2009年1月30日金曜日

factotum.22

アパートに近いようなマンションの二階の、道路に面してベランダがあってそこに出る大きな窓がある部屋が、僕の住居です。

その日はちゃんとした用事があって、朝の9時には事務所に出なければならなかったので、それでも僕はいつも時間には余裕をもって生活する人間ですから、全然問題のないような早い時間に、一階へのらせん階段をクアンクアンとおりて、道路まで少し長さのある扉のないぽっかりした玄関の廊下を出ました。

すると出た途端に、左を見ると、向こうから自転車にのったカマキリが、やっぱり自転車のペダルをこぎながら、僕の前をすうっと左から右の方へと通り過ぎていきました。

自転車をこいで向こうへ進んでいくカマキリを、僕は顔を右に向けて眺めていましたら、そうですね、彼の手は「刃」ですから、その刃の形をした手がハンドルにどんどん食い込んでいきますから、10メートルも行ったところで急にバチンと音が鳴ってバタンと自転車ごと、カマキリはこけて、真横にバタンと倒れてしまいました。

近寄って上から見下ろすカマキリは、自転車が上に乗っかって苦しそうで、喘ぎ喘ぎ(もちろん声にはならないのです)こちらに顔を向けています。地面に当たっている緑の体のその側面は、かなり擦りむけているのでしょう、少し地面が赤いのです(カマキリの血は赤かったのです)

「救急車だ」

救急車が到着して、カマキリは自転車をどかされ、担架にのせられ、救急車内に運ばれようとしています。

しかしカマキリはずいぶん苦しかった、いや痛かったのでしょう、じたばたと暴れてしまって、救急車や救急員とでも呼べる人たちをバッサリとその手で切ってしまいました。

担架をかついでいた救急員が崩れ落ちると同時に、カマキリもその担架ごと地面にたたき付けられ、ガシャンという音とともに彼はグシャンとまた血を吐いて、ついには動かなくなりました。

辺りは一瞬、しんとしました。

二人の救急員と一匹の大きなカマキリが、寝そべる地面に同じように赤い血を流して、静かに沈んでいます。

彼らの薄青い服はべったりと汚れ、血がにじみ。

そうしてすうっと、穏やかですが爽やかな清涼感のある風が、僕の顔をさらさらとすり抜けていったとき、さっきカマキリに傷つけられた救急車がその深い傷から突然火を吹き、燃え出し、救急員もカマキリもその地面に染み付いた血も全部一挙に、炎の中に包み込み、そして一瞬の間に、その炎とともに全部が消えてしまいました。

包み込まれるように、空中へ。

「8時40分だ」

僕は事務所に向かって、着いて、僕が着いたすぐ後に訪れたお客さんと応対しました。

「えぇ、じゃあ次の契約は、3日後に。いえ、問題ありません、はい、じゃあ」

椅子にもたれてコーヒーを飲みました。

熱さが胃に広がる。

時間だけが過ぎていた。    

読書感想

「サイボーグ・フィロソフィー」 高橋透 NTT出版 2008年


読む価値がないとは思わないけれど、あまり効果は期待できません。


著者は、人間の脳が、その可逆性と外部環境のテクノロジーの発達にともなって、どんどん物質世界と直接に繋がっていき、我々個人は前物質=他者との間を「たゆたう」ようなメンタリティーやアイデンティティーを獲得していくと主張します。


それの証明に用いる科学実験の例はなかなか面白く、なるほどと勉強になります。


また先の、脳と対象世界のビット化による宇宙の統合とその中を自在に可変していく個、というテーマはもちろん悪くありません。一つの示唆に富むものだと思います。


ただ、彼の「攻殻機動隊」の分析は、まだいいとしても、森博嗣の「スカイ・クロラ」の分析は全くナンセンスです。


このナンセンスというのは、もちろん私の主観ですが、どうも著者は自説の論証にこの作品を強引に持っていったように見えます。


キルドレが飛行機の中で感じるあの燃えたぎる情熱は、別に彼らがテクノロジー(キルドレ)とテクノロジー(飛行機)の繋がりの中で感じるものではなく、生の継続にも死の襲来にも何の意味も持たない彼らが、それでも唯一価値があるとすれば、それは一瞬のエネルギーの爆発であり、それこそ命をかけるに唯一値するもののために命をかけるというそのチャンスへの熱烈です。


彼らは戦争を欲するのではなく、一瞬の価値の実現を願うのです。


少なくとも僕はそう思うので、彼の分析には疑問を感じざるを得ません。


また本書はそこから、ハーバーマスのサイボーグ観の紹介とその批判に移りますが、それもあまり議論の体を成してはいない。


あんまり対峙してないですね。


もっとコンパクトな提案書、であれば素敵かなと思います。


まぁ、悪くはないんですけどね。    

現象のピュアリズム

7月の海浜に寝そべりながら、あのまぶしい目もくらむ太陽に手を透かしてみる。


奇妙に縁取りが赤いぼったりとした高分子の、ムニムニしたゴムみたいな手だ。


「やりきれないけど、うん、楽しいな」


そうやって僕は体をごろんと横に起こして、右手の全体に砂粒のちくちくした心地よさを感じた。


同時にダニエル君は、街の交差点で、信号の前で、しかし信号を渡るわけでもなく、やっぱりその角のカフェのオープンテラスで、まんじりと読書していた。


デミタスカップの底にたまったとろとろした砂糖をなめる。


ここでも太陽はまぶしい。


誰が何を考えようと、何を感じようと、世界はいつも同じだ。


世界が変わって見える!だなんて、彼自身の問題だ。


世界は彼自身にしかない!なんて、何とも身もふたもない話で、そりゃそうさ。


世界の大半は変わらない、それはその中にいる人間が変わらないということだ。


今日もあのスーパーの魚屋は開くだろう、今頃魚河岸に行ってるのだろう。
ロンドンの証券取引所のアナリストは、いつも変わらず折れ線を眺めている。
僕は朝起きて、昨日の飲酒で乾いた唇に水をやる。


彼らはそのうち死ぬだろう、でも彼らみたいな人は無数に遍在している。


無限の多様性は、それでも類型されるんだ。


世界は、変わらない。


変えなければ、変わるわけがない。


誰が何を、沈んでようと、うきうきしてようと、いつも世界はピュアにある。


あらゆる現象は、僕に関係なく、生じている。


現象世界は、実はピュアににただ存在しているだけだった。


主観性の絶望と神話は、こうして崩れていきました。


あとに残るのは、生きているぼく、ただそれだけです。


生きようとする、ぼく。    

2009年1月22日木曜日

factotum.21

偉大な夕暮れと深い晩に、僕はささやかなマスターベーションをする。


放射する僕のパトスは、こうしてWebのカンバスにしみを残す。


一つの命題を、常に仮想とその反実仮想から考えて、そうしてその間でバランスをとるということがいかに個人的な価値判断に支えられているかということを、まざまざと理解すればするほど、


僕の周りの空気から、ファンタジーみたいなふわふわしたキャンディーが、遠くの壁に融けていきます。


偉大な夕暮れと書きましたが、それはその闇が晴れる明るい明日、そんな暁があると信じているから書くんです。


全部、壊れてしまえばいいのかもしれません。


くだらない雇用法制も、つまらない会社法も、馬鹿みたいな職務発明規定も。


そうすれば僕たちはもっともっと苦しむのです。


首が絞まれば、そこには何かしらの快感が見つかるかもしれません。


気絶するかもしれませんし、死ぬかもしれない。


価値判断すらないという気持ち悪い澱みのぬるま湯が、あぁ気持ち悪い。


その意味ではアメリカは、世界で一番気持ちがいい世界かもしれません。


ただ、狂気を狂気と認識することが大事なので、それが暴力にならない世界がいいですね。


合衆国日本州が出来れば、本当に"Japan as No.1"の時代が再来するだろうに。


あぁ、拡散していきます。


意識が薄れていきます。


自分と自分の行為との不一致に、


胃がキリキリと痛みます。


人はどうやら、そんなに強くはないようです。


誠実の行き場は、


やはり軽薄な自慰を生む危険をいつも孕んでいるのですね。


僕は"abortion"は修正条項の「自由」に含まれる個人の権利だ!と叫びたいだけなのです。


理屈は明白でしょう?


"viability"のテストとかいらないんですよ。


アホか。


あぁ、胃が痛い胃が痛い。


正社員なんてじゃんじゃんクビにして、派遣規制を取っ払ってしまえばいいいんだ。


そうじゃないと確実にパイが狭くなるばかりなんだから。


あぁ、胃が痛いキリキリします、この手首から先がいらない。


夢のほとんどが、気持ち悪い夢です。


晴れやかでは、ないのかもしれません。    

2009年1月16日金曜日

ディスカシオン

消したつもりの題名が、気づけばポッカリ残っていた。


じゃあ運命を感じるから、何か中身をあげましょうね。



消えるはずの感情は、行き場もないままに、さていったいどこに行くのでしょう。


消えるはずの感情なんて始めからなかったんですよ。


でも、消したい気持ちとかって、そういう言い方って、さみし過ぎるでしょう?


やり場のない自分を、どうにかやり過ごしていく生活。


いやいや、そういうの嫌いだわ。


だからあたしは、今日がいくらやりきれなくたって、明日の楽しみに向かっているの。


信じてるのよ。


でもやっぱり、沈んでるのね。


なぐさめてね。


あたし、生きてるのよ。


死んでないの。


不幸だっていうの?


違うわ、しあわせ。


こういうの、とっても幸せだって、そうなのよ。


だって、あなたと話してるんだもの。いつも


バチが当たるわ、変なこといっちゃ。


うん、きっとそうね。


じゃあね。    

2009年1月15日木曜日

飲酒の機能不全

一日の始まりは、一杯のバーボンから。


飲酒のジレンマは、常にそれが冷めるものであるということ。


どれだけ飲んでも、いつかは冷めなければいけないということ。


冷めた時には、またお酒を求めてしまうということ。


そして、体が確実に悪くなっていくということ。


そして死んでしまうということ。


それがわかっていても、飲んでしまうということ。


朝起きて荒れている胃腸を沈めるのが、バーボンの最初の機能だということ。    

2009年1月12日月曜日

私の自分主義

漱石が語った自己本位について、僕はそれほどたくさんのことを語れないけれど、


僕が僕として考える自己本位の哲学を、ここに書きたい。


これは、郵便の問題はあるけれども、紛れもないラブレターだ。



わがままを貫くことは、一つの優しさだ。


自分の決定についての責任は、自分がとりたい。引受人が他人であれば、その行為の結果について、彼は永遠に悔やむのだろう。


後悔をひとに押し付ける苦難は、耐えるに地獄である。


だから、わがままは衝突するはずであり、すべきである。


わがままの問題とは、許容の問題であり、優しさの問題である。


ここにあって、わがままを言う優しさは、わがままを許す優しさと衝突する。


優しさと優しさの闘いは、寂しさに満ちている。


お互い、何もできないからだ。


しかしそれを乗り越えるのもまた、優しさだけである。


だから、僕たちはわがままを言おうよ。


もっとわがままを押し付けよう。


無交渉の悲惨の前に、僕たちはわがままをぶつけ合おう。


無交渉の悲惨の前に、僕は泣きながら、あなたにわがままをぶつけたい。


さみしい結末が、本当に途方もなくさみしいことだけは、僕も知っているから。    

2009年1月8日木曜日

factotum.20

感傷的になることは、人間の性なのだろうか。


熱狂だの、感傷だのと、多くの感情を人間にとって不可避の本能と考えることは、人生の豊かさからの安易な逃避かもしれないが、


自分に感傷的になることが、悲劇のヒロイニズムにとても近いと思われるので、


私はそれを憎むのだが、


しかし中庸的感傷は、健康だ


という気が最近するのだ。


中庸とは便利な言葉である。


心地よくもある。


しかし中庸の実現性と可能性については、疑いがある。


人間はどうあるべきなのか。


私の私自身の投機は終わることはなく、


そして思考も留まらない。


諸行無常への反抗のために、


私は誰かを愛し、


冗舌を拒否しないのだ。


少なくとも今は、それを信じている。    

2009年1月7日水曜日

factotum.19

こんなにも眠れない夜が、あっただろうか


家族も、友もなく


愛する人が隣にいない


生きるべき明日も未来もない


孤独を、ただ寝室の寒さで感じる


そんな眠れぬ夜が、以前にもあっただろうか


眠れぬ私は、そんな夜に何をすればいいのか


眠れぬ夜の街は、眠っているのだ


どこまでも続く静寂が、私を眠らせてくれない    

2009年1月6日火曜日

factotum.18

抜け殻の語る愛こそ、中身のあるものかもしれない。


あるものは、見ることが難しい。


ないことの喪失感が、不在のリアリティを伝える。


人間の交際の外の世界で、誰かは何かを吐いている。


吐瀉物を愛すること。


それ以上に、それを吐いたその主体を愛すること。


人間の避けられない罪があるならば、それを愛することはまた否定できない。


否定できないものへの、永遠の反抗。


それこそが昔、不条理と呼ばれたものなのかもしれない。    

アタラクシアを信じて

「もう、かまわないでください。僕は、お酒と時間がない世界に行きたいんです。あなたたちの手に引っぱられるのは、いやなんです。そういう目で、見ないでください。期待しないでください。僕は今、一人で考えているんだ。あなたたちの前に出たら、僕は何かを話さなくちゃいけないんでしょう?黙ることは許されないと、僕自身が言わなくちゃいけないなんて、ひどい、残酷ですよ。ねえ、お願いです、しばらくの時間、見捨ててください。僕は帰ってきます。きっと素敵な笑顔を見せられます。そのときは、おかえり、っていってください。ね、それが僕のお願いなんです。それ以外、望んだことなんて、なかったじゃないですか!」


ダニエル君は、そう訴えたかった。誰に?彼はそれを全員に向けて届けたかったのだ。理解してほしかった。そういうことが許されるのは罪ではなく、私たちには必要なのだと。貧しい者も豊かな者もなく、私たちには大事なことなのだと。それはプロレタリアの言いわけではなく、またブルジョアの余裕でもないと。


それがあることは、通常の健康なのだと。    

謹賀新年。

2008年を終えて、そして2009年を迎えて、僕が学んだこと。


「この世界の絶望に対する唯一の希望は、誠実であろうとすること、である」

「自分のドラマは、人間の永遠の課題と矛盾である」

「昨日の言いわけは、しない」

「熱狂に向かう存在としての人間、というヒューマニズムの可能性」

「様々な乱数を抱えながらも、静謐な日常を意識し、努力する」


明けました。おめでとうございます。