2010年3月12日金曜日

書き手、であることについて。

世界的に、文字を書くということが復権している。

その最たるはmailであり、もう少しはblogである。

さて、そのような現代的意義はどうでもいいが、今回問題に取り上げたいのは、書き手が何かしらの真意を提出するとき、そして同時に不可避である彼彼女の環境、その二者の取り扱いである。

ある哲学者に言わせれば、人はそれに先立つ世界に生まれ出る、世界の内の存在である。

世界に対して動き、世界から動かされる。

彼女の世界は、彼女のものではなく、それ以上に、現にある。

彼女は錯覚する。

これが世界だし、私だ、と。

彼女は、ファナティックなある瞬間において、世界を切り取り、世界を彼女のものにした。

しかし、世界は、まったく違う諸相を彼女に見せている。

彼女の誤謬は、その客観的批判性の無さだ。

つまり、熱狂的、である。

彼女は、目をつむりながら、何かを見ている。

何か?

それは自分の心。自分の願望。

私が私について考えた時間、自分が自分の人生を生きてきた時間と同じ時間を、すべての存在、机、人間のすべてが生きている。

その脅威に改めて驚こう。

存在に敬意を払うなら、言葉はすぐに難しくなる。

脳死するのは、簡単だ。

現代哲学のすべてにさよならを言って、

勝手にベル・エポックに帰ればいい。

つまらない言葉。

それは、美的に、罪だ!    

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