2010年3月7日日曜日

存在の耐えられない不安。

こんなことを言うのも、それは君自身の物質的精神的な現状の窮状がそう言わせるのであって、ただの躁鬱のバイオリズムにしか過ぎない、生活の状態がずっと充実した爽快なものなら絶対にそんなことを考えないだろう、と言われるかもしれないが、この際、この言葉の主体というのは問題ではないだろう。ただこのような思考があり、精神の不安があり、情景がある。その現象の存在こそが問題なのだ。

日々の生活の中で、我々の視点というのは、ただ一人の個人を例にしてみても、様々に変化し移動している。
前夜に倒れ込んだソファで目覚めテレビに向けたぼやけた視界、人混みの中でふと顔を上げた空とビルの景色、酒に酔ってしたたかに体を地面に打ち付けたときのその視線の低さ。そのような視点の変化、通常世界からの瞬間的な逸脱の瞬間に、世界はその様相をがらりと変えて捉えられる。

「つまり、それらはなぜかくもそんな形で、そこにあるのか!」

目の前の一切のモノたちがそれぞれの過去を持ち時間を持ち質量を得て、エネルギーの大移動のいまださなかにそこに屹立し静止している。モノたちはこれからの無限の潜在的な熱量をその内に抱え込んでおり、移動、破壊、消滅、生成といったあらゆる動態に向けてしかしひっそりと闇に潜んでいるのだ。

目の前の電信柱は無限の遠くにあるように、頬を刺すアスファルトは無限の延長に広がっておりその深度は遠く地球のマントルに繋がるかのようだ。

時間、この耐えられない不思議。

過去からの文脈、それがどうしても人間の希望には必要だ。

人間は未来に生きたことは決してなかった。
人間は過去に生きるのであり、すべてのまなざしは過去へ、そしてすべては過去へ蓄積されていくのである。
過去にしか確かなものはなく、未来とはつまりただの予測不可能な無限であって、すべては過去においてのみ意味をもつ。

その過去を信じられずに、果たしてどうやって生きていくのだろうか。

モノたちの宿命的な偶然、眼前に広がる可能無限の一形態の偶然性に圧迫されたとき、人間にはたして呼吸できる余地などがあるのだろうか。

「すべてはなんでもなかったのだ。すべてはなんでもよかった。たまたまにこうした、こういう場面があった、それだけか!そうなのか!では、ボクに何をしろというのだ。誰が何を望むのか!」

行く先もしれず、過去に対する定点も持たず、自分はある瞬間の座標の一時点でしかないと認識しても、3秒後にはその座標世界は白紙になるかもしれず、全存在の絶対的な無意味に思考が触れたとき、

私は、もう、消えてしまうのだ。

モノたちの熱量、そのオレンジ色の燐光の中に。

それが存在が融けていく、その救済的な最後なのである。    

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