時事問題とかニュース性のあるものに意見を言うのは、
プロパーでない限りは、かなりリスキーであると思うのです。
自分にとっても、表象する「ぼく」にとっても。
ーーー
薬害肝炎のニュースが出るたびに、かわいい女の人が出る。
暴力的な言葉に聞こえたらごめんなさい。もちろんそういうつもりはない。
福田衣里子さん、という人だそうだ。
実名を公表されている方が少ないからなのかもしれないけど、
けっこうね、恣意的に彼女が映像の中に「選ばれている」ふうに見える。
そこにメディアの気持ちの悪さ、イヤらしさを感じるよ。
明らかに「ニュース」が描く、政治、病気、悲劇という「大きな物語」の中で翻弄される「かわいい女の子」という、神話への感動を誘っているもの。
神話というのは適切ではないかもしれないけど、明らかにジャーナリズムが伝統的な物語の語り方の中で、今回の事件を「食ってる」感じをイヤというほど感じてしまう。
うがっているかもしれないが。
そういう世界だし、一方的にマスコミがというつもりはないけれど、
(だって、みんなそういう了解のもとに立ち振る舞っているのだもの、上手くも下手でも)
やな感じがした。と、まぁそれだけなのだけど。
やっぱり難しいな、こういうの書くのは。
2007年12月20日木曜日
やまとなでしこ
再放送していますね。
見ています。
この一週間ほど。
おもしろいね。
ーーーーー
ショッピングにいきました。
クリスマス関連。
楽しい世界、ステキなセカイ。
ーーーーー
ヒルズで、蜷川実花の展示がやってました。
買ってからしばらくするmoleskinは、
やっぱりその伝説性のせいなのかその品質風格のせいなのか、
ぼくを誘惑し、誘発し、触発し、
そして、ぼくはつれづれと頭の中を書き綴る。
ニナミカの写真は、「キレイ」だ。
その「キレイ」は、その写真内にある要素から、生まれる。
上の二つを決定とし、仮定として。
彼女の写真の一つのタイプは、その人物、写された人(主人公)の「顔」以外を、全て景色の世界に送ってしまう。
そして顔とそれ以外の身体は、主人公自身のポージングによって、かつ、カメラの視点(+フォーカス)によって、世界内に距離、倒錯が作られ、後ろの世界に送られる。
もう一つの類型は、全てを景色に送るものだ。
撮ろうとする要素を全て一つの世界、さきに後ろの世界と呼んだ世界にしてしまう。
しかし彼女の写真は、彼女と私たち観覧者とのあいだにある「主人公たちの写真」という暗黙の了解認識のもとの出来事であるから、畢竟そこにおいて人間は、純粋な景色になり得ない。
後ろの世界の住人となりえない主人公は、つまりそのまま私たちの注意を引き、「顔」を出す。
この二つの類型のうち、前者のよい例は持田香織と草間彌生のそれであるし、後者は緒川たまき、Aliceの中に見いだされる。
例外として菅野美穂は、その両要素を持つかのように、私の前で立ち振る舞った。
安良城紅は、だから全くもう機能しない作品であるし、最もおもしろくない。(彼女自身の問題ではない)
色彩について語られる彼女の作品は、その世界性とともに語られる豊かさを持つんじゃないかな。
moleskinの功罪だね。
ーーーーー
読むことについて語ること。
文法や、目の前に広がる当たり前の言語事象は、
すべて「=人間」だ。
自明であればあるほど、それがぼくらの、ぼくら自身の投影としての優秀さを語る。
文法を詳しく学ぶとき(中学生)、そんなことに気づいていたらおもしろかったろうな。
「詩」を、その音韻や言葉の辞書的意味、統語規則下の振る舞いなどについて、バラバラに解剖するやり方がある。
あんなに嫌いなことはなかった。大嫌いだった。
ただ、僕たちの「感動」というのは、理路整然とするときないときに関わらず、無意識下での最大級のショックとしてある。
そこでやはりさきの解剖学的読解を登場させる。
詩人はその修練と天才とでもって、私たちの無意識(=文法)を自在に扱うという「無意識の秘技」をサラリとやってのける。
書き手も通常の読み手も、そこに文法を感じる必要はない。漠然とした感動、抽象表現による感動発表がもちろんだ。
しかし、そのような無意識をめぐる表現と感動の一連のストーリーとしての「書くー読む」の現象では、解剖読解にその価値を認める領域があることが認められるだろう。
文法、統語規則、音韻論、その他その言葉を巡るあらゆる表象、意味背景は、
すべてぼくたちの「無意識」の言い換えである。
解剖読解を、絶対だと主張するのは暴力であり、そんな文壇世界は暴力装置である。
であるが、それがひとつの主張であり、あらゆるものとの相対として、その強度でもって自らを主張するならば、
そこには豊かな実りが開かれているだろう。
通常の世界(これも乱暴かもしれない)に沿うもう一つの大きく豊かな流れとしての解剖読解。
今ではその世界で戦うぼくがいるのです。
ーーーーー
mixiにだせるやつは出してみよう。
あぁ、安いやつめ(笑)
昨日、飲み過ぎました。
成人してからの毎年が、
ぼくの飲み方を最悪にしていきます。
いくようです。
ぽわ〜ん。
見ています。
この一週間ほど。
おもしろいね。
ーーーーー
ショッピングにいきました。
クリスマス関連。
楽しい世界、ステキなセカイ。
ーーーーー
ヒルズで、蜷川実花の展示がやってました。
買ってからしばらくするmoleskinは、
やっぱりその伝説性のせいなのかその品質風格のせいなのか、
ぼくを誘惑し、誘発し、触発し、
そして、ぼくはつれづれと頭の中を書き綴る。
ニナミカの写真は、「キレイ」だ。
その「キレイ」は、その写真内にある要素から、生まれる。
上の二つを決定とし、仮定として。
彼女の写真の一つのタイプは、その人物、写された人(主人公)の「顔」以外を、全て景色の世界に送ってしまう。
そして顔とそれ以外の身体は、主人公自身のポージングによって、かつ、カメラの視点(+フォーカス)によって、世界内に距離、倒錯が作られ、後ろの世界に送られる。
もう一つの類型は、全てを景色に送るものだ。
撮ろうとする要素を全て一つの世界、さきに後ろの世界と呼んだ世界にしてしまう。
しかし彼女の写真は、彼女と私たち観覧者とのあいだにある「主人公たちの写真」という暗黙の了解認識のもとの出来事であるから、畢竟そこにおいて人間は、純粋な景色になり得ない。
後ろの世界の住人となりえない主人公は、つまりそのまま私たちの注意を引き、「顔」を出す。
この二つの類型のうち、前者のよい例は持田香織と草間彌生のそれであるし、後者は緒川たまき、Aliceの中に見いだされる。
例外として菅野美穂は、その両要素を持つかのように、私の前で立ち振る舞った。
安良城紅は、だから全くもう機能しない作品であるし、最もおもしろくない。(彼女自身の問題ではない)
色彩について語られる彼女の作品は、その世界性とともに語られる豊かさを持つんじゃないかな。
moleskinの功罪だね。
ーーーーー
読むことについて語ること。
文法や、目の前に広がる当たり前の言語事象は、
すべて「=人間」だ。
自明であればあるほど、それがぼくらの、ぼくら自身の投影としての優秀さを語る。
文法を詳しく学ぶとき(中学生)、そんなことに気づいていたらおもしろかったろうな。
「詩」を、その音韻や言葉の辞書的意味、統語規則下の振る舞いなどについて、バラバラに解剖するやり方がある。
あんなに嫌いなことはなかった。大嫌いだった。
ただ、僕たちの「感動」というのは、理路整然とするときないときに関わらず、無意識下での最大級のショックとしてある。
そこでやはりさきの解剖学的読解を登場させる。
詩人はその修練と天才とでもって、私たちの無意識(=文法)を自在に扱うという「無意識の秘技」をサラリとやってのける。
書き手も通常の読み手も、そこに文法を感じる必要はない。漠然とした感動、抽象表現による感動発表がもちろんだ。
しかし、そのような無意識をめぐる表現と感動の一連のストーリーとしての「書くー読む」の現象では、解剖読解にその価値を認める領域があることが認められるだろう。
文法、統語規則、音韻論、その他その言葉を巡るあらゆる表象、意味背景は、
すべてぼくたちの「無意識」の言い換えである。
解剖読解を、絶対だと主張するのは暴力であり、そんな文壇世界は暴力装置である。
であるが、それがひとつの主張であり、あらゆるものとの相対として、その強度でもって自らを主張するならば、
そこには豊かな実りが開かれているだろう。
通常の世界(これも乱暴かもしれない)に沿うもう一つの大きく豊かな流れとしての解剖読解。
今ではその世界で戦うぼくがいるのです。
ーーーーー
mixiにだせるやつは出してみよう。
あぁ、安いやつめ(笑)
昨日、飲み過ぎました。
成人してからの毎年が、
ぼくの飲み方を最悪にしていきます。
いくようです。
ぽわ〜ん。
2007年12月19日水曜日
じゃあ、いちおう言っとくよ。
21才になりました。
祝ってくれなかった人、呪います(うそよ)。ぐすん。
では、抱負を。
20才は、「落ち着け」でした。
無理でした。
21才は、「がんばれ」です。
現実的な気がします。
2007年12月19日は「パンツ記念日」。
もらったのです。
以上、しゅうりょう。
祝ってくれなかった人、呪います(うそよ)。ぐすん。
では、抱負を。
20才は、「落ち着け」でした。
無理でした。
21才は、「がんばれ」です。
現実的な気がします。
2007年12月19日は「パンツ記念日」。
もらったのです。
以上、しゅうりょう。
2007年12月15日土曜日
mixi's trilogy is over.
やっぱりこれでおしまいに。
自己紹介のところいURLはありますから、
ご愛読いただける方は、そう お願いします。
ーーーー
お風呂にありったけの快楽を。
あたりめ、Early Times、i Pod、アロマオイル。
沸騰する熱情を、あらゆる欲望が昇華させ、また反省させる。
そんなナルシシズムとも自己憐憫ともつかない、自己愛情。
ーーーーー
日常の精神性こそ、日本だ。
ある真理に向かってすべての事象を意味づける、解読する社会とは違い、
日本は確実に、各人の現前に現出する各人の世界の中に、各人なりの絶対(かつ謙虚な)真実を探す。
すべてのものをある絶対的な精神、法則の現出と見る点、というと、両者の間に相違はないようだが、
それは、絶対的な精神をその事象の客体に見るか、それ自身を主体にしてそこに見て取るか、という点によって異なる。
茶に、茶自身の宇宙を見。
武士に、それを階級や制度とは離れた存在として、その存在性を見。
そして、最も重要なことは、そこで完結しているという事実だ。
誰がそこから"Japanese Mentality"など定義したか。
無用で、かつ認められる超越的な水平面がそこにある。
すべてを「自然」のその「ある性」、
かつすべての事象を「自然」とするその「ある性」、
そしてそこに「ある」とするその「彼自身のある性」。
それらが Japanese の基本的な Style=文体 ではないのか。
だとして
この表徴の帝国を考えよう。
ね。
だからこんな世界があるんじゃないかな。
岡崎京子がいるんじゃないのかな。
かく記号を記号として考えずに、各人への帰属であり、かつ逆転して信念システムになる世界。
そこにぼくらの「すごさ」がある
と、思います。
ーーーーーーー
何日かしたら、ちゃんとリンクしなくします。
では。
よい週末を。
NHK。
自己紹介のところいURLはありますから、
ご愛読いただける方は、そう お願いします。
ーーーー
お風呂にありったけの快楽を。
あたりめ、Early Times、i Pod、アロマオイル。
沸騰する熱情を、あらゆる欲望が昇華させ、また反省させる。
そんなナルシシズムとも自己憐憫ともつかない、自己愛情。
ーーーーー
日常の精神性こそ、日本だ。
ある真理に向かってすべての事象を意味づける、解読する社会とは違い、
日本は確実に、各人の現前に現出する各人の世界の中に、各人なりの絶対(かつ謙虚な)真実を探す。
すべてのものをある絶対的な精神、法則の現出と見る点、というと、両者の間に相違はないようだが、
それは、絶対的な精神をその事象の客体に見るか、それ自身を主体にしてそこに見て取るか、という点によって異なる。
茶に、茶自身の宇宙を見。
武士に、それを階級や制度とは離れた存在として、その存在性を見。
そして、最も重要なことは、そこで完結しているという事実だ。
誰がそこから"Japanese Mentality"など定義したか。
無用で、かつ認められる超越的な水平面がそこにある。
すべてを「自然」のその「ある性」、
かつすべての事象を「自然」とするその「ある性」、
そしてそこに「ある」とするその「彼自身のある性」。
それらが Japanese の基本的な Style=文体 ではないのか。
だとして
この表徴の帝国を考えよう。
ね。
だからこんな世界があるんじゃないかな。
岡崎京子がいるんじゃないのかな。
かく記号を記号として考えずに、各人への帰属であり、かつ逆転して信念システムになる世界。
そこにぼくらの「すごさ」がある
と、思います。
ーーーーーーー
何日かしたら、ちゃんとリンクしなくします。
では。
よい週末を。
NHK。
気にしちゃうなぁ。
mixiに気づいてもらえる
のは、いいんですが、
僕のblogって、以前から読んでいただいてる人にはお分かりだと思うんですが、
急に、ボワッと湧いてくるでしょう?
一日5件とか。
だからmixiになると迷惑ですよね。
一日1個でも、
僕だったら嫌だもの。
だから、なるべく抑えてやろうと思うのです。
けれど、それでもダメなら、
またリンクは切りましょうね。
寂しいけど(笑)
あと、やっぱり内容を気にしちゃいます。
うける、ように、みたいな。
だから、やっぱり切りましょうね。
寂しいけど(笑)
ーーー
実例によって「語る」のって、あまり好きになれません。
もちろん大事ですし、ぼくにもっとも足りてないし、確実に必要な要素なのです。
でも、実例(実際的なコンテンツ)をたくさん体験してる人って、
考え方がスマートじゃないんですよね、と見えるんです。
悪い意味で、ドロドロ泥臭くて。
いいものに触れてるのに、拾い上げられてない。
何を言いたいのか、わからない。
量で「しか」示せない(それも大事です)
もちろん、思考の枠組みばかり勉強しても、ダメなんです、わかってるんです。
でもやっぱり。
それは両輪だから。
それが知性だから。
ボードレール、ブルトン、バルザックを読んで、
は いいんだけど、
それをその内部から その土俵(狭い土俵)からしか扱えないというのが
その姿が、
見た目に しんどい。
それを様々なコンテクストや領域で語ることは、
ただ単にキッチュであったりする場合もあるだろうけど、
そこにある知性の輝きは 否定されえない と思うのです
別に新しい角度を示せ ということばかりを言いたいとかではありません。
世界で一番キレイな一瞬のインテリジェンスの一太刀。
それが僕は好き。
かつどんなものにも転用可能で、尻込みしない知性ね。
まぁこの文章が、そもそもスマートじゃないっていうね。
ふぅ、難しいな。
あ、これは学者の世界の話ね。
職人の世界とは違います。
(また、雑なことを。この話はそのうち)
ーーー
やっぱりそのうち、ちゃんと、切ります。
それまでは我慢をさせてしまうかもしれませんが、
おつきあいください。
のは、いいんですが、
僕のblogって、以前から読んでいただいてる人にはお分かりだと思うんですが、
急に、ボワッと湧いてくるでしょう?
一日5件とか。
だからmixiになると迷惑ですよね。
一日1個でも、
僕だったら嫌だもの。
だから、なるべく抑えてやろうと思うのです。
けれど、それでもダメなら、
またリンクは切りましょうね。
寂しいけど(笑)
あと、やっぱり内容を気にしちゃいます。
うける、ように、みたいな。
だから、やっぱり切りましょうね。
寂しいけど(笑)
ーーー
実例によって「語る」のって、あまり好きになれません。
もちろん大事ですし、ぼくにもっとも足りてないし、確実に必要な要素なのです。
でも、実例(実際的なコンテンツ)をたくさん体験してる人って、
考え方がスマートじゃないんですよね、と見えるんです。
悪い意味で、ドロドロ泥臭くて。
いいものに触れてるのに、拾い上げられてない。
何を言いたいのか、わからない。
量で「しか」示せない(それも大事です)
もちろん、思考の枠組みばかり勉強しても、ダメなんです、わかってるんです。
でもやっぱり。
それは両輪だから。
それが知性だから。
ボードレール、ブルトン、バルザックを読んで、
は いいんだけど、
それをその内部から その土俵(狭い土俵)からしか扱えないというのが
その姿が、
見た目に しんどい。
それを様々なコンテクストや領域で語ることは、
ただ単にキッチュであったりする場合もあるだろうけど、
そこにある知性の輝きは 否定されえない と思うのです
別に新しい角度を示せ ということばかりを言いたいとかではありません。
世界で一番キレイな一瞬のインテリジェンスの一太刀。
それが僕は好き。
かつどんなものにも転用可能で、尻込みしない知性ね。
まぁこの文章が、そもそもスマートじゃないっていうね。
ふぅ、難しいな。
あ、これは学者の世界の話ね。
職人の世界とは違います。
(また、雑なことを。この話はそのうち)
ーーー
やっぱりそのうち、ちゃんと、切ります。
それまでは我慢をさせてしまうかもしれませんが、
おつきあいください。
2007年12月14日金曜日
mixiに、気づいてもらえた。
このblogも、mixiに反映されるようになったみたいです。
足跡が急に増えてびっくりしました。
ってことは、今度からはちゃんとしたことを書かないとね。
悪いもんね。
ーーー
風邪を引きました、みたいです。
松尾スズキが、
「心配されるの、大好き」
みたいなことを書いていました。
「松尾さん、顔色悪いね」「お父さん、大丈夫?」
とか。
「足が悪いときに、堂々と町中をびっこを引いて歩けるなんて!」
「さいこー。」
とか。
まぁ、読んでみて。
じゃぁ、僕も恥ずかしながらconfessすると、
その通り、納得。
僕の場合、心配されるのが、というよりも、
「風邪ひいてるのにがんばってる自分、あぁほめてやりたい」
「こんなときこそがんばっちゃおー」
「これで疲れてぐっすり寝る、充実感〜」
という感じです。
松尾さんのはもっと高尚な次元だからいいんだけど(そうしとこう)
僕のはもっと低次な快感情だから、
もう、さすがに、なくなってきました。
少なくとも今日はない。
普通に授業への切迫感に追い立てられただけ。
ちょっと大人になったということなの?これ。
子供がどういう存在か定義するなんて、暴力的でチープなことはしませんけど、
子供がステータスを持たない、他人からの評価に自分のconfidenceを依拠する存在ならば、
(結局するんかい!)
その自信を「べっつに、いいも〜ん」と自分の中に放り投げて、よくも悪くも生きていくのが大人
ですか?
そこには、自分から自分への客観的な評価による自信と、
自分にもう「慣れっこ」になってしまったダメ性(悪くはないよね)
が、悲しくも彩りよく混在しているのだけれど。
と、思うのだけれど。
僕の文章って、先走ってるんですよね。
優しくない。
あ、ナルシシズムじゃぁありません。
本当にそう思うんです。
伝えることに 優しくない人間が
よくも記号社会を「伝えて生きる」なんて宣言するもんだ。
やだやだね〜。
で、ちゃんと書かなきゃで書いたのがこれ。
やだやだだね〜。
足跡が急に増えてびっくりしました。
ってことは、今度からはちゃんとしたことを書かないとね。
悪いもんね。
ーーー
風邪を引きました、みたいです。
松尾スズキが、
「心配されるの、大好き」
みたいなことを書いていました。
「松尾さん、顔色悪いね」「お父さん、大丈夫?」
とか。
「足が悪いときに、堂々と町中をびっこを引いて歩けるなんて!」
「さいこー。」
とか。
まぁ、読んでみて。
じゃぁ、僕も恥ずかしながらconfessすると、
その通り、納得。
僕の場合、心配されるのが、というよりも、
「風邪ひいてるのにがんばってる自分、あぁほめてやりたい」
「こんなときこそがんばっちゃおー」
「これで疲れてぐっすり寝る、充実感〜」
という感じです。
松尾さんのはもっと高尚な次元だからいいんだけど(そうしとこう)
僕のはもっと低次な快感情だから、
もう、さすがに、なくなってきました。
少なくとも今日はない。
普通に授業への切迫感に追い立てられただけ。
ちょっと大人になったということなの?これ。
子供がどういう存在か定義するなんて、暴力的でチープなことはしませんけど、
子供がステータスを持たない、他人からの評価に自分のconfidenceを依拠する存在ならば、
(結局するんかい!)
その自信を「べっつに、いいも〜ん」と自分の中に放り投げて、よくも悪くも生きていくのが大人
ですか?
そこには、自分から自分への客観的な評価による自信と、
自分にもう「慣れっこ」になってしまったダメ性(悪くはないよね)
が、悲しくも彩りよく混在しているのだけれど。
と、思うのだけれど。
僕の文章って、先走ってるんですよね。
優しくない。
あ、ナルシシズムじゃぁありません。
本当にそう思うんです。
伝えることに 優しくない人間が
よくも記号社会を「伝えて生きる」なんて宣言するもんだ。
やだやだね〜。
で、ちゃんと書かなきゃで書いたのがこれ。
やだやだだね〜。
2007年12月13日木曜日
2007年12月11日火曜日
2007.12.11
今わりと僕は 空っぽ なんです
ソト世界に自分をさらし続ける さらしていると
いつも そうなりますね
それが蓄積期であるとか受容器であるとか、潜在期であるとかなんとかいうのはつまらないし そうかもしれないけど考えてもしかたないことです
そのとき楽しい が 僕の唯一の基準です
楽しいって何よ というところにこの理屈の可能性が開かれています
何を訴えるわけではないけれど そういうときなのです という話です
というか
自分に向かってないんだな
いろいろ考えることはあるんです
勉強のこととかなんとかいろいろ
でもそれは直接の対話者が自分じゃないから
表層的自分であって、より深いところの というか
もっと「何者でもない自分」という自分じゃないから
空っぽなんです
でもそれで虚無感を感じる僕は
ろくな生き方
生産的な生き方できないでしょうかね
でもこうやって
ソト世界的「楽しい」を楽しむ僕は
やっぱり僕っぽく生きるのです
ソト世界に自分をさらし続ける さらしていると
いつも そうなりますね
それが蓄積期であるとか受容器であるとか、潜在期であるとかなんとかいうのはつまらないし そうかもしれないけど考えてもしかたないことです
そのとき楽しい が 僕の唯一の基準です
楽しいって何よ というところにこの理屈の可能性が開かれています
何を訴えるわけではないけれど そういうときなのです という話です
というか
自分に向かってないんだな
いろいろ考えることはあるんです
勉強のこととかなんとかいろいろ
でもそれは直接の対話者が自分じゃないから
表層的自分であって、より深いところの というか
もっと「何者でもない自分」という自分じゃないから
空っぽなんです
でもそれで虚無感を感じる僕は
ろくな生き方
生産的な生き方できないでしょうかね
でもこうやって
ソト世界的「楽しい」を楽しむ僕は
やっぱり僕っぽく生きるのです
2007年12月9日日曜日
ピエロ - 素顔なんてないの
ピエロ、道化であることにまつわるエトセトラ。
を、
tossyと話します。
「立ち回ること」の、自転車性。
ピエロが重複したときの、安心感と困惑(やることないじゃない〜感)
ピエロの功罪、それは「場」にたいしての確信犯的な愉楽の提供と、同時のストレスの発生。
そういうピエロ論、おどけ論を、
背景と出自の異なる二人の間で展開させました。
というところでの僕の、一言は。
ピエロとしての僕の結論的一言は、
「ごめんなさい」
というところになります。
あなたもピエロ論に参加しましょう。
そしてピエロ理論のもとの、あなたの結論を。
素顔はあります、見せるか見せないか、というだけです。
僕は、「見せるピエロ」です。
を、
tossyと話します。
「立ち回ること」の、自転車性。
ピエロが重複したときの、安心感と困惑(やることないじゃない〜感)
ピエロの功罪、それは「場」にたいしての確信犯的な愉楽の提供と、同時のストレスの発生。
そういうピエロ論、おどけ論を、
背景と出自の異なる二人の間で展開させました。
というところでの僕の、一言は。
ピエロとしての僕の結論的一言は、
「ごめんなさい」
というところになります。
あなたもピエロ論に参加しましょう。
そしてピエロ理論のもとの、あなたの結論を。
素顔はあります、見せるか見せないか、というだけです。
僕は、「見せるピエロ」です。
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