現代の文学はすべて、あの藤子F不二夫的SF、つまり「少し不思議」という世界観の魔術に呪われているようである。
もはや我々の日常には、いかなる発見をも期待することができなくなってしまったようだ。
いや、それはあまりに悲観である。
現実に、我々と等身大の日常世界を小説の中に出現させ、その中で我々人間存在の精神の機微を発露させようとする作品もあるのだ。
しかし、一見してそれら作品のすべてが、その小説世界の小説人間たちの小説精神の殆どが、卑小であり、煩雑である。
その程度のリアリズムが、現代の素描だとは!
ここでまたもう一度さきの問題が提出される。
もはや、我々現代の日常には、人間性の偉大な発見は期待できないのか、と。
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この3ヶ月ほどで、いわゆる「ボケ」ですね、短期記憶といいましょうか、そういうものの能力を失っていくおばあちゃんを見ながら、ワタシは何だかとても清々しい気分に浸っているのです。
それは残酷とかそういうことではなくて、もちろん人からそう言われても仕方ないかもしれませんが、おばあちゃんはどんどんと純粋に、感情的な感動に忠実になっていく、つまり子供のような笑顔を浮かべるのですね。
世間の一切の面倒なことがらを、おばあちゃんから取り除いてあげたい、そうしておばあちゃんが出会う、たとえば食べたことの無いようなご飯、それは鶏肉のトマト煮であったかもしれません、そういうものに出会ったときのあの笑顔、おいしいという笑顔の素直さ、純粋さ、そういったものがワタシの心を強く打ちます。
もうこの人はそうやってつまらないことを忘れていくのだ、この世界から不必要で汚いものを払い落としていくのだ、そうしてキレイな姿になって、光の中に消えるように、ワタシにさようならを告げるのだ。
そんなヴィジョンがワタシの中にはあって、そういった幸福感が空間を照らし、満たします。
世の中に悲観にくれるようなことはあるのでしょうか。
すべての今日は、すべて明日のための階段なのではないでしょうか。
階段は、その本来の機能として降りるためのものではないとワタシは思っています。
階段は上るものなのです。
息をつきながら階段を上る、その少しの苦労と向上の汗をかく爽快感。
世の中の一切は、そのように前進しているとワタシは思っていますし、思いたいのです。
そうであるなら、なんて世界はいつも素晴らしく、これからも素晴らしいのかと。
そんな幸福感で、また、ワタシの世界は満たされます。
世の中の一切の不合理をワタシは憎みます。
世の中はキレイであるべきです。
不合理な自分を認容して、純粋に、キレイにあろうとするおばあちゃんが、
ワタシは、大好きです。
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