2009年10月5日月曜日

I love H/Y.

人生は、借りモノのように存在する。

誰かは、誰かや誰かの無数の価値観の、無数の組み合わせのパッチワークだ。

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ボクは、その少し前に少しだけ疲れてしまって、もう自分が生活しているその世界に、彼らの非合理で無駄の多い雑然とした行為への非難をぶつけて、そしてもうぶつけることにも疲れてしまい、もう何の感動もやめてしまって、もう心動かさず、すべてを無関心に、そして自分だけが楽しければそれでよい、流してしまえ、何も考えずに、彼らの欲求を満たしてあげて、彼らの向上など考えずに、彼らをモノのように処理してしまえ、それがボクの現在なしうる最も効率的なリスクカットだ、と、そういう状態にいた。

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瀬戸大橋を渡る。

車の窓から吹きすさぶ風も、その窓に広がる山や海も、ハイウェイの中で美しい。ハイウェイ、恥じらいながらもまさにそう言ってしまいたくなる爽快感と開放感が、空にも空気にもこの白い軽自動車にも、そしてボクにもあった。

「何も考えずに、感動だけができます。何もないです。ただ、気持ちいい」

ダニエル君はそう言って、車を走らせる。

London Calling が流れる。

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「ここから先が、ノグチのアトリエになります。未完成の作品の配置もすべて・・」

ボクにとって芸術は、モノ以上のモノでは全くなくて、おそらくそれは誰にとってもそうだろう、モノが芸術になるのは、あくまでボクがそれを芸術だと思うからだ。ボクの考える芸術の意味を、そこにあるモノが備えて初めて、モノは芸術になる。もちろん、ボクが、今現在そこにあるただのモノを、将来的に芸術だと思うときが来る、というのもあるだろう。

「彼は、デザイナーだね。彫刻家っていうのはその作業の性質上デザイナー的であるかもしれないけれど、彼はそれでもデザイナーのような仕事をしてきたんだ。だってここにあるのは、彼が彼の世界観を提示した、そういうことだもの」

ボクがそう言うと、ダニエル君は丸太に腰かけて、うん、と、うなずいた。

完成作品の収められた蔵と未完のものたちが置かれた庭を出て、イサム・ノグチが住居にしていた屋敷へ案内され、ボクは屋敷の裏に作られた彼の宇宙の中に入っていった。

「モエレ沼公園の原型が・・」

ノグチはこうして、人々が、自分の価値観の中で自由に歩き楽しむその姿を眺めることを、自分の創作の満足にしていたのだろう。

彼はまぎれもなくデザイナーであり、2000年前後から現代のプロダクトデザインは彼に始まるのだ。

「芸術は、もっともっとエゴイズムだし、芸術家はエゴイストとしての提示がその職分だ。芸術的であることと、芸術家であることは違う。芸術という言葉はエゴと同義であり、その後ろが「的」であることと「家」であることは全く違う。それはつまり彼が、「エゴイスティックな○○」であるのか、それとも「エゴイスト」であるのかという大きな差異だ」

ボクは自分と目の前の宇宙にそう演説して、

そうやってボクは、彼の作ったモノを愛し、自分なりの芸術として、イサム・ノグチ庭園美術館を、消費した。

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天ぷらを見て日本の精神性を考察した人間がいたが、ボクは讃岐うどんと天ぷらを食べて、それが必然としてここにあることを感じた。

「見事なもんだなぁ」

隣に座るダニエル君は、麺をすすり、だしを少し啜ると、彼の前の壁を見てそう言った。

すべての物事には無数の背景がある。

ボクたちはそういうことを考えたり、理解したりしながら、その物事に向かいあう。

それは全く間違いの無意味な想像であるかもしれないのに、だ。

不可知な真実の前に、ボクたちは想像を巡らす。

真実らしい「シンジツ」を探して、ボクらはシンジツを定義する。

讃岐うどんと天ぷらのシンジツは、ボクの中で非常に論理的に構成されていった。

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船に、車が入る。

船に、車が入るなんて、すごく無駄でセレブな感じだ。

それが無駄だからこそいっそう金持ち的な趣が、その物理的な行為に漂う。

無駄こそが、余剰こそが、余裕と美の酸素かもしれない。

海を渡る船。

島から島に渡る船の中から、顔を出して、離れていく陸地や建物、海の流れ、通り過ぎていくまた別の島々を眺める。

こういう感慨にあれこれ名前をつけたり、そういう空気を自分に照らし合わせたりすることが、ボクにはできない。

そんなボクがそうやって船の輪郭に沿う通路から海に向けて肘をついて顔を出したのは、先に同じように、ボクの姿勢よりは幾分様になる凛とした姿で、そうしている可愛い女の子を見たからだ。

彼女が何を思い、海を眺めるのか、海上を過ぎて行く船の流れは、彼女に何をアフォードしてくれるのだろうか。

それを知りたくて、そしてそのアフォーダンスに期待して、ボクは同じように顔を出した。

何かを想おうと思えば、何かを想えるのかもしれない。

ただ基本的には、そこには何もなかった。

景観の美しさ、そういった物理的な状況があるだけだった。

過ぎてゆく美しさのモノモノ、モノモノが美しく過ぎていく。ただ美しいと、それだけ。過ぎて行く、それだけのモノたち。しかし、美しい。でも、そうでもない。いい感じ、それだけが過ぎて行く。過ぎて行く、いい感じ。

彼女は何かを想いたくて、船に乗ったのだろう。

彼女は船に乗ることも、うどんも、島も、美術館も、全部自分の計画に織り込みずみで、彼女の気持ちを乗せて、この旅をしているんだ。

彼女の見える景色は、彼女自身だった。

ボクの見ているこの景色は、ボク自身なのか。



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すべての意志的な行為は、アートだ。

芸術とは、エゴイズムの同義語だった。

だからやはり、すべての意志は芸術で、意志を感じるあらゆる現象に、芸術性を感じ、勘ぐってしまう。

それがボクの哲学、脳機構のアルゴリズムだった。

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「石だらけだ。やっぱりここは本州とは違う。本州っていうところがどれだけドメドメで閉塞的、かつ自分たちが代表面してるかってことが、そこから来た人間として恥ずかしいくらい、よくわかります」

海岸に、何と形容すればいいか、こちらをぽっかりと困惑させるような佇まいで設置された2メートル大のカボチャのような物体の肌を、撫でたり、そこから離れて、離れたところからそのカボチャと海岸のミスマッチな状況の写真を撮ったりしながら、ダニエル君は話している。

ボクたちはそんな風に島の周りを散歩し、目についたものに寄り道しながら、島の頂上部に向かった。

安藤忠雄とベネッセによって作られた地中美術館には、安藤自身の作品であるその建造物とともに、クロード・モネ、ジェームズ・タレル、ウォルター・デ・マリアらの作品が展示されている。

それら少数の作品群によるこの空間に展開された作品世界に、ボクはすっかり倒錯され感動してしまった。

感動だって!

感動する、心動かされる、関心を持ってしまうまたはそれを表に発動させてしまう、そういったことを出来る限り排除しようと努めていたボクはどこにいった!

まさか、まさか

ボク以外のモノ、それも芸術なんて他人事に、ボクが感動させられただって!

そんなことがあり得るなんて、あり得るに決まっているのに、思いもよらなかった、忘れてしまっていた。

目眩がする、動悸がする、涙が出る。

苦しい

考えてもみたら、そうだ、それがボクが活力的になるいつもの理由、お決まりの常套文句じゃなかったか。

「夜は、何があるかわからないから」

「え?」

口をついて出た言葉に、ダニエル君はボクを見た。

「うん、そのままだよ」

「そうか。うん、うん、ボクらのモットーだね、ははは」

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 直島は、ボクにとっての夜だった

 夜の暗さは、この異世界の空気であり

 この島の複雑さは、夜の怪奇そのものだ

 常にボクを超えていく 夜

 ボクを超えてボクに向かってくる 夜

 この島はまさしくボクの、ヨルである。

 ヨルは楽しく、つらく、素晴らしく

 ヨルにはすべてがつまっている

 それは昼との表裏として

 それは昼の仮面として

 ヨルは、ヒルと背中合わせにキスをする。

 直島は、ボクの人生にキスをしたのだ。

 直島は、ボクのヨルとして

 ボクの闇に、融けていった

・・

そうして3時間後

「やっぱりココがいいですよ。アソコがあって、ココがあって、ココがよくなるんだ。ココはココとしてずっと、「ココがいいなぁ」なんです」

ボクらはいつもの店で、オロロソをぐいぐいやっていた。

ボクはダニエル君に賛成するが、同時にその賛意と同じ強度の激烈な反対を心の中に蒔いた。

・・

ココは、ボクのヒルです。

アソコが、ボクのヨルなのです。


※一般名詞のカタカナは、記号です。    

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