2007年12月20日木曜日

やまとなでしこ

再放送していますね。


見ています。


この一週間ほど。


おもしろいね。

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ショッピングにいきました。


クリスマス関連。


楽しい世界、ステキなセカイ。

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ヒルズで、蜷川実花の展示がやってました。

買ってからしばらくするmoleskinは、

やっぱりその伝説性のせいなのかその品質風格のせいなのか、

ぼくを誘惑し、誘発し、触発し、

そして、ぼくはつれづれと頭の中を書き綴る。


ニナミカの写真は、「キレイ」だ。

その「キレイ」は、その写真内にある要素から、生まれる。

上の二つを決定とし、仮定として。

彼女の写真の一つのタイプは、その人物、写された人(主人公)の「顔」以外を、全て景色の世界に送ってしまう。

そして顔とそれ以外の身体は、主人公自身のポージングによって、かつ、カメラの視点(+フォーカス)によって、世界内に距離、倒錯が作られ、後ろの世界に送られる。

もう一つの類型は、全てを景色に送るものだ。

撮ろうとする要素を全て一つの世界、さきに後ろの世界と呼んだ世界にしてしまう。

しかし彼女の写真は、彼女と私たち観覧者とのあいだにある「主人公たちの写真」という暗黙の了解認識のもとの出来事であるから、畢竟そこにおいて人間は、純粋な景色になり得ない。

後ろの世界の住人となりえない主人公は、つまりそのまま私たちの注意を引き、「顔」を出す。

この二つの類型のうち、前者のよい例は持田香織と草間彌生のそれであるし、後者は緒川たまき、Aliceの中に見いだされる。

例外として菅野美穂は、その両要素を持つかのように、私の前で立ち振る舞った。

安良城紅は、だから全くもう機能しない作品であるし、最もおもしろくない。(彼女自身の問題ではない)


色彩について語られる彼女の作品は、その世界性とともに語られる豊かさを持つんじゃないかな。


moleskinの功罪だね。

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読むことについて語ること。

文法や、目の前に広がる当たり前の言語事象は、

すべて「=人間」だ。

自明であればあるほど、それがぼくらの、ぼくら自身の投影としての優秀さを語る。

文法を詳しく学ぶとき(中学生)、そんなことに気づいていたらおもしろかったろうな。

「詩」を、その音韻や言葉の辞書的意味、統語規則下の振る舞いなどについて、バラバラに解剖するやり方がある。

あんなに嫌いなことはなかった。大嫌いだった。

ただ、僕たちの「感動」というのは、理路整然とするときないときに関わらず、無意識下での最大級のショックとしてある。

そこでやはりさきの解剖学的読解を登場させる。

詩人はその修練と天才とでもって、私たちの無意識(=文法)を自在に扱うという「無意識の秘技」をサラリとやってのける。

書き手も通常の読み手も、そこに文法を感じる必要はない。漠然とした感動、抽象表現による感動発表がもちろんだ。

しかし、そのような無意識をめぐる表現と感動の一連のストーリーとしての「書くー読む」の現象では、解剖読解にその価値を認める領域があることが認められるだろう。

文法、統語規則、音韻論、その他その言葉を巡るあらゆる表象、意味背景は、

すべてぼくたちの「無意識」の言い換えである。

解剖読解を、絶対だと主張するのは暴力であり、そんな文壇世界は暴力装置である。

であるが、それがひとつの主張であり、あらゆるものとの相対として、その強度でもって自らを主張するならば、

そこには豊かな実りが開かれているだろう。

通常の世界(これも乱暴かもしれない)に沿うもう一つの大きく豊かな流れとしての解剖読解。

今ではその世界で戦うぼくがいるのです。

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mixiにだせるやつは出してみよう。


あぁ、安いやつめ(笑)


昨日、飲み過ぎました。


成人してからの毎年が、


ぼくの飲み方を最悪にしていきます。


いくようです。


ぽわ〜ん。    

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