2011年2月25日金曜日

所与のものなど僕は認め得るのか?

契約理論の主体観を「負荷なき自己」と批判し、我々が抗いようもなく初めに属性を与えられる、そしてその中での行動を不可避とされ、我々の自明の感情も納得させるサンデルの「負荷ありし自己」。

「たとえば、我々は我々の歴史に対して責任をもつか?」という問いかけの前で、ボクはまったくこのコミュニタアリズムに納得させられてしまうわけだけれど、それでも、やはり社会的美徳というものがボク自身の前に存在するのかには懐疑的だ。共同体の美徳、それは大規模な狂気の前で吹き飛ばされ、しかもむしろ狂気に対する抵抗力を失うばかりか、多数派の狂気を認めてしまいさえしそうだ。あるいはもう一方の極では、無数のゲットーを生み出すかもしれない。

共通善があるのは、かまわない。それについての拒否も、ボクには出来るだろう。が、はたして本当にできるのか?
共通善は、いったい何によって担保されるのだろう。
残酷なリバタリアン、考えると肌寒い共同体主義、偽善的なリベラリズム。
政治家はその組み合わせと妥協の中で、政治科学をしてくれればいい。
さて、でもボクたちは?
来るかもしれない、来ればいいのに、の、政治の季節の前で、何を思おうか。
このままいけばボクたちには、虐殺の未来しかない。    

0 件のコメント: