2008年9月30日火曜日

shift the future.

移り行くものは、多い。


僕が、そうだ。


僕というのが、幾つもの僕なるものたちの一つの総体として現れているとすれば、


それら一つ一つが、まるでダルマ落としのように、外的刺激によって飛び出ては、また生まれてくる。


物理的にいっても3ヶ月もすれば、僕を構成する有機物は、もはや別物なのだ。


つまりは、雰囲気なのか。



移り行くものは、多い。


僕が、そうだ。    

血糖値の問題?

この二日ほど、

やっぱり自分をある世界に連れて行きたくなって、

アルコールを過剰に摂取していました。


それは空腹を忘れるための行為でもあったのですが、


おかげで今日はすこぶる体がわけがわからない。


蓄積した毒素を排出するかのようにお腹を壊し、

脳みその演算機能が低下して、くらくらして、

身体のどこが悪くてどうすればいいのか、全く把握できない。


今やっと落ち着きましたが。


別にこれは自己憐憫でも何でもなく、かといって警告でももちろんなく。

何かを書きたかった、のです。


年々体が衰えてきます。

まだ21なのに。こんなことをいうザマ。


「自慢すんな」


いや、だから違うんだって。    

2008年9月26日金曜日

air pocket.




Robert MondaviのWood Bridge. カベルネ・ソーヴィニヨンは、トマトソースのハンバーグによく合う。

タマネギとナツメグの甘み、スパイスの風味に、カベルネの渋みがとてもバランスが良い。

料理とワインのマリアージュって、こういうことなのか。と、はじめて知りました。





青山通りをぶらぶらしていると僕は、僕自身とこの世界の両方がふわふわしてふわふわして、どうでもよくなってしまう。

と、昔に書いた。


本当に、今はそんな気分だ。


終わらない日常を生きることへのメッセージを描いた作家がいるが、

僕は日常がそんなに静態的だと思わない。


むしろ、これから続いていく日常をどう生きるか。

そういうことが問題だ。


つまりはカミュが、自殺するかしないは最大の問いにしたように。    

2008年9月10日水曜日

ぶんぴつ。

文章を書くということに対して、


私はずっと、脱構築気取り、でありました。


現代における現代的で洒脱な表現は、ということから、ばかみたいにポンポンと、言葉、文法的規則ですね、それを省略して、跳ねさせること、そんなことを意識していました。


そんな阿呆な建前を打ち出して、つまりは面倒くさいことをサボりたかっただけなのです。


詳細に記述することは骨が折れるからと、人に伝えること、コミュニケーションとかの誠実さを繰り返しておきながら、そんなやましいことを考えていたのですね。


卑しい。


しっかり、書かなければなりません。


それは冗長とは違うと思います。


しかし私は、冗長とか洗練とか箴言とか、そういった文筆における諸概念を考え直さなければならない、もう一度リセットして、自分の中で生み出して、積み上げなければならない。


「何をまた気取ってやがる」


すべてのすてきなものの形容詞に「美」がつくのであれば、それを追求するのが義務であると、気負っているのです。    

2008年9月9日火曜日

私小説こそ。

太宰治と、荒木経惟が好きです。


つまりは私小説、それに準ずる独白や肉迫した生/性/死、そういうものが好きなのかもしれません。


なぜ私小説なのか。


私小説の、そのセミフィクションとでもいうような物語とその背景をめぐる混惑的な陶酔の興奮と魅了でしょうか。


私は決して私小説にはリアリティが、などとはいいませんが、ある種の私小説芸術におけるアプローチに、おそらく真実だと思われるようなリアリティーが宿り、私にそう感じさせるというのも事実でしょう。


しかし太宰は、その句点の付け方に、
アラーキーは、その作品世界の強度とその写真科学に、


確固とした技巧の高さがあります。


しかしそれも「私小説であるからの自然な表出さ」と無頼に扱えるところに、やはり美学が宿るのかもしれません。


なに、自分の中の最大公約数の、またはそれに近いものの一つを見つけた。


そんなちょっとした喜びを、書いてみたかったのですよ。    

2008年9月8日月曜日

生意気な若者。

スズメバチが、自分の足下くらいの高さのところを、さらさらと飛びながら、ちょっと地面に降りて、またひゅらひゅらと飛んでは着きを、繰り返している。

ハチ、やだなぁ。何してんだろか。

と、よく見てみる。

なるほど彼は、ちっちゃいアリを食っていたのだ。

かじっては捨て、かじっては捨て、そうして彼はちょこちょこつまんでいたのだ。

下品だなぁ。恐いやつだなぁ。

そう思った。

でも突然に、0.5秒の瞬間に、「いやいやお前も同じだよ」と言われ、私は私に頭をぐいと空に持ち上げられた。

ぶどうの葉っぱみたいな、ぶどうじゃない木の葉っぱが、きれいだった。

ひとつひとつがきれいに並んで、きれいに重なって、太陽をチラチラさせて、きれいだった。


おいしいものや、ある種の感性の美学とか、そういうものを考えていると、世の中はこんなにも細かいということを、こんなにもキレイだということを、発見されるんだろうか。


そんな感動に、少し囚われた。

もちろん、ぼーっと歩きながら。    

2008年9月4日木曜日

目的としての、友達。

あらま、重いタイトル。

ーーーーー


他人を「手段」として扱うのではなく、「目的」として扱え。

カントの有名な言葉ですね、これくらいしか僕は知りません。

この言葉の真意もしらない僕ですが、僕なりには「なるほどなぁ」と思っています。


僕は、常に「あなた」に向かって動き、「あなた」に出会い、「あなた」と語らい、「あなた」と「わたし」を共有する。

(この「あなた」は、僕のあらゆる友人諸君です)


それがさ、たとえばさ、


XがYに会いに来た。

Xが「どうした?」と聞く。

Yは「〜ということがあって」

しかしXはYと話す中で、「これはきっと、自分ではなくてもいいんだな」と思った。

そして、Yはそのことを明言しないが、やはりそうらしい。


このケーススタディは、必ずしもそれが悪いことだというものではないよね。

いろんな理由と、いろんな形があるのが、人生です。


でも、やっぱりなんていうかな、Yは「Xじゃないといけない」っていう漠然とした気持ちがあるべきだと思います。

そうじゃないと、何も生まれないし、何も出来ない。

不健康な雰囲気と気持ち、だもの。


なんていうか、ね。


またも僕の「誠実」概念の登場ですが、

人に対して、ちゃんと向き合うことが、一番ステキなことだと、

大声で叫びたい。よね。


ぐわ〜


やっぱりカントってかしこいよね。

この言葉は、いい言葉です。    

2008年9月1日月曜日

昨日と今日のお昼ご飯。




お昼ご飯。

トマトとナスのアーリオ・オーリオ。

ゴーヤの塩焼きそば。


某友人のお家で習った「塩ダレ」。

帰宅して早速作りました、サラダ、まねしました。

この焼きそばにも使用。

ちょー美味。


ありがとうございました☆