「ごっこ」の構造。
誰かがこんなことを書いていた。
ごっこ遊びとは、それはすなわち現実からの自由である。
太郎ちゃんが、鬼になる。
それはつまり太郎ちゃんという現実から、太郎ちゃん=鬼という二つのレイヤーが重なるイメージの世界に逃避することでの軽さ、戯れの楽しみである。
現実の重みを失うことで、その軽さによって、そのイメージの世界での戯れ「ごっこ遊び」は楽しい。
しかし、「鬼ごっこ」にせよ「電車ごっこ」にせよ、子供たちはその「鬼」や「電車」を渇望しているにもかかわらず、しかしその実在を求めはしない。
現実の太郎ちゃんが、太郎ちゃん=鬼の二重イメージの世界を飛び越えて、本当の鬼が現れるとき、そのゲームは即終了するばかりでなく、そこはもう恐怖の世界である。
ごっこ遊びは、あるイメージを渇望し、そして現実から遊離したイメージの世界に戯れるのだが、その渇望からイメージ自体が実在することは決して望まない。
そのような曖昧な、浮遊した世界にこそ、ごっこ遊びの楽しみはあるのだ。
そして、ごっこ遊びは、「この指とまれ」という瞬間に、そこに参加したものへの黙契と共犯を迫る。
黙契とはすなわち、現実からの遊離に対する暗黙の了解であり、共犯とはつまり「太郎ちゃんは鬼だ」とするイメージングの共謀である。
よってそこでは、夢から覚めること、夢の世界から共犯者たちを引き離す何者も存在してはならないという、排他的な世界がある。
しかしその排他性は、他人=大人から見られ、了解され、保護されて初めて存在するものであり、ごっこ遊びの世界は、そういった他者の承認なしには存在しえない。
そういった渇望と実在、排他性と他者の了解という構造の中に、ごっこ遊びの世界は成立しているのだ。
ぼくの理解のもとに要約したが、おおむねそういう内容だった。
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ぼくは別に、消費社会をダメなものとは思わない。
消費につぐ消費が生む、「空」みたいなものも、その雰囲気こそが問題なのだと思うから。
雰囲気がよけりゃあ、いいじゃん。
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付き合う、ことにはなったものの、それまでの交際期間があまりに短い場合。
そして二人の物理的な距離(バイトとか、学校とかさ)がある場合。
往々にして、メールでの精神的な「交換」というのが頻繁になされ、ヴァーチャルな中での相手との交わりが生まれる。
不思議な感覚だなぁ。
だって、知らないのか知ってるのか、よくわからないもの。
相手のことを。
敬語が、〜くんになり。
絵文字にハートが増え(増やすことが出来るようになり)。
そしてあるとき、やっぱり二人は、出会うんだ。デートするんだ。
そのときの甘美で耽美な倒錯観、陶酔感、「酔い」
とも言えるような「当惑」。
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ぼくたちをつなぐのは、敬意しかないと思う。
「もろい世界」の「紐帯」は、「相手への敬意」しかありえない。
と、思う。
何に依拠するの?
何でその子と付き合うの?
ステータス?またまた、もう、モダンな人ね。およしになって。ね。
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戯れの世界の中で、ぼくたちはゲームする。
真剣に、生死をかけて。
ゆらゆら、たゆたいながら。
2 件のコメント:
毎日の生活が真剣に夢中になれるゲームなんやったら楽しいのかもね。危険性。けど、負けたときのもう一騎がいるなぁ。だって絶対負けたくないし、負ける見込みがあるのなら、勝負しないかもしれない。
ぼくたちの毎日は、ゲーム以上でも、またそれ以下でもない。
そう思うんだよねぇ、思ってしまう。
それは何のペシミズムでも、ましてや現実逃避の楽観主義でもなくて、結局一回一回の勝ち負けも、それよりメタな次元でその勝ち負けを捉えたら、次の一手を指すためのバネになるでしょう?そんな感じ。
じゃあ、今この瞬間が楽しけりゃ、それでいいじゃん。ってね。尺度として。
もちろん僕はそんな大人じゃないから、
一喜一憂
ゆらゆらたゆたいながら笑ったり泣いたりするんやけどね。
コメント、ありがとう。
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