「何かが違っているとして、それがそうであるかもわからないし、たとえどうであっても、だからといってそれは何かの理由にさえならない。つまりただボクだけにとっての問題にしかならないってことだ」
イーアン・トットは洗面台で顔を洗い、2週間ほど前に酔っ払って派手に転んでつけた顔の傷にクリームを塗り、その手で髪を撫でつけた。手を拭きながら彼は鏡の顔を見て、右左に顔を向ける。細かい傷はもう消えているようだ。
背中のドアを開けてすぐの台所で蛇口をひねり、もう一度電気ケトルで湯を沸かした。クローゼットを開けシャツに袖を通しネクタイを締める。ズボンをはいてジャケットを羽織る。スピーカーから何か音楽をかけて、今日はモーツァルトだ、そこまですると湯が沸き、大きめのタンブラーに開け、スコッチを落とした。部屋を出るまでのあと7分ほどをこのまま過ごす。それは感傷などとはまた違う、平穏のためのまじないのようなものだった。その平穏すら何のためにあるのかもわからない、ましてそのまじないが平穏とやらに通じてるのかもわからず、平穏とはいったいなんのことかも定かではないが、それはまさに「平穏のためになされるまじない」だった。それはそれ以降の時間のための彼なりの言い訳であり、保険であった。
彼は用心深くタンブラーの側面を指で包み、暖をとり、目を少し細くした。少しずつ飲み物から体へと熱を移していく。そうしてすべて飲み切って、コートを羽織り、マフラーを巻き、鞄を持つと、彼は固い靴をはいて部屋を出た。
どこからか寿司飯の臭いがした。蒸気は形をもって彼の前を漂う。彼は少し眩しいというように目を細くした。
「おはようございます、有栖川さん」
「おはようございます」
彼は子供に、向かいの部屋から出てきた子供に挨拶をすると子供が乗るエレベータを見送り、階段のドアを開けて下に降りた。

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