街路を駆け抜ける自転車の疾走感を、映画は客観視できるが、しかし自身のことのようにはそれを感じることはできない。
背中を熱くする初夏の日差しや、少しべたつく汗がしかし自転車のスピードに比例して体を擦り抜けていく颯爽とした風の心地よさと混ざり合って、呼吸が少し荒くなる。
そんな自転車に乗る主人公の感覚を、もちろん客観的描写であれば読み手は彼を傍観するのだけれど、いかに三人称で書かれたものでも読み手には彼の身体を自分の体として感じる作用を逃れられない。
彼は私ではないが、彼は私によって存在する。
読書が時間を場所についてしばしばその要求をつきつける理由は、それがとても私自身を積極的に引き受けるからである。
映画も同じだが、確かにそれは各々の行為についての考えから不確定だが、であるが。
0 件のコメント:
コメントを投稿