2010年3月29日月曜日

factotum - beast

鈍く眼を開けて、くしゃくしゃに着たままの姿のシャツのはだけたボタンをそのままに、眠るように重く立ち上がり、体全体を不安定にグラグラとそのバランスを揺らしながら、固まったままの片腕を、肘から手首、そこから五つに開かれる指先の間隔を、力いを込めて緊張させ、優雅に開閉ししなやかに舞わせ、そのエネルギーを確認して、部屋の隅に酒宴の波に打ち上げられたように打ち捨てられた投げ捨てられた紺のブレザーを掬い上げ、袖を通し、酒のイメージに濡れたままの格好で、びしょびしょで、玄関に突進し、体全体をぶつけるように彼はドアを開けた。
そのままドアの外、白い石膏の壁に突き当たり、しばらく壁に全身を這わせたあとで、息を吸い、吐き、呼吸して、一気に体を反転させ、ダニエル君はポケットにあるだろう鍵をつかみ、自室を閉める。

グレングールドの荘重なリズム、ダニエル君は絶対的で超越的な観念を設定することを常に好まなかったし、その意味で神という概念を何かしらの感想や説明に用いることはしなかったが、ゴルドベルグ変奏曲の旋律の余白と交叉の中には、彼のような不信心をもってしても何か遠くの、その手を伸ばしても触れられない光が、無条件の陶酔の輝きが見える、そんな錯覚が訪れるのだった。
自分の眼前に広がり移動して行く景色に、虚ろな眼を投げかけたまま、彼の耳鼻と、その両手両指先の旋回は、音楽を奏でながら宙をぶらぶらと舞う。
彼の音楽的な指の間を、あらゆるモノが擦り抜けていく、流れていく。
自転車や車、町家作りからモダニズムまでの建築物、原色を纏って騒ぐ子供たち。自分の周りをそれらあらゆるモノたちが回転しながら通り過ぎていく中で、ダニエル君は自分自身の存在の滑稽さに、少し自嘲をはさみながらも微笑むしかなかった。
彼は、自分のする動作によって、彼自身のその物質として確かな存在の質量すらも、ふわふわと空気の中に漂わせていくのだった。それは彼の演出だろうか、フィクション、それともただの偶然。それを彼が知る方法はそれまでも、そしてこれからも永遠に存在しない。
自嘲と冷静、忘却と夢想、そんなイメージで脳を満たしていたダニエル君は途端に、拳をきつく握りしめ、彼の体すぐ横の電信柱の胴、黄と黒の縞、街路樹の幹、店舗のショーウインドウめがけて、彼がそれまでに使った思考のエネルギーのすべてを爆発させて、それら一切の安定した存在を破壊したくなる熱気に体が震える。ある肉体を引裂き、それを頭から食うような仕草をしてそれら屍を道路の端に投げ捨て、そうやって街を進む。人間には本能として理由もなく、ある思考と全く正反対のベクトルに向かう思考や衝動が出現するものなのだ、と叫びたくなる。邪悪の王のように、世界を蹂躙する。馬鹿馬鹿しい全能感。内省的な冷たさを、胃壁をそのまま裏返しにして吐瀉するように、獣の獰猛に変換させる。
そんなイメージを弄びながら、ダニエル君は、平和な街のカフェやレストランのメニューたちに目を留め、一瞥しては次に、一瞥しては移っていった。
大通りには、太陽が高い空から、青い空を切り拓いて、世界の全部を白く露出させている。すべての存在はその白さが飛んで、まったく影のない姿で、世界に開放されている。
急に痛感する敗北感が彼の視界を壊した。絶対的な太陽の前に、彼はイメージの国の王、自己中心的な楽園の神としての地位を失脚させられた。飛び込んでくる世界の美しさと、壊された彼のの世界への憧憬が、彼の自尊心やアイデンティティを切り裂く。血まみれに破れた自分の体に、ダニエル君は射精するほどのこの上ない快感を感じている。
「まぶしいほどのすがすがしさ。すっと吹き抜ける風は精霊の絹のようだ。あぁ。つまらない。つまらないよ。」
涙に目を赤くして、彼はまた自分の楽園、天地創造にとりかかった。
すべての街路から溢れ出してくる異常なスピードに、ダニエル君は包まれる。車や二輪車が極彩色の光線のように疾走し、人間は流れるように踊りながら彼の立つ街のメインストリートを過ぎてゆく。ダニエル君はその中心で目を閉じながら、生まれでてくる状況を受け入れる。彼は今、夢の中にいる。彼は今、この状況を夢として採用し、認めた。

「夢の世界だ」

日常の慣習的な風景に、異質な要素が一つでも加わりさえすれば、それを夢と認めるには十分だ。彩度、速度、律動。要素の単純な操作、その操作を感じる想像力。人間が夢を見る、夢に向かうことなど簡単なのだとダニエル君は考える。彼の太陽は、目の前の景色に極端な彩度を与え、歩行者に木々に建築に彼らに自由なリズムを与えた。世界は鮮やかに輝き、踊っている。彼はそこから一気に世界を拡大させ、彼自身の主体性もその世界と同化させた。彼は夢になり、蝶になり、大気に飛び、夢から覚めて、夢を生きた。    

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