円空
しりあがり寿
写真について
円空
まさか自分がここまでアニミズム的なものに心を揺さぶられると思わなかった
普段当たり前の人体的な造形を軽妙に逸脱して、優しく幼い親しみをこちらに向けながらも、原始的な自然の力を強く示す、その仏教美術に、自戒と自虐を含めて表現すれば、日頃からスノビッシュで都会風を気取った自分がこれほど感動するとは。
芸術に触れる美点は、自己との対面の機会にある
日常を離れる、異常との接点、言い過ぎれば限界状況と出会い、私は「私の」世界を発見する
古典美術に対して現代の作家が対峙し、その表現の豊かさを拡大させるこの展示で、円空に対し〇〇はこういう、「あなたはどう思うだろうか。400年後にこのように鑑賞され、現在のある芸術のルーツとされることを」
日本各地の山谷に分け入り、土地と人に仏の姿と信心を残すために人生を捧げた僧侶の跡が、2020年の東京で、最先端のテクノロジーの中で、人々の目に映っているのだ。
そこかもしれない、原始的な美術が400年の時を超えて、現代の私の目の前にある。その感動が私をまず揺さぶり、円空に対峙する私が生まれるきっかけとなったのかもしれない。
結局は私語りと、自分でも言ってしまうことも可能だけれど、そこに確かに感じた時間への畏怖、円空という生きていた存在への敬意、めぐり合いの奇跡、そうして私は世界について問い、世界を創造していく、その実存主義的営みこそ、私の美学の原始として適格、的確であると思う。
円空に出会い、私は「現代実存主義的美学」ということを、私の原初に据えることができた。過去に名付けた「プリミティブな感情の欠如」というトラウマを、こうして乗り越えられたことを、いまは嬉しく思っている
しりあがり寿
簡単に言い過ぎれば、北斎のパロディとオマージュ。
一見すれば、ジョークとユーモアと堅固な表現力が観客を楽しませる、が、その中の深淵を覗くのが怖い。
どれだけのコンテクストと彼の思想がそこにあり、それをこちらに問われているのか
そしてそれはおそらく考えすぎであり、考えなさすぎなのだろう
その時は、子供が、見たありのままのものに、浮かんだ疑問を投げかけていた。投げかけている
大事なのは、まさにそれであり、それはしりあがり寿や葛飾北斎が、見たままの世界を、世界はこれほどに美しく愉快だと表現しようとした、その芸術そのものなのではないか。
私は全く子供に救われて、そこを去った
写真
写真芸術の大好きな特徴の一つに、目の前の物は徹底的に他者であることと、必ずその表現の主体が存在することの「両義性」がある
写ルンですで撮られたその思い出写真にも、その撮影者以外には同様の思い出を、その瞬間に1mmも違わない構図を残せないという真実が、写真芸術の崇高さを私に感じさせる。
写真は対象への憧れを、異常に掻き立てる
触れ得るはずの世界の対象というロマンが、99%届かない残酷さに首の皮一枚に断ちぎられて、生かされる
鮮やかさに毒されたまま、私はまだ写真に魅せられている
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