ある一瞬について、のお話です。
志賀直哉という人がいます。
「暗夜行路」という小説を書いた人です。
彼は雑誌、白樺というものを舞台に、彼と彼の友達により、
大正デモクラシーを生き抜く人間、というものを、
「個人の実存、主体の実存」という在り方で書きました。
明治に種をまかれた、西欧個人主義や民主主義。
それが育ち、安定した時代の、人間。
社会流動性が一挙に高まり、それがあまねく存在し始めた時代でした。
社会流動性の高まりが、個人を生みます。
(だって、農民の子が永遠に農民であり、殿様が世襲制の時代に、
「個人としてどう生きるか?」なんて思想は起こりえません。
そこにはone of themしかありえず、個人なんて尊重はありえないのです)
そこで生まれた「個人」という概念を、一人の人間はどう生きればいいのか?
社会と個人、という関係の中で、人はどう生きればいいのか?
(とくに農耕社会の日本において)
そういった実存主義を、
皮肉に言えばブルジョア的に、(個人の潜在的なパワーを信じて!)
書いたのですね、彼らは。
社会流動性が高みを迎えた今においては、
こんな考え、「個人」という考え方は、当然のようですね。
それをその萌芽期において、センスィティブに感じ取った、作家たち。
これを物語として語った、作家たち。
作家というものも偉大さ(それは同時に衆愚さをともない)を、
あらためて感じた、そんな一瞬でした。
2 件のコメント:
福田和也センセーいわく、白樺派の人たちが出てきた時代の日本の流動性って、今より全然やばかったらしいね(笑)
僕が思うに、周りの人たちを見る限り、民主主義も個人主義もまだまだ戦後日本では「当然」ではない気がするけど(ex:地方の組織票の高さとか、三田の人たちの就職に対する同調圧力とか…)どうでしょう?
宗教的規範がもともと無くて、古きよき村社会も企業共同体ぶっ壊れてて、尚且つ労働者の連帯も多様性と自己責任を受け入れる価値観も持ち合わせていない今の日本を、規制解除でアメリカみたいな過剰流動社会にしちゃって本当に大丈夫なんでしょうか?とも思います。
何にも支えられないふわふわした「個」に耐えられなくて、結局それをどう扱うべきかの答えを出せずに、ナショナリズム→対外拡張路線→対米戦争に突っ走ったのが、今の世の中にとっても近いと言われている大正以降の日本です。
まあ、お互いこれから頑張りましょうね(何を?w
真摯なレスポンスをありがとう(笑)
僕はね、民主主義とか個人主義とかの「イズム」とかって、それを意識して取り入れてる日本人は普通にはいないと思ってるの。そんな歴史も何もないから、そもそもパンピーには、そんなことに対しての意見なんてなくて、ただ皮膚感覚としての個人主義、当たり前としての民主主義とかを享受して、当たり前に考えてる、だけやと思うのね。
だから、地方の組織票〜とかっていうのは、本来的な「日本人」の顔が出てる現象だってとらえると、個人主義とかのイズム論とは別かなぁって。
というかそういう哲学的な問いに意識を向けられる種族じゃないんやろうね。いい意味でも悪い意味でも。
でも僕は西洋的な知の体系とは全く違う感じで存在してる日本人の考え方って、すごく未来があるし、それこそクール・ジャパンやなぁと最近思うんやけどね。
話はずれたけど、確かに欧米的な社会流動性の向上って、格差社会みたいなバカみたいな煽りが生まれるくらいやから、日本人にはパニックやろうね。
でもまぁ、上手く生きていくでしょう。お互い(笑)
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