2009年10月27日火曜日

現代的懐疑の0地点。

善悪という概念は、現代にあってはもう放棄されていると考えて間違いない。

神も人間も、もう死んだのだ。

我々は、あの人間と全く同じ姿をした、動物である。

文明化した動物、神の時代、人間の時代の後に来たこの動物の時代を、私は驚嘆をもって祝福する!!


懐疑する態度を、皮肉で冷淡な余裕派の児戯と考えてはいけない。

懐疑する姿勢は、どこまでも誠実で真摯な世界への愛情である。

しかし懐疑は、懐疑をする者は、往々にしてある陥穽――その思考の目的の方向自体を見失い、思考はそのままそれ自身に対するトートロジーと化し、その繰り返しが最終的には無益な厭世主義を導出するというあの美しくも哀れな不生産――に囚われてしまう。

美しいものほど、そうなのだ。

美しいもの、それ自体の美しさがその存在理由になるほどに美しく取り扱われるものたちには、意志などいらない。

彼らには芸術を創造する必要などなく、彼らは我々の芸術のために存在する。

世の中には二つのものしか存在しない。

それは、芸術的であるものか、芸術を作るものであるか、である。

世の中には全く、この二つしか存在しない。


そして芸術とは、あらゆるものである。

芸術とは、美そのものであり、美とは、人間のあらゆる感情や快楽を刺激する芳香それ自体である。

自分の世界を出て、他者に接触しようと試みる行為はすべて、各人の理想の美へのアプローチなのだ。

汝自身の崇高と頽廃を叶えんがために、汝は代償を払い女神に口づけをせんとする。


そして現代では、すべての美がすべての欲望と等価交換されるようになった!!

これほどまでに素晴らしい時代が、今までに存在しただろうか!!


これが、現代世界の諸相であり、社会科学が解き明かそうとやっきになっている現象の本質である。

これが、経済学者の行うあらゆる命名と解析の背後にある原理であり、ワイドショーの道徳家が叫ぶ善悪とやらを全て論駁した先にある世界なのだ。


かつて動物にあっては本能の支配が、人間にあっては理性の支配があった。

我々動物人間は、欲望に美という名前を与えることで、この進化の矛盾を克服し超越したのである。

美という欲望の調和の名の下に、宇宙が描かれる可能性を、世界で初めて示した現代の生物。

これほどまでに美しい存在があろうか!!    

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