすべての行動がその神話に結びついていたから。
大人たちは、どんな人間であっても認められ、どんな行動も、時代の名の下に認められた。
ボクは、ボクたちは、自分たちがいかに非生産的かを知っている。
ボクは、ものすごくよくできた時代に生きていて、それ以上はあまり望むべくもない時代に生きている。
ボクたちの時代の問題といえば、全部大人たちの時代にできたもののことであり、ボクたちの見る希望は、グローバルすぎて、少なくともボクには見えないし、見えたとしても、飛び込めない。
つまり、十分で充足した時代にボクは生きている。
だからボクは、ボクの消費がいかに「ただの消費」かを知っている。
ボクの消費は、明日を生むけど、明後日にはただの日常になっているだろう。
そんな消費も認められる、そんな満ち足りた環境がボクにはあるだろう。
何となく、生きていける。
そんな特別な時代を、ボクは心から愛して、そんな自分を、ボクは憎み嫌い、そしてやはり愛している。
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