昔から言いますとおり、
僕は他者に向けて「開かれない」人間です。
他人を志向していない、思考していない。
まさに通説的な意味で、自己本位なのです。
一時のセンチメンタルやヒューマ二スティックな揺さぶりに、揺さぶられることはもちろんあるけれども。
それでも私は、自分勝手な利益追従者であります。
こういった自分から出発して、僕の世界との付き合い方は、
ぜんぶがぜんぶ、記号である
というものでした。
あなたのシンボリックな意味理解の体系は、
僕とは絶対に融け合うことのない、ものであると。
それでも実存主義的に生きようとする僕の原風景は、
そういった理解の世界を、
そのdiscomunicationにも関わらず、必死で、
生き抜こうとする
そのことに明日を求め、希望を抱くのでした。
このような、"ego"と、そしてそれら"ego"たちが生きる悲しい世界の熱情、エロティシズムの舞台としての「世界」が、
僕の世界、だったのです。
でも、はたと気づきました。
僕とあなたの間には、はたして、
コンセンサスなるものが必要なのでしょうか?
僕とあなたの間には、何らかの社会的背景、文化的背景が必要なのでしょうか?
僕とあなたの間には、
『「ぼく」と「あなた」』以前の秩序が、必要なのでしょうか?
僕とあなたは、"0"から出発できるのではないでしょうか?
だって、僕は「あなた」を「考える」もの。
あなたが今何を考えているか、次にどうするか、を思考するもの。
そうしてあなたを思考し、その「あなたが自分と同じように他者を思考している」ということを自分に引き受けたうえで、あなたを交わろうとするもの。
僕は「ぼく」というその「ぼく」は、ぼくの性向とは関係なしに、あなたを飲み込んで、考えざるを得ないもの。
だから、僕とあなたは、まさに相手が「なにをするかわからない」「なにものであるかわからない」という"0℃"を、いつも出発点にしているのだもの。
どうせわからない2人だもの。
どんな人間の間でも、相手のことは予測不可能なのだもの。
なら「交わる」なんて、いつも「ぼく」と「あなた」しかいないじゃない。
それ以外にはどんな"ism"も"exist"もないじゃない。
ぼくは、世界中と交われるんだ!理論的には。
『社会のシステムとしての成り立ち、そのオートポイエティックな機構と、その中で生起するダブル・コンティンジェンシー』
そんなものに触れた僕は、
そんな風な考え方をする人間に、
今日なったのでした。
「感じやすいね〜ミーハーだね〜」
本当だね。
でも、こうなっちゃったのだ。
前から
「恋人は、二人の世界で生きるものだし、そうすべきだ」
って思ってる。
ぜんぶの間柄が、「そうなれ」とは思わないけど、
その可能性に拓けたというのは、
ロマンティックでいいじゃないのかな。
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