自由意志と理性を欠き、
環境と自らの生理機構という完全な生理システムの反応の連鎖によって、ということであるならば、
確かに人間は、「酔って」「吐いた」とき、その存在の裏打ちを失い、
「者」ではなく「物」、になるのかもしれない。
しかしそれを認めた上で、それでも私は斯様に反論したい。
人は、物になる自由を持つのである。
いわばそれは方法論的懐疑にも匹敵する強度を備えた、自己への辛辣な挑戦であり、
すなわち安吾が「堕ちよ」といった、まさにその言葉への忠実な解釈と能動的行動なのである。
安易な堕落と、笑い嘲ることなかれ。
堕落とは、声高に語るものにあらず。
ひっそりと慎みと恥をもって、おのが全身に堪えるものなり。
"reverse"とは"rebirth"であるなどとそのような使い古された常套句に頼らずとも、我々は生まれ変わりながら堕ちてゆく。
もちろん彼は、彼を救えないかもしれない。
そのときは、恥じよ、しかる後に死ね。
もはや君は死んでいるのだ。
その過程を、生きたのだ。
そして、人間は死なない。
死んでもいいが、やはり死んではいけないのだ。
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