再放送していますね。
見ています。
この一週間ほど。
おもしろいね。
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ショッピングにいきました。
クリスマス関連。
楽しい世界、ステキなセカイ。
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ヒルズで、蜷川実花の展示がやってました。
買ってからしばらくするmoleskinは、
やっぱりその伝説性のせいなのかその品質風格のせいなのか、
ぼくを誘惑し、誘発し、触発し、
そして、ぼくはつれづれと頭の中を書き綴る。
ニナミカの写真は、「キレイ」だ。
その「キレイ」は、その写真内にある要素から、生まれる。
上の二つを決定とし、仮定として。
彼女の写真の一つのタイプは、その人物、写された人(主人公)の「顔」以外を、全て景色の世界に送ってしまう。
そして顔とそれ以外の身体は、主人公自身のポージングによって、かつ、カメラの視点(+フォーカス)によって、世界内に距離、倒錯が作られ、後ろの世界に送られる。
もう一つの類型は、全てを景色に送るものだ。
撮ろうとする要素を全て一つの世界、さきに後ろの世界と呼んだ世界にしてしまう。
しかし彼女の写真は、彼女と私たち観覧者とのあいだにある「主人公たちの写真」という暗黙の了解認識のもとの出来事であるから、畢竟そこにおいて人間は、純粋な景色になり得ない。
後ろの世界の住人となりえない主人公は、つまりそのまま私たちの注意を引き、「顔」を出す。
この二つの類型のうち、前者のよい例は持田香織と草間彌生のそれであるし、後者は緒川たまき、Aliceの中に見いだされる。
例外として菅野美穂は、その両要素を持つかのように、私の前で立ち振る舞った。
安良城紅は、だから全くもう機能しない作品であるし、最もおもしろくない。(彼女自身の問題ではない)
色彩について語られる彼女の作品は、その世界性とともに語られる豊かさを持つんじゃないかな。
moleskinの功罪だね。
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読むことについて語ること。
文法や、目の前に広がる当たり前の言語事象は、
すべて「=人間」だ。
自明であればあるほど、それがぼくらの、ぼくら自身の投影としての優秀さを語る。
文法を詳しく学ぶとき(中学生)、そんなことに気づいていたらおもしろかったろうな。
「詩」を、その音韻や言葉の辞書的意味、統語規則下の振る舞いなどについて、バラバラに解剖するやり方がある。
あんなに嫌いなことはなかった。大嫌いだった。
ただ、僕たちの「感動」というのは、理路整然とするときないときに関わらず、無意識下での最大級のショックとしてある。
そこでやはりさきの解剖学的読解を登場させる。
詩人はその修練と天才とでもって、私たちの無意識(=文法)を自在に扱うという「無意識の秘技」をサラリとやってのける。
書き手も通常の読み手も、そこに文法を感じる必要はない。漠然とした感動、抽象表現による感動発表がもちろんだ。
しかし、そのような無意識をめぐる表現と感動の一連のストーリーとしての「書くー読む」の現象では、解剖読解にその価値を認める領域があることが認められるだろう。
文法、統語規則、音韻論、その他その言葉を巡るあらゆる表象、意味背景は、
すべてぼくたちの「無意識」の言い換えである。
解剖読解を、絶対だと主張するのは暴力であり、そんな文壇世界は暴力装置である。
であるが、それがひとつの主張であり、あらゆるものとの相対として、その強度でもって自らを主張するならば、
そこには豊かな実りが開かれているだろう。
通常の世界(これも乱暴かもしれない)に沿うもう一つの大きく豊かな流れとしての解剖読解。
今ではその世界で戦うぼくがいるのです。
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mixiにだせるやつは出してみよう。
あぁ、安いやつめ(笑)
昨日、飲み過ぎました。
成人してからの毎年が、
ぼくの飲み方を最悪にしていきます。
いくようです。
ぽわ〜ん。
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