これは、その少ない生涯を通じて自分にとって何かについて語るということはそれはフィクションという形でしか成就されないということを考えた人間の、あるときある空間において思った、ある時代のある片隅で襲われた恐怖と悲哀、つまりは自己憐憫と言い訳である。
私の人間関係の空白は、もって一ヶ月が限界です。それはつまり濃密なコミュニケーションの問題であり、純粋なセクシュアリティの問題でもありますが、いやだから言い換えましょう、えぇそうですね確かに私の女性空白についての話でした、失礼、つまり私はだいたい5週間を超えて女性と精神的な肉体的なコミュニケーションを交わさないことで非常に深いパラノイックな自己悲壮と他者求愛に落ち入るのです。それはもはや外形的に惨めとしか言いようがなく自身の人間交際上の魅力をそのパラノイアのせいで大きく損ない、またそうした負の連鎖にはまり込んでいくわけですが、それを打破する契機もまたランダムであり、つまりは自分の選択と責任、自分自身の力の問題になるのです。マチズモかもしれませんが、やはり結局男とは男根主義的であり、男根のないところの男性には男性も女性も考えられないのです。つまり男性も女性もなくただ人間が存在するという不幸ですね。男性と女性の性差と付き合うわけではなく。こういったことについての批評が昔から十分されましたけれど、結局それは自身の性性の未熟です。遺伝子的、慣習的という言葉はあまり好きではありませんが、ここがハイエクと私の決定的な差異でしょう、人間的偏狭をいかに解消するかという問題をちゃんと考える姿勢が私たちには必要だと思います。
話が変わってしまいました、つまり私が人に対してパラノイア、そして女性にたいしてもパラノイアであり、その結果自分自身がスキゾフレニアになってしまうということです。自分の目の前の世界と身体の内奥がその距離をどんどん広げていき、遠い声と遠い部屋だけが私を捉え、私はその中に囚われる。その私にとってその私は何とも可愛いのですが、その日はもう終わるための日でしかありません。一刻の猶予もありません。壊れた私を、私は壊さなければ。徹底的に、完璧に、眠りの世界に落とさなければダメです。そうでなければパラノイアの私は他者へと徘徊し、スキゾフレニアの私はその徘徊先と全くコミュニケーション不可能であり、そこで生まれる深い絶望がまたも私の異常なルーチンをその速度を倍加させていく。本当に壊れてしまう。これをフィクションにしなければ、虚構の破壊にしなければ。
そうしてお酒を飲む私を私は愛しています。その愛は憎しみであり憤怒であり、激情である。それは私を愛してくれた人たちと私の憤怒であり、そんなものを仮構し経由し自身を表現する仰々しい自分への憤怒でもあります。ただただ逃避するためのフィクションをこうして紡ぐのです。バーボンの後はワインです。入浴しながら私は半狂乱になって、わめきさわぎワインを飲み干します。ベッドで私を待つのは何でしょうか。ペンでしょうか、音楽でしょうか、何か高尚な話でしょうか。みんなと愛し合いたい私の愛は、本当に愛という名の代物なのでしょうか。
こういう人間は「ライ麦」が好きだ。あれは男の子の特権なのだろうか。女性は果たして自己崩壊を涙に着陸させられるのか。女性は本当に潔く死ぬのかもしれない。男も死ぬ。死ぬ男と死ぬ女が世の中にはいるだけだ。死にゆく、しかし複雑な感情を覚えてしまった個体たちは、その作り上げるものすべてが美しい。美しい個体たちは、今日もつまらない雑事に泣いている。
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