2008年11月30日日曜日

factotum.8

自由意志と理性を欠き、

環境と自らの生理機構という完全な生理システムの反応の連鎖によって、ということであるならば、

確かに人間は、「酔って」「吐いた」とき、その存在の裏打ちを失い、

「者」ではなく「物」、になるのかもしれない。


しかしそれを認めた上で、それでも私は斯様に反論したい。


人は、物になる自由を持つのである。


いわばそれは方法論的懐疑にも匹敵する強度を備えた、自己への辛辣な挑戦であり、

すなわち安吾が「堕ちよ」といった、まさにその言葉への忠実な解釈と能動的行動なのである。


安易な堕落と、笑い嘲ることなかれ。


堕落とは、声高に語るものにあらず。

ひっそりと慎みと恥をもって、おのが全身に堪えるものなり。


"reverse"とは"rebirth"であるなどとそのような使い古された常套句に頼らずとも、我々は生まれ変わりながら堕ちてゆく。


もちろん彼は、彼を救えないかもしれない。


そのときは、恥じよ、しかる後に死ね。


もはや君は死んでいるのだ。

その過程を、生きたのだ。


そして、人間は死なない。


死んでもいいが、やはり死んではいけないのだ。    

factotum.7

そうやって 日々は過ぎ行くのですね。


卒業写真の あの人は


懐かしい顔をしています


人と人との間なんて


全ては忘却されゆくこと


だからといって


あの時は あの時


今は 今


過ぎ去りしは 永遠に 消え


今成りしも また 過ぎ去りし    

2008年11月26日水曜日

The Game of Ender.

今年のボジョレーは、2004年くらいから脈々と続く好評価の中で、それでも抜群に旨いもの、ですね。

鶏と水菜の水炊きに、とっても品が良くて、かつ、若いワインによくありがちなあの「そこの抜ける感じ」がなく、しっかりと最後までそのフレッシュではありますが豊かな余韻を、僕たちの感覚の全体へと広げてくれます。

この数年に作られたワインたちが、いつかそれぞれの飲み頃を迎え、人間達はその瞬間の奇跡を逃すまいとぱたぱた追っかけなくっちゃいけないのだわと思うと、スノビッシュだって何だって、そんなことどうでもよくなりますね。

歴史に乾杯。

それはそうと、モンダヴィのシャルドネの、ちょっといいやつ、も飲みました。

ああいう口当たりのシャルドネは初めてでした、まろやか。

でもちゃんとシャルドネなんだよね、偉大なるモンダヴィ。


さて、そんなちょっと似合わないことを言わせていただいて。


「エンダーのゲーム」(" Ender's Game ")っていう本を読みました。

sgssのお父さんに、この夏、薦められたもので、最近小説をまた読み出すようになってからずっと探し続けてたんですけれど、

昨日見つけまして、

読みました。


僕はこういう、人間描写のリアリティが、好きです。

もちろんそれは主観なんですけれど、自分がそう感じるものが好きということです。

SF小説の醍醐味は、人間の人間が「持ち得るだろう」と考えられる「あり得るだろう人間性」を、0からの虚構の中で組み立てる、見せていく、というところにあるのかもしれません。

だから結構奇想天外って好きです。江戸川乱歩だって、奇妙ですよね。でも人間が、です。


Game、なんですが。

僕はこの本についての論評とかそれこそ色んな言説の中で、ゲーム性みたいなのを、現実/虚構、その反転みたいな感じで扱うのって、いやそれは言葉としては正しいんだけど、たとえば「現代社会のいびつ」みたいな形で、しかもそれを作品解説に当てはめるのって、少し単純で、貧しくて、やっぱり間違ってるかなぁ、と思うんです。

Gameは別に現代社会に限ったものではないんですよね、その存在は。

ただ現代のテクノロジーが、ゲームっていう虚構の世界を用いて現実システムを動かせるような、そういったリンクを可能にした。

すると虚構と現実が不可分なものになった。

それは、別に現実を虚構の中で生きているということとは、違うんじゃないかな。

虚構っていうのは、僕らの頭の中の全てですよね。

現実っていうのは、多分「みんなが、そうだろうと信じている」了解の手触りでしょう。

ならそこで、たとえばバイオハザードのシミュレーションは、

思考の延長であり、外部化して可視化したもの、でしかないでしょう。

たしかにプレイする他者性が、自分に生まれてしまうけれど、でもそれもシミュレーションですよね。

トランプするのも、変わらない。


シミュレーション/自分の死


唯一可能な二項対立の構図、因果の構図は、これじゃないかな。

じゃあ別にスーパーファミコンがどう、とかいう話ではないよね。

ボードリヤールもマクルーハンも知りませんよ。

デカルト趣味ですね〜、って言われるかもしれません。


でも、そんな違和感を、いわゆる〜な言説に、感じたんですよね。


(お父さん、とってもおもしろかったです。続編も読みたいと思います。)    

2008年11月23日日曜日

コノ、りありずむ。

12 58

今日彼が目を覚ましたときの、彼のケータイの待ち受け画面がそれだった。

適当な時間には六本木に行かなくてはならない、そうはわかっていたが前夜に酒を飲み過ぎた。

カラオケは、よくないなぁ。ぽりぽり

うなじを掻きながら、そしてベッドの上でうっぷしたまま、スチュアート・コニグスバーグはぼんやりした目を開けていた。

シャワーを浴びようかと思って、やめた。それも酒のせいだと言えばその通りだが、時間もなかった。

肋骨が痛い。倒れるように寝ていたせいで体が圧迫されていた。

歯を磨き髪の毛をやり、橙色のポロシャツにデニムをはきPコートを着れば、ふざけた生活の寝起きでも、それなりに見える。

むしょうに腹が減るのでコンビニでサンドウィッチを買い、ホームで食べ、電車に乗った。

酒が、苦しい。

彼はそうして寝起きから1時間を使い、どうにか冷静な自己認識と、記憶との格闘と反省という状況にまで、自分をもってきた。

天気は、快晴。太陽はこんな日に限って、やってくる。

新宿での乗り換えを歩いていると、ケータイが鳴った、いや、正確には鳴っていたケータイに気づき、かけなおした。

「どうした?」

「昨日のメール見た?」

「あー見たね、でも無理、その後酔っぱらったから。何だった?」

「ディズニーランド。その日、空いてる?そっちに行くの」

「その日に限って、特別授業だ」

「そう。わかった。じゃあね」

こんな日に限ってうれしい電話は鳴り、そんな日に限って都合は合わない。こんな、そんなには彼くらいの年になれば少しは慣れてくるのだろう。しかし彼はやはり、彼自身にむしゃくしゃした。

都営大江戸線の天井の低さは、そんな彼でも少し自分に自信が持てるような、そんなつまらない錯覚をさせた。

車両の中で少し離れたところに、もたれ掛かって足を組んでいた白人が、かっこよかった。

あとの話は簡単だ。

六本木に着き、イベントに顔を出し、部外者を演じ、また腹が減る。

建物の地下にはいろいろな食べ物屋があって、彼は蕎麦が食べたかった。

「蕎麦ダイニング ○○」という小洒落た店に入った。

こういう蕎麦屋は、こういうところのイタリアンよりも、虚しい。

ビールが半額だというから、彼はビールを頼み、ビールが来、口をつけ、女優の書いたエッセイを少し読んでいる間に、蕎麦が来た。

大根おろしが、胃に優しく、添えてあったスダチを絞れば、これが旨かった。

東京タワー、けやき坂。何もかもが光に包まれ、みんなが思い思いのカメラで、自分たちを取っていた。

彼はあらゆる人に目を配り、あらゆるものを観察し、捉えた。

広がる世界の全てを、スチュアート・コニグスバーグは自分自身に結びつけてしまっていた。今の彼にはそれは、もうどうしようもなかった。

逃げるように、彼は本屋に入った。

本を買い、コーヒーを飲み、本を読む。

そしてまた、電話が鳴った。

予定の中にもなかった予定は、そのまますっかりなくなった。

彼は外に出て、鞄からiPodを取り出した。

iPodを聞くときは、歩くときである。

彼はずいぶんと早足で、たくさんのものを通り過ぎた。

それが今日の彼が選んだ、今日の世界との向き合い方だった。

六本木、乃木坂、外苑通り、赤坂、青山、表参道。

自分をドラマの中心に持ってきたかったかどうか、それは彼自身にもわからなかったが、今日自分が初めて行った意味のある行動だと、彼がそう感じたことは事実だった。

また本屋に入り、チャールズ・ブコウスキーを買った。

表参道駅の改札の中にある紀伊国屋で、おにぎりと、缶のシャンパンを買った。

彼はそれを電車を待つホームで腹にいれたが、ふと、苦笑してしまった。

「よく食うな。しかも2回も、ホームで」

電車が止まり、遅れ、家に着いたのは10時だった。

帰りに買った総菜を食べ、それから先は何も考えることもなくウイスキーを口に入れながら、時間を過ごし、夜を過ごす。

彼がパソコンに向かい、こんな文章を書いたとしても、今日という一日を考えればそれは無理もない話だった。

これまで流れていった今日と、これから流れていくだろう今日を思うと彼は、また苦笑いした。    

factotum.6

昨日の酒のいいわけをしない


ガキだとか男だとか、そんな話じゃない


渋い顔で、頭の悪いニヤけた顔で、そんな顔しか作れないくそ野郎


それが今日の俺だろう


煙草が吸えないことを、呪うぜ


眉間にシワで横向けに、目だけは机で、手でも動かせば、


それでけっこう、決まるんだ


酒を飲んだときの俺


飲み過ぎてグラグラになってる俺


それが本当の俺なんだよな


な、そうなんだよな


おい スコッチが甘ぇよ    

2008年11月21日金曜日

factotum.5

最近の日課、というか、お昼ご飯の話だ。

知っている人は知っていると思うが、知らない人はおそらく知らないと思うので一応言っておきましょう。

僕は、結構食べ物に気を使う。

自分が何を食べたいか、太る太らない、誰かと食べるならその誰かさんは何を食べたいのか。

もちろん暴飲暴食もたまにはあるが、それでも気を使う方、である。

まぁ、自分と食べ物、という話をしだせば、くどくどとふざけた話が続いてしまうので、そういう展開にはしない。

お昼ご飯の話、だ。


僕は最近、水菜を、買う。
(僕は妹に恋をする、みたいな雰囲気で声に出して欲しい)

ご存知の方はご存知であろうが、ご存知でない方はご存知でないと思うので一応言っておくが、水菜は、何か非常にヒラヒラとした透明なパッケージで、いくつかの束が、やんわりと包まれて、売られている。

そんな水菜を買う僕なのだが、それとともに何かしらの魚介も買う。(貝とかエビとかイカとか、ツナ缶とか)

そして、家に帰り100g前後のパスタを茹で、

アーリオ・オーリオ・ペペロンチーノを作るのだ。


な〜んだ、と思われる方は思われるだろう。

知っている人は知っているだろうが、そんな人間は何人もいないと思うのでこれは言わなければならないだろう、なんせペペロンチーノといば我が家の名物、なのだ。

ある時は塩のひとつまみコショウのひとふり、スープの量のほんの少しに至るまで最大限のかつ最高に繊細な注意を払い、ある時はアルコールの極限状態の中格闘し、翌日の朝台所を見て昨夜の自分の行動に感心し、「あぁ多分酔っぱらいの作った料理など、妙に塩気が多かったに違いない。後輩よ、すまん」、などと様々なシチュエーションで、時には600gもの量のフライパンをふり、そうして我が家はペペロンチーノを作ってきた。

まぁそれを食べている、という事実がまたすごいと思う。


「そんなペペロンチーノをお昼に作っている、という話を、なぜお前は今ここで取り上げるのだ?」


違うのである。

なんと、100gのパスタに、買ってきた魚介を適量と、買ってきた水菜を全部、入れるのだ。


「ん?」


まぁ、確かにそれだけの話なのだけれど、これは非常に完成度が高い。

野菜を食べたい現代人、小さな頃から便秘になやまされている食物繊維信望者、しかし「メシを食う」という行為の満足を捨てることの出来ない男子としての性。

そんな自分の中のたくさんの自分を、この「水菜一本!ペペロンチーノ」は満たしてくれるのである。


水菜一本、というのは本当に気分の問題だ。第一僕は、あのスーパーに売られている一包まれの水菜をどのようにカウントしたらいいかわからない。一輪、一束、わからない。

よって「一本!」ということにした。一本!という単位は、いや強引に単位にしたのだが、ともかく一本!はその意気込みがいい。

「たくさん 入ってんだぜ」

と、何ともニヒルな笑みとともに、しかし男気とそのボリュームを感じる。

これはそんなに柔道一直線な表現ではないのだ。

食べると何か、自分に筋の通ったような、そんな感覚さえ覚える。

水菜一本!、私はやられているのだ。


ともかくそんな昼飯を、くだくだと、食っているのだ。
(まぁ、野菜はかさも減るので、以外に普通に食えるのだ。おすすめなのだ)    

2008年11月20日木曜日

factotum.4

販売期限、賞味期限、消費期限。

もういくつかの期限が過ぎたのだろうかという、カチカチのガトーショコラを、私は今食べている。

期限期限と重ねることで何かおもしろいものが書けるのではないかと思った私は、立派につまらない人間だ。

さて、そんなシニカルな態度を見せることで「あら、スノビッシュじゃん、いけてんじゃん」などと、まったくバカにされてるのか、それとも全くのバカに本当に褒められてる、という逆説的なバカにされ方をしているのか、などと、もう本当にどうでもいい言語空間を生んでしまったような感じの文章を今ここに生んでしまったのだが、もはやこの一文には続きはない。

今の問題は、私が今途方もなくやるべきことから逃げている、ということだ。

連絡、課題、まったくもって、ふざけんなこのヤローだ。
(この「ヤロー」は言うまでもなく、私だ)

そんな私は、今たくさんの小説を読んでいる。

そんなたくさんの小説が、私の思考の志向を破綻させていく。

と、別に彼らのせいにする訳でもなく、ともかく近頃私の見る夢は、腐っている。

腐っているというのは、実に私がよく現れていて、清々しいということだ。

ともかくこれはつまらない文章ではない。

事実を書いているのだから!!

(なれないことは、しないほうがいい。見事にやっぱりつまらない。)    

2008年11月18日火曜日

愛しのマッチョ。

D「まぁ、適当に座りなさい。いや、君はいかんよ。君はあれだろ、世の中の女性がみんな、君のそのウインク、たとえばの話だ、君のウインクなどしらんが、そういうものにかかるとだね、何か恋のきっかけみたいなものが生まれると、そんな過信をしとるだろう?そういうタイプの人間だろう。いかんよ、まったく。身の破滅だ。」

S「それも仕方ないとは考えていただけませんか、先生?何しろ私はずっと女性に対してコンプレックスを抱いてきているのです。あの、僕のいかにも童貞、というような一挙手一投足の全部を冷たくさらってしまうあの目線に僕は恐怖と魅力を感じずにはいられないのです。美しいものに、自分の性力、すみません、なんて下劣な言い回しでしょうか!セックス・アピールです、ええこの方がずいぶん洗練されていますね、ともかくそういう自分の勢力をぶつけるのは我々人間の義務でしょう?それもこれも全部、自分がモテない、っていうそのことから来ているんです。機会の獲得なくして利潤なし、とは、先生がいつも講義でおっしゃることではないですか」

D「それは君、根本的に間違っている。市場というのはもっと健全な思考の健全な失敗と、いくつかの成功に支えられているのだ。君のその姿勢はね、それは、やぶれかぶれ、というものだよ。そんな自暴自棄を、経済学は扱わない。まぁ、あえて断定するなら、だがね!」

S「しかし僕は、正真正銘堂々と向き合っているつもりですよ。ある種の工学を駆使して、なんて滅相もないです。僕は正当な男根主義者ですよ」

D「それみてみなさい!ボロが出たじゃないか!何で君はいつも私にメフィストフェレスをやらさせるのだね!本来なら私が哲学者先生の首座をしめるべきなんだ。それが君、いつまでも私が突っ込む側だから、みたまえよ、この2日間の君の姿を!全く迷惑の権化ではないか。それもこれも、君のその主人公面がいけないのだよ。君、ドラマじゃないんだよ、君の人生なんて。我々はみんな平凡なのだ。特別な人間なんていないのだよ!」

S「あきらめないね!僕はやりますよ、やってみせるんだ。それは先生、あなたも道連れですよ!」    

2008年11月13日木曜日

factotum.3〜恋に落ちれば〜

人は詩人だ。


失礼。


彼、彼女が一番「揺さぶられること」「不安定にされること」


そのとき人は、歌うのだ。


私の中に、メロディーが生まれ


あなたの言葉が、比喩になる


世界が律動に彩られ


すべてが赤く、落ち込んでいく。


200年冷凍睡眠したあなたに聞く。


人生で唯一信じられることは?


「SEXと死だ」


さすが、ユダヤの先生。    

2008年11月11日火曜日

factotum.2

文章や仕草素振りが女性口調のときほど、僕は調子がいい。


そういう時の僕は、桃井かおりの気分であり、


「カポーティ」のフィリップ・シーモア・ホフマンなのだ。


映画のキャラクターに救われるときって、多い。


実際の人間や、パンチのある人物の描かれたシナリオって好き。


華やかでも、くさくさしてても、人生が転がってるじゃない。


そんなふうにお酒飲みたいわね、とか


いいわよね、そういう朝って、みたいな。


日常に、とっても敏感になってしまいますもの。


洗い物一つするのも、何か気分が違うじゃない。


「あらやだ」


とか、つぶやいちゃたりね。


はははは


おばかちゃんよね    

2008年11月7日金曜日

factotum.1

若さが酷いのは、それが言葉を望むからだ


彼は知っている


「 俺が今日高らかに歌いあげるこの讃歌を


  明日の俺は必ず恥じるだろう 」 と


二つの道が、彼の前に伸びていく


老いるのを待つのか、それとも恥をかき続けるか


彼は知っている


自分が、どちらの道を歩いていくのかを


「 お前に、出来るのか 」


神が聞く


大丈夫だ


彼のポケットにはウイスキーの小瓶があり


そして、友がいる


彼は精一杯に赤面を紛らわせ


友とともに、そしてその友たちのために、道を歩む


陳腐なことと笑ってもいい


それが彼の引き受けた道なのだ


人生は一度も、


そのただ一言を言うための。