2011年2月25日金曜日

所与のものなど僕は認め得るのか?

契約理論の主体観を「負荷なき自己」と批判し、我々が抗いようもなく初めに属性を与えられる、そしてその中での行動を不可避とされ、我々の自明の感情も納得させるサンデルの「負荷ありし自己」。

「たとえば、我々は我々の歴史に対して責任をもつか?」という問いかけの前で、ボクはまったくこのコミュニタアリズムに納得させられてしまうわけだけれど、それでも、やはり社会的美徳というものがボク自身の前に存在するのかには懐疑的だ。共同体の美徳、それは大規模な狂気の前で吹き飛ばされ、しかもむしろ狂気に対する抵抗力を失うばかりか、多数派の狂気を認めてしまいさえしそうだ。あるいはもう一方の極では、無数のゲットーを生み出すかもしれない。

共通善があるのは、かまわない。それについての拒否も、ボクには出来るだろう。が、はたして本当にできるのか?
共通善は、いったい何によって担保されるのだろう。
残酷なリバタリアン、考えると肌寒い共同体主義、偽善的なリベラリズム。
政治家はその組み合わせと妥協の中で、政治科学をしてくれればいい。
さて、でもボクたちは?
来るかもしれない、来ればいいのに、の、政治の季節の前で、何を思おうか。
このままいけばボクたちには、虐殺の未来しかない。    

2011年2月21日月曜日

journal 2/20

3:00 je suis rentré chez moi à trois.
3:30 je suis entré dans la barre, et j'ai bu du whisky.
6:00 je me suis couché à six.
11:00 je me suis levé à onze.

à partir de maintenant

12:30 ma grand-mère et moi, nous déjeunerons italien.
14:00 je me couche à quatorze.
16:00 je me lève à seize, ensuite je regarde la télé.
17:30 je net ma maison. je vais acheter un vin rouge à vélo.
19:30 je dîne au restaurant avec des amis.
22:00 nous buvons le vin de Bourgogne Beaune 1988 et le bourbon à la maison de l'amie.
2:00 je bois d'alcool avec mon amie à sa bar.
6:30 nous rentrons chez elle, et nous couchons à six et demie.
15:00 je me lève à quinze, et je rentre chez moi.    

2011年2月19日土曜日

journal 2/19

3:00 je suis rentré chez moi à trois.
3:30 j'ai vu mon amie et parlé avec elle.
6:30 nous nous sommes couché à six et demie
10:00 nous nous sommes levé à dix.

à partir de maintenant

10:30 nous buvons le café et le thé, et nous mangeons un sandwich
12:00 nous nettoyer ma maison, puis nous prenons un taxi à ma autre maison.
13:00 nous déjeunerons du sushi. elle rentre chez elle
14:00 je regarde la télé
15:00 je dors à quinze
17:30 je vais sur internet, et bois le café.
18:00 je prends une douche
19:00 je vais à mon travaille
20:00 j'y arrive à vingt.
4:00 mon finir le travail à quatre, et je rentre chez moi en taxi.
6:00 Je me couche à six.    

2011年2月18日金曜日

戦争に行かなかったお父さんたちへ。

戦争に行かなかったお父さんたちの天国、とよばれたものがある。あった。もう”あった”と言ってもいいだろう。戦争に行かなかった”お父さんたち”の天国がもうすぐ終わり、戦争に行かなかった”老人たち”の世界があり、戦争という言葉のない世界つまり暴力にあふれた世界の若者が”世界に登場しはじめる”世界が始まる。

新しい人々は、自分たちが世界に登場したことに気づいて、そしてあることに気づいた。
「お父さんたちは、生きていなくちゃいけない。でも、どうしよう、同時に彼ら老人たちは、、死んでもらわないと困る!!」
若い人々に与えられた初期設定は、まさにそのような世界としてあり、彼らの最初のコマンドは老人たちの排除、抹殺だった。

あまりに軟弱なため保護されるべきと考えられていた若者たちは、その潜在的な若さ、まさに体が動く!という純粋で動物的な自然の力でもって、社会のすべてを、「非合理」<彼らにとっての非合理であり、ある煽動家の言葉では不条理とよばれたスローガン>のもとに、転覆させようとした。

最終的には、彼らはすべての病院につながれた生命維持装置を切断し、、、、、    

要望への限られた応え。

僕がタイプをする間にも、彼女はどんどんと自分の言葉を進めている。
自分の言葉?そう彼女の言葉だ、彼女によって語られる彼女の創作、創作?そう彼女が想像していく物語の、、記述?記述、そう僕がそれを”タイプ”している、彼女の叙述を。”語られる”のは僕のタイプと彼女の声の間にあって、僕の指と彼女の唇、その不規則でなだらかな、穏やかな律動、繊細な、その指と唇の動きの中で、”語られる”。
タイプする、なぜ。なぜか、それは、声には触覚が必要だから。ボイスオーヴァーというのは、言葉を殺し、死んだ文字を書き写すことだから。手触りのある音楽が必要だから、何に?、それが物語だ。彼女によって、僕と彼女の間で、声、タイプ、指と唇、この部屋、スタンドランプ、窓、海、僕によって、彼女と僕の間で生まれていく物語。
僕がタイプしながら、そんなふうに考えている間にも、彼女はその物語を語っていく。