2009年2月16日月曜日

そのままの意味で「書かれたもの」の可能性

街路を駆け抜ける自転車の疾走感を、映画は客観視できるが、しかし自身のことのようにはそれを感じることはできない。

背中を熱くする初夏の日差しや、少しべたつく汗がしかし自転車のスピードに比例して体を擦り抜けていく颯爽とした風の心地よさと混ざり合って、呼吸が少し荒くなる。

そんな自転車に乗る主人公の感覚を、もちろん客観的描写であれば読み手は彼を傍観するのだけれど、いかに三人称で書かれたものでも読み手には彼の身体を自分の体として感じる作用を逃れられない。

彼は私ではないが、彼は私によって存在する。

読書が時間を場所についてしばしばその要求をつきつける理由は、それがとても私自身を積極的に引き受けるからである。

映画も同じだが、確かにそれは各々の行為についての考えから不確定だが、であるが。    

2009年2月13日金曜日

factotum.25

これは、その少ない生涯を通じて自分にとって何かについて語るということはそれはフィクションという形でしか成就されないということを考えた人間の、あるときある空間において思った、ある時代のある片隅で襲われた恐怖と悲哀、つまりは自己憐憫と言い訳である。

私の人間関係の空白は、もって一ヶ月が限界です。それはつまり濃密なコミュニケーションの問題であり、純粋なセクシュアリティの問題でもありますが、いやだから言い換えましょう、えぇそうですね確かに私の女性空白についての話でした、失礼、つまり私はだいたい5週間を超えて女性と精神的な肉体的なコミュニケーションを交わさないことで非常に深いパラノイックな自己悲壮と他者求愛に落ち入るのです。それはもはや外形的に惨めとしか言いようがなく自身の人間交際上の魅力をそのパラノイアのせいで大きく損ない、またそうした負の連鎖にはまり込んでいくわけですが、それを打破する契機もまたランダムであり、つまりは自分の選択と責任、自分自身の力の問題になるのです。マチズモかもしれませんが、やはり結局男とは男根主義的であり、男根のないところの男性には男性も女性も考えられないのです。つまり男性も女性もなくただ人間が存在するという不幸ですね。男性と女性の性差と付き合うわけではなく。こういったことについての批評が昔から十分されましたけれど、結局それは自身の性性の未熟です。遺伝子的、慣習的という言葉はあまり好きではありませんが、ここがハイエクと私の決定的な差異でしょう、人間的偏狭をいかに解消するかという問題をちゃんと考える姿勢が私たちには必要だと思います。
話が変わってしまいました、つまり私が人に対してパラノイア、そして女性にたいしてもパラノイアであり、その結果自分自身がスキゾフレニアになってしまうということです。自分の目の前の世界と身体の内奥がその距離をどんどん広げていき、遠い声と遠い部屋だけが私を捉え、私はその中に囚われる。その私にとってその私は何とも可愛いのですが、その日はもう終わるための日でしかありません。一刻の猶予もありません。壊れた私を、私は壊さなければ。徹底的に、完璧に、眠りの世界に落とさなければダメです。そうでなければパラノイアの私は他者へと徘徊し、スキゾフレニアの私はその徘徊先と全くコミュニケーション不可能であり、そこで生まれる深い絶望がまたも私の異常なルーチンをその速度を倍加させていく。本当に壊れてしまう。これをフィクションにしなければ、虚構の破壊にしなければ。
そうしてお酒を飲む私を私は愛しています。その愛は憎しみであり憤怒であり、激情である。それは私を愛してくれた人たちと私の憤怒であり、そんなものを仮構し経由し自身を表現する仰々しい自分への憤怒でもあります。ただただ逃避するためのフィクションをこうして紡ぐのです。バーボンの後はワインです。入浴しながら私は半狂乱になって、わめきさわぎワインを飲み干します。ベッドで私を待つのは何でしょうか。ペンでしょうか、音楽でしょうか、何か高尚な話でしょうか。みんなと愛し合いたい私の愛は、本当に愛という名の代物なのでしょうか。

こういう人間は「ライ麦」が好きだ。あれは男の子の特権なのだろうか。女性は果たして自己崩壊を涙に着陸させられるのか。女性は本当に潔く死ぬのかもしれない。男も死ぬ。死ぬ男と死ぬ女が世の中にはいるだけだ。死にゆく、しかし複雑な感情を覚えてしまった個体たちは、その作り上げるものすべてが美しい。美しい個体たちは、今日もつまらない雑事に泣いている。    

文士の政経談

国会中継を見ても、そしてあらゆる真面目な人たちの議論を見ても、

そこには気持ち悪さと、心からの絶望が漂うだけなので、

(まさに「地獄への道は、善意で敷き詰められている」!!)

ここでは何の意味もないが、僕自身の政治経済論的スタンスをしたためることにしよう。

ーー

一般に「派遣切り」はけしからん、全員を正社員とすべきだ、また、内部留保を溜め込む資本家と株主たちブルジョアジーに対して、搾取された弱者である労働者の階級闘争を是正しなければならないといった風潮についてのナンセンスを提起し、それについて疑義を挟みます。

まず、派遣切りのサブスタンシャルな問題は、労働需要の低下であり、GDPの低下であります。全体的なパイの縮小の結果を誰が「かぶる」かという問題であり、それは強者/弱者の議論ではありません。彼らがクビにされやすい弱者であるのは、日本の雇用法の問題であり、戦後一貫して正社員を極度に擁護していきた判例の問題です。企業は正社員をクビに出来ないから、派遣を雇い、時事の経済状況へのバッファの役目にするのであって、それは階級闘争というよりは、ノンワーキング・リッチ(天下り官僚のご年配がいい例でしょう)と、新世代の世代間闘争にまだ近いものです。使えない高級取りの正社員をクビにして、新たな新人を雇用すれば、雇用需要の総数は飛躍的に増えます。
「じゃあ、クビになった正社員はどうなるんだ」という意見については、高給取りの年配はさておき、確かにギリギリの正社員が非正規社員に落とされることがあるかもしれません。ここで自己責任や個人の問題を問題にしても仕方在りませんが、しかしそれは雇用の流動性が極端に低い日本社会の弊害です。たとえば福祉の分野において人が足りない、農業で足りないという現象が顕在しているのに、一方では人が余る。働く口はあるわけです。大事なのは今まで企業が担ってきた「共同体」の役割を、それが崩れてしまったということを素直に認めた上で、どのように社会的に構築するかということ。生活保障というのが最も悲惨な人生であり、それによって国民は救われないということ。セーフティーネットというのは、快適なベッドではなく、弾力的で友好的なトランポリンであるべきです。

日雇い派遣の規制の先にあるものは、派遣労働者の即刻解雇と、新規正社員採用の縮小、それに変わる労働力は海外で調達し、生産業務の全てを国内外で、もしくは外部にアウトソーシングするという企業戦略です。
結局派遣規制は、全体的な労働分配を矮小化し、資本の国外流出を促進させるだけです。これはグローバリゼーションが悪い訳ではなく、そのグローバリゼーションのマイナス面だけを積極的に引き受けている政府の政策が悪いのです。

最後に格差社会ですが、日本にはもちろん格差がありますが、今現在のような程度の格差に生きていけないのなら、本当にそれは死ぬしかないのでしょう。餓死するということがありえない国で(ときどきニュースになりますが、あれはもはや自発的なwillなのではないかと思います。ホームレスの生活ってけっこう豊かで、コミュニティーもしっかりしてる。しかも餓死がニュースになるんですから)、格差を声高に叫ぶ恥ずかしさ。チフスで死に、コレラで死に、狂犬病で死に、ゾウに踏まれて死に、それでもニュースにすらならない国に、そんな国のガッツに、どうやって国際競争していくのか。現に誰も国外逃亡(海外で仕事を探すというオプション)をしてないということは、日本がそんなに悪くないからでしょう。

これは現状肯定とは違います。現に問題は内需拡大ですし、そんな超マクロな経済政策に僕は何もコメントできないですから、せめて雇用の流動化を、せめて本当に、馬鹿みたいな雇用規制が現実にならないことを願うのです。

つまり僕の信条はこうです。

「地獄への道は、善意で敷き詰められている」

彼らは本当に日比谷公園の500人を可愛そうだと思ったのです。その背後の何十万人を無視して。

「合理主義的設計主義は、絶対に失敗する」

社会主義と全体主義、そしてケインズ的経済政策の果てにあるのはプラトン流の哲人政治です。
人類とはもっと阿呆で馬鹿で無知なのです。
大事なのは制度であり、目標ではない。
「各人が各人の求めるところに、必要なものを」実現する社会の自由を保障する制度こそが国家の役割です。
なぜならもはや「大きな物語」はないのだから。

ーーー

これは文士の政談であり、経談だ。

ドガがクレマンソーに語ったことが笑い話のように、これも自己満足のおとぎ話かもしれないが、

僕は最近信念をこめて、こういう社会スタンスをとっている。    

2009年2月9日月曜日

factotum.24 ~reimport

(原題「通常人は、かくもカオティックな夢を見るか?」)

仕事が終わって家に帰る。
いきなり保健所の抜き打ちだなんて、くそ野郎だ。

PCをスリープから起こして、ほんの1秒でメールの確認をしてくださいという確認のアイコンが映る。

英文のタイトルと文章だ(以下和訳)
「私はいつもあなたの承認によって生きているのよ」
「つれなくしてごめんなさい、愛してる」

ところ変われば時間は夜中の2時。
職場でいつもどおり、カウンターでワインを開けてる。
つまみはハードサラミと生のベーコンにマスタード。
晩飯のスズキはグリルして、ペルノーでフランベ。
これで十分だ、ホールの若い奴と一緒だとついつい飲み過ぎる。

店のドアの前で音がする。
酔っぱらった若い連中が、ビールのジョッキ片手で騒いでいる。
ドアを叩く、わめく。
どうやらうちのホールと知り合いらしい。
ホールのやつはそいつらをドアのガラス越しに眺めながら、視線の先に哀れを飛ばし、ゆっくり酒を飲んでいる。

また部屋だ。
シャワーを浴びよう。
うわ、何だ、ハチミツ?冗談じゃない、今日は6日だぞ?お湯は出ないにしても、普通に水が出る日だろ。
髪の毛から上半身からつま先にかけてベタベタさせながら、冷蔵庫にクリップで留められた「配水表」を確認する。
『ハチミツの過剰生産のため、2/6〜9の間の配水はハチミツとなります。ご協力お願いします』
まぁ、いい、寝よう。

ベタベタなハチミツのせいか、それとも自分の睡魔のせいか、俺はベッドに溶け込んでいく。本当に文字通り溶け込んで、体の半分は沈み込んでいる。

右手のひじの周りがぱらぱらと、めちゃくちゃに小さい蠅や蛾が無数に舞うように、はらはらはらはら空中に分解していく。古ぼけて腐って、また古ぼけて塵になっていくミイラのイメージだ。
だんだん骨が見えて、自分の体はきれいな骸骨になっていく。
ケタケタ笑うその頭蓋骨の自分を想像し、その想像にケタケタ笑った。

実際的なすぐそこの現実未来と自己想像のイメージとのループの中に閉じ込められた俺は、ずっと笑い続けるのだろう。

見えるものなど何もない、視力を失い視界も失い、ただイメージだけを焼き付けて、その焼き付きは一生離れずに、

俺は笑い続けるのだろう。

そんな俺を考えると、おれはまた笑ってしまう。
笑って笑って笑い続ける俺を、俺は想像し、また笑うのだ。

どっかのlaughing manみたいに口が裂けるまで。

はは、お笑いだな。

目が覚める。

晴れてる。    

2009年2月1日日曜日

factotum.23

毎日スコッチばかり飲んでいると、だんだんそれが麦茶みたいになってくる。

科学的に考えても、確かに当たり前といえば当たり前か、な。

サイバーパンクの小説を読みながら、僕は自分の舌の感覚、口中に広がる風味や苦みを、そんな風に形容している自分をまた意識した。

やっぱり、あらゆる真実はフィクションであり得るという疑惑を晴らせない以上、文学にこそ「絶望した人間は希望的なヒューマニズムの夢を見るしかないのだろうか?」ということになるのだろうか、な。

舌先の輪郭が、蒸留酒の気化とともに痺れる。


舞台の比喩というのは、あれは汗と冷や汗の相互世界なんだ。踊る阿呆に、見る阿呆。子役と保護者のオーディション。見栄を切り、目を切り、面子切り。本番前には、ちゃんと膝にアザを作って、お客さんの前で言い訳しないと、そうして自分を作るんです。お酒だってそう、いざってときのために、日々飲んでるんです、飲みたくもないのに、準備体操ストレッチに余念がありません。いつでも、どんとこい、どんなハプニングもきっと素敵にしてみせましょう。


溺れる世界で、人はふつうにちゃんと溺れていく。

そして浮き上がり、心地よい窒息観とともにまた深い深い方に溺れていく、美しく、醜く。

「溺れ」という世界の構図を見ている人間の不幸は、それでも彼も溺れずにはいられないという宿命を逃れられないこと。

耽溺に溺死し甦生し、窒息し解放され、新鮮な空気の新鮮さをあらためて知る幸福と疲労。


日々はまさに、かくの如しであります。