ダニエル君が一つのカメラを手にしたときに、彼はすべてを失ったように、少なくともボクにはそう思える。
ダニエル君は、少年と青年の狭間、まさに自己がどのようにしてなるかと悩み考えていくその合間に、一つの物語を考えていた。
彼はその物語に自分の表出を託し、それを自分のアイデンティティとして、自分自身の拠り所であると同時に他者へのプレゼンテーションの道具として生み出したいと、そう考えていた。
物語の創作は彼の閉塞感であったかもしれないし、ナルシシズムであったかもしれない。
しかしダニエル君自身の美意識の追求というのも、それがたとえ稚拙な集中力ゆえの不誠実に結果として終わったものでも、また本当に存在したものだった。
人間の決定的な動機などを求めることは不可能であり、ただ議論の壇上に上がる価値があるのは結果としての実体だけである。
ダニエル君は、一つの物語を、数葉の写真によって求めた。
数葉の写真の連続によって、被写体やその背景、そうした世界観の漠然とした提示が一つの物語としての効果を生み出すだろうと考えた。
数葉の写真、物語。彼の物語は物語というほどに語る主題を持つものではなかった。ただ女性が、女性の変化は美しいとそういう主張があるのみだった。女性の一喜一憂、その刹那的な瞬間の連続が、それでもその生起の熱量が、美しく、鑑賞される価値があるものとして感じる、ただそれほどの感想が、彼の物語の主題であった。現在の視点から見れば、それは少し大人ぶった夢想家の少年の学芸会であり、ほほえましい拍手に迎えられるもの以上ではなかったかもしれないが、当時の彼にはそれが全てであり、その表現ほどの偉大はなかったであろう。
ダニエル君は、彼の人生で初めて、抽象というものを、女性の抽象というものを考えたのだ。
そして彼の思考が解法に向かって開かれるのはそう長いことではなかった。
彼は瞬間的に、彼の同級生のイメージを、彼の映像の中に登場させていたのだ。
それが、<みほちゃん>だった。
ダニエル君はそれまで、ほとんどその<みほちゃん>を考えたことはなかった。
隣のクラスの生徒として、彼の友人の友人として、その存在についての伝聞として、存在していただけだった。
彼の生活のどの瞬間にも、彼女は存在しなかった。
ある日のある廊下で友人と話ている姿を、遅れて登校するその門前で彼女より少し年上であろう男の子と歩く姿を、そんな断片的でその顔も見えない姿を、彼は見たことがあった、それだけだった。
しかし、ダニエル君の抽象の女性は、彼女だったのである。理由は、ない。
ともかく彼は彼の友人を通じて、彼女に話す機会を得、彼の写真についての構想、つまり彼の被写体になってくれるように頼んだのだ。
みほちゃんは、彼のその活動に明確な展開を見たわけでもなかったし、その結果についての責任はそれよりも興味のあることではなかったけれど、単純な好奇心と、断わることの取り立てて無意味なことから、その依頼に頷いた。
そうしてダニエル君と、カメラ、<みほちゃん>の距離が決まったのである。
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