2009年6月2日火曜日

factotum.について。

"factotum."と名付けられたいくつかの文章たちは、彼らの書き手に横暴にもそのタイトルを奪われその神聖さを剥奪された、無題と名付けられるはずだったところの文章が、これもまた私の身勝手な自尊心と羞恥心によってその名前を歪曲された、一群の詩です。

生む場所を失って、生まれる場所がなくなって。

"勝手に生きろ"と名付けられ彼ら詩たちは、自分がドキュメントなのかストーリーなのかもわからず、右も左もわからず、ただただこの表象の世界を、よちよちと歩き、どこかに流れつき、ある子は息絶え、ある子はもしかすれば自分自身を何かに産み落とすかもしれない、どこかに生み落ちて、また水の流れの循環の中に、生まれる前に還る、かもしれない。

私生児たち、それが彼らです。


では、彼らは不幸なのでしょうか?では、私は?

身勝手に次ぐわがまま、傲慢に更なる暴力を加え続けた私にこれ以上まだ都合のいい解釈の自由が与えられるならば、

彼らは、胸を張って生きればよいのです。

自分の出自や名前など、それがはたして何と関係をもつのでしょう。

君ですか?彼ら自身にですか?

およしなさい、くだらない、彼らの名前は"factotum"、始めから名前などない、ただの器なのですよ。

何でもない日常を描きたかった、それがお父さんの気持ちだったのです。

世界は多彩で鮮烈だが、世界はそれほどおかしくはない、ふつうの人々がそれぞれのふつうの日常を重ね合わせるなかで、重ね合った日常たちの間のその少しの差異や揺らぎが、少しだけ、ふつう世界の日常性を破る、しかしその破れの微々たるを見たまえ、ただの洒落た会話や一夜の汗、そんなものでしかない。それでもこの世界の日常は、すばらしい。

そんな気持ちを、私はあなたたちにこめたのです。

ええ、私のわがままです。

それをあなたたちに、言わなかったものねぇ。

君たちはずっと、自分自身を考える苦しみに苦しんだんだものね。

やっと、言えた。

それで、どうするのか。

"factotum"に、生きる意味はあるのか。


私も、あなたも、お母さんも、お嬢ちゃんも、紳士淑女、少年青年壮年老人、boys & girls、

勝手に生きろ。    

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